人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

離婚のいきさつ(3)

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別れた妻は「あなたは最低の父親でした」と言った。離婚を決め民事訴訟で娘たちの親権もすべて自分のものにした以上、彼女は自分の判断に固執するだろう。その時、ぼくは「それならきみは母親としてどうだった?」と返したのだった。妻はなにも返さなかった。電話でなければぼくもそんなことは言わなかったと思う。

妻と意見が割れた時には、ぼくはいつも妻の判断を尊重してきた。結婚前からそうだった。彼女が決めたなら、その方が結果的にはきっとうまくいく。
離婚は苦痛だったが、ぼくはすでに精神疾患の発症で身心ともにぼろぼろだったから遅かれ早かれ家庭を離れて療養に専念する必要があった。妻はぼくをDV指定対象者にして刑務所にぶちこんだ。後戻りしないように徹底的な態度に出た。刑事から用意された告訴状にも簡単にサインした。せいぜい数日間の拘置と思ったらしい。とんでもない。四か月だ。ぼくはDV防止条令キャンペーンのノルマ達成の好餌になったのだ。

何をもってDV指定対象者とされたのか、ぼくは別居中に被告欠席で行われた民事裁判の内容を知らないからわからない。妻は激すると暴れる女だったが、ぼくが手をあげた、むしろ防いだことは一度しかない。

その晩妻は早く帰れそう、と電話してきたが待っても帰らないので娘たちの夕食を済ませ、妻の帰りは娘たちを寝かしつけてからずっと遅くなった。ぼくは次女の肺炎以来気管支喘息が続き、その頃は毎日自分の点滴に通いながら育児と家事をこなしていた。その体で娘たちの入浴と寝かしつけをするのはきつかった。

「お帰り。お疲れさま-でも遅くなるならそう伝えてくれないか」
ぼくはふらふらだった。妻は黙っていたが、
「そんなこと言われたって仕方ないじゃない!」と突然激し始めた。ぼくは、
「こんな調子でやってたら死んでしまう!」
と妻の肩をつかんで揺すった。先月自殺したシライさんのことがよぎった。娘たちが同級生で、シライさんの奥さんも妻の勤務先と近い都下の多忙な駅前郵便局勤めだった。育児も家事もご主人の一手にかかり、半年間の休職中に鬱になって子供部屋の二段ベッドで縊死した。遺書はなかった。

葬儀では死因に触れる人はなかった。妻は遺体と別れのあいさつをしていたがぼくにはそんな勇気はなかった。次はおれだ、と思いながら娘たちと会場の隅にいた。