人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド雑感(後編)

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当時のアメリカのロック・シーンを見るとビート・グループやフォーク・ロックからガレージ・パンクやサイケデリック・ロックへの移行期で、面白いことにテキサスでガレージ・サイケの萌芽があり、サンフランシスコのバンドはユートピア志向のヒッピーだが、ロサンゼルスのバンドはヒッピー文化を醒めた目で見ていた(ザッパ、ドアーズなど)。共通するのは、この時代には主流ジャズは西海岸で人気があり、どちらの地区でもロック・バンドのプレイヤーとしての力量が高いことだ(それは以降でも言える)。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはニューヨークのバンドだった。こちらではロックの世界もイタリア系やユダヤ系などでかなり志向性が異なり、ジャズもフリー・ジャズが主流で、アンダーグラウンドなバンドほどアート志向が強かった。ヴェルヴェッツのライヴァルにはゴッズやパールズ・ビフォア・スウェイン(画像1「ワン・ネーション・アンダーグラウンド」1967)がいた。ニューヨークのバンドもまた、アンチ・ヒッピーだった。楽器は概して下手だった。

イギリスではヴェルヴェッツとヒッピー文化を混同したハプシャシュ・アンド・ザ・カラード・コート(1967・画像2)が早くも現れ、このアルバムをモデルにしてドイツのアモン・デュールが伝説的傑作「サイケデリックアンダーグラウンド」1969(画像3)を制作する。カン、ファウストグル・グルなどドイツには多数のヴェルヴェット・フォロワーが出現した。イギリスではデヴィッド・ボウイロキシー・ミュージックの登場まで真の影響は現れない(が、ストーンズは既に「ベガーズ~」68でサウンドを模倣している)。

驚くべきはヴェルヴェッツのデビューと同年(1967)にイタリアの有名画家がメンバーを集めて(自分は演奏せず)「マリオ・スキファノの星」(画像4)を早くも制作していることだ。もちろんウォホールの向こうを張ったのだろう。
フランスではフリー・ジャズの影響が強かったので、ヴェルヴェッツ的作品は69年のゴング「マジック・ブラザー」(画像5)まで見当たらない。フリー・ジャズとヴェルヴェッツは似ているようで違う。

日本ではヴェルヴェッツと同時期にジャックスという驚異的な存在がいた。その両者から強い影響を受けたのが裸のラリーズ(画像6)で、輸入盤でしか入手できないバンドでもある。