人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(20b)アルバート・アイラー(ts)

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中期~後期アイラーの楽歴を追う前に、避けては通れない話題を片づけておこう。アイラーの音楽活動は年収80万円にもならなかった。生前発表のアルバムは6年間で12枚、大半がオリジナル曲にもかかわらずレコードからの収入はほとんどなく、フリー・ジャズ系のジャズマンはたいがいそうだが他人のサポート仕事もなく、クラブ出演の機会もなく、フェスティヴァル形式のコンサートに出られれば良い方だった。渡欧すれば仕事はあるが、お金は大して残らない。
アイラーはコルトレーンから生活費の援助まで受けていた。何より一生裕福な工場経営の実家からの仕送りで暮らしていた。

元々サックスを買い与えたお父さんは息子を応援していたが、お母さんはずっと反対だった。特に次男のドナルド(トランペット)が兄のバンドに入団し、2年と持たず精神疾患で里帰りしてからは母とアイラーの仲は一層険悪になった。
最後のライヴになった仏マグー近代美術館での「ラスト・レコーディング」1970.7(画像3)の静謐な演奏はアイラーの新境地になる可能性もあったが、11月5日の晩にしばらく前から口癖になっていた「おれの血を流して母と弟を救うんだ!」と夫人に叫んでサックスをテレビに投げつけて出ていった。そして足取り不明のまま11月25日にイーストリヴァーで遺体で発見された。死因は不明。日本では三島由紀夫が自決したのと同日だった。

アイラーはESPから66年にコルトレーンのレーベル、インパルスに移籍して死去の前年までに5枚を録音する。66~67年録音の「ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・グリーン」(画像1)はトランペット、ヴァイオリン、チェロを加えた中期アイラー音楽の成果だろう。ほのぼのとした素朴なテーマ・アンサンブルが次第に崩壊し、一気にぐちゃぐちゃになる爽快感がたまらない。次作の「ラヴ・クライ」もまだ独自性を保っている。
だが67年のコルトレーンの死去を境にレーベルはアイラーにR&B路線を提案し、アイラーも企画に乗ってしまう。晩年2年間の録音がそれに当たる。アルバムでは「ニュー・グラス」19688(画像2)、「ミュージック・イズ・ザ・ヒーリング・オブ・ザ・ユニヴァース」1969、「ラスト・アルバム」1969(死後発表)。これらは評価が難しい。今時のクラブではウケるらしいのだが、かつてのアイラーはここにはいない。