人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

小津安二郎『浮草物語』(松竹1934)

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『浮草物語』(全)
https://www.youtube.com/watch?v=Iu1kV5ZRk0Q&feature=youtube_gdata_player
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 昭和9年(1934年)には昭和2年(1927年)の監督昇進以来もっとも少ない2本の監督作品しかありませんが(翌年・翌々年も同様、1937年からは年1本)、日本は前年から日中戦争を開始し、ヨーロッパでも33年にヒトラー、34年にムッソリーニ政権が発足しており、すでに三国同盟への動きが始まっていました。有史以来戦争は領土と財産の奪取の手段として行われてきましたが、第一次世界大戦では政治勢力・経済支配のパワー・バランスという威嚇的なものに変わり、第二次世界大戦では北半球世界全体での非戦闘員の一斉大量虐殺という最悪の威嚇行為にエスカレートします。第二次世界大戦ほどの規模ではありませんが、威嚇としての非戦闘員虐殺という手口を人類が覚えてしまった以上、今日でも同様の事態が止まないのは歴史の逆行が不可能なのと同じでしょう。
 柄にもない始め方をしてしまいましたが、『浮草物語』は小津のサイレント期の作品でも『生れてはみたけれど』と一、二を争う傑作と世評が高く、原作者を兼ねる小津自身も戦後にリメイクしている(『浮草』大映1959年)唯一の作品であり、25年も経ってリメイクするくらいだから松竹からの他社への出向作品とはいえ、題材を惜しんで二番煎じで済ませたのではないでしょう。『浮草物語』で小津は三年連続キネマ旬報年間日本映画ベスト・ワンを獲得しました。年間ベスト・ワン作品を同じ監督が三年連続で獲得したのは小津だけになるそうで、キネマ旬報はスウィング・ジャーナルなどと同じで業界誌ですから、評価の基準には純粋に映画の素晴らしさだけとは言えない面があります。たとえば映画人口衰退期には『グッドモーニング、バビロン!』や『ニュー・シネマ・パラダイス』など映画の制作スタッフや映画館をノスタルジックに描いたイタリア映画が外国映画ベスト・ワンになりました(ヒットもしましたが)。しかし『生れてはみたけれど』『出来ごころ』『浮草物語』の三作は景気づけのためのベスト・ワン選出というにはずいぶん苦い作品で、案外その苦さが時代の空気を的確に捉えていたのかもしれません。太宰治の第一短編集『晩年』の刊行は1936年、収録作品の発表は1933年~1936年です。太宰以前にもっとも文学青年の心をつかんでいた梶井基次郎の短編集『檸檬』の刊行が1931年で著者は翌年夭逝、梶井とよく比較された牧野信一は1931年には創作力の絶頂期を迎えますが33年には鬱時代になり、1936年には縊死してしまいます。牧野に私淑したのが坂口安吾でした。小津が尊敬したのは白樺派の作家たちですが、小津と同じ世代の作家たちは今名前を上げたような面々になり、同じ文学という土壌ではむしろ反白樺派として自立しなければならなかったのです。戦後には小津も白樺派の作家たちと直接交流を深めますが、この頃にはモダニズムの作品とヒューマニズムの作品を交互に作っていました。
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 この作品はサウンド版として作られ、主題歌まであったそうですが、現存フィルムはサイレント版です。先に簡単にあらすじを書いておきましょう。田舎町の宿場で客たちが、市川左半次こと喜八(坂本武)の一座が来るってよ、と噂話をしています。労務者ふうの客ばかりなので、個室のない大部屋ばかりの安宿だとわかります。実際後のシーンでは男女区別なく一座全員が一つの大部屋で寝ている場面があります。
 市川一座は総勢十人弱、一座には親子で芸人をしているとっつあん(谷麗光)と富坊(突貫小僧)もいます。アクシデントだらけの田舎芝居ですが、それなりに客も入ります。富坊は子供なので毎回着ぐるみの犬の役です。しかし座長である喜八がこの町に来たのは、巡業にかこつけた目的もあったのです。
 喜八は毎日のように「お得意さん回りだ」と称してかあやんことおつね(飯田蝶子)を訪ね(今回も飯屋のおかみ)、その息子の信吉(三井秀男)を可愛がりますが、実は信吉は20年前に喜八がおつねに生ませた子供でした。二人の間に確執はなく、喜八は毎月養育費(学資)を送金しています。農学校に通う信吉はそれを知らず、遠縁のおじさんとして喜八を慕っています。信吉は実父は赤ん坊の頃亡くなったと信じており、喜八も信吉は旅芸人などが父親ではない、カタギに育ってほしいと思っています。
 ですが喜八の現在の情婦である一座の姉姐・おたか(八雲美恵子)が、親分は毎日かあやんの店に行くねえ、かあやんのところなら仕方ないよ、と会話していたとっつあんを問い詰め、嫉妬したおたかは喜八をなじりますが喜八は「お前には関係ねえ」と突き放します。喜八は信吉と出歩き人目につくのも平気で、呑気に並んで川釣りを楽しんだりしています。この長い川釣りのシーンは喜八の魚籠が流されるまで続きますが、幸福で微笑まされるシーンです。

