人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

カフカ「きみと世界の戦いでは」

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「きみと世界の戦いでは」とフランツ・カフカ(1883-1924)は言う、「世界に加担せよ」。カフカアフォリズムの中でもこれほど解釈し難いものはない。その主な原因は、このアフォリズムが一文だけで完結しておらず、その断片性によって挑発的な解釈可能性を拡げており、一見単純なパラドックスに見せて逆に解釈の偏向を許さない厳密さを要求するからだろう。

だが「きみと世界の戦いでは、世界に加担せよ」とは一見意味不明に思えても仕方がない。「きみ」が世界との戦いに勝つことを望むなら、なぜ世界に加担しなければならないか?また「きみ」が勝利を望まないのなら、わざわざ世界に加担するには及ばない。「きみ」は戦いから投降するだけでよい。ではなぜ「世界に加担」しなければならないか?

世界はどんな文明、どんな環境でもそれぞれの規律によって成り立つ。監獄外の未決囚は手錠をされ腰紐で一列に繋がれて検察局や裁判所に押送され、待ち時間に手錠のまま昼食を食べる。「疑わしきは罰せず」は現実ではなく、被疑者の段階で未決囚は罪人として扱われる。-これがどれほど不条理であり、かつ理にかなった法的処置かは言うまでもない。
これを自分の身に置き換え難い幸福な人も、贈られたら贈り返さねばならない、無心されたら与えなければならない、古い慣習には従わなければならない-といった身近な掟、慣習法や自然法と呼ばれるものに拘束されている、と感じることはあるだろう。また自由やプライヴァシーを制限された状態、すなわち規則。ユダヤ教の時代に律法として体系化され、後にユダヤ教異端派によって福音に精神化されキリスト教の根本理念となったもの。西洋文明2,000年の思想的規範となった、いわば社会全体の監獄化(筆者は信徒である。念のため)。

監獄の中に監獄がある、という状態を想像されたい。大監獄の中でのモラルが小監獄の中では規律として逆転する。この小監獄が膨れあがって大監獄の全体に匹敵する時、乾坤一擲を賭すならば、この居心地悪い世界の矛盾に満ちて不条理な規律に徹底して加担し、鉾とも盾とも使い、非のうちどころのない個人として内部から活路を開くしかない。遵法闘争-その時ようやく「きみ」はあらゆる他人を拒絶し、選び、自由も孤独もわがものとすることができるだろう。カフカの真意はそこだ。それしかない。