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 おたかは妹分の若いおとき(坪内美子)を連れてかあやんの店に乗り込んできます。帰宅した信吉は怪訝に思います。喜八さんが来てるだろ、と座敷の奥から呼び出された喜八は、おときを先に返し、それからおたかと大雨の降る道を挟んで大喧嘩になります。この作品は名場面が多いことでも知られますが、このどしゃ降りの中の大喧嘩は生臭すぎる演出はおろか、雨のシーンはほとんど入れないことでも有名な小津作品では異例です。
 喜八はさっきの男の子があんたの子かい、と絡んでくるおたかをなんとか言いくるめて一緒に宿に帰ります。気の治まらないおたかはおときに、あの坊やを誘ってごらん、とおこづかいを渡します。翌日、おときは登校する信吉に晩に待っているから、と誘い、信吉は帰宅後にためらいますが夕食後におときに会いにきます。

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 その頃から連日の雨続きになり、客足がばったり遠のいてしまいます。あがったりになり、ふてくされ、生活の不安が一座を襲います。喜八は毎日かあやんの店に通い、そろそろこの土地も引き上げなきゃならないが信吉が最近ちっとも帰らないな、とこぼします。
 おときは信吉に別れが近いことを話し、信吉は母を説得しておときを家に迎えるから、と決心を告げます。いよいよ一座は解散することになり、衣装を売り払って旅賃を分け合います。一座の舞台のシーンでギャグの小道具になっていたのがこのさまざまな衣装ですから、質屋(古着屋?)がバサバサと買い値をつけていくこのシーンは滑稽でもあり(質屋が犬の着ぐるみには考えこんでしまうギャグなど)しかも即物的に哀切です。続いて全員が車座になり今後の身の振り方を話しあいます。あてのある一座に移る者、転職する者、国に帰って元の仕事に戻る者。カタギになれりゃそれが一番いいやね、と座長である喜八が苦く締めます。

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 おたかの言いつけで信吉がおときにぞっこんだと知った喜八はおときを責めますが、おときは最初はからかうつもりだったけれど今は本当に信吉を恋している、と打ち明けます。喜八はおときを罵り、かあやんの家に別れを告げに行きます。もう旅芸人は辞めて親子三人で暮らそうよ、と嘆願するおつねに、喜八は今さら父親面できるかよ、一旗上げたら帰ってくらあ、と告げます。信吉が二階から下りてきて喜八とおつねは黙りますが、おときが訪ねてきてお詫びに親方にお供させてください、と請願するので喜八はおときをはたき、色めき立った信吉と喜八にかあやんが割って入って信吉に、お前が今手を上げたその人が本当のお父っさんなんだよ、と教えます。20年も僕と母さんを放ったらかしにする父さんなんかあるものか、と泣きながら信吉は二階に戻ります。おときにも寝耳に水の話で、親方すいません、を繰り返します。喜八はおときに手を上げたことを謝り、信吉のいう通りだ、カタギになったら帰ってくるよ、この子は優しい子だから頼むよ、と、おときをかあやんに託します。かあやんは慌てて二階に信吉を呼びに行き「本当はお前ももうわかったろう?」と、おときと信吉と三人で戸口から喜八を追いますが、もう姿はなく、「あの人はもう何度も同じ気持でここから出ていったんだよ」と言います。この台詞はトーキーだったら満場の涙をそそったでしょう。サイレントでもこれは泣けます。

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 おたかはうらぶれた風情で駅の待合室に座っています。喜八がやってきて当たり前のように隣に座ります。お前さんに私も連いていっていいかい、とおたか。喜八は承諾し、二人で膝に乗せた折り詰めの寿司を黙々と食べます。
 ……と、これで映画は終わりますが、実はこの作品は過大評価されてはいないかと、以前は軽い反感を抱いていました。現実的に喜八とかあやんのような関係があり得るか、飯田蝶子の存在感に素晴らしい説得力があるため自然に観てしまいますが、過去に関係があったというより、これでは文字通り喜八にとっても「かあやん」です。喜八は家出していた長男である方がまだ自然でしょう。
 佐藤忠男小津安二郎の芸術』に小津自身が『浮草物語』の原案と語っているアメリカ映画『煩悶』との比較があり、このジョージ・フィッツモーリス監督作品(原題"The Barker"1928)との相違を的確に指摘しています。『煩悶』ではかあやんに当たる母親はおらず、純粋に父と息子の愛情の物語になっているのに対し、『浮草物語』はかあやんの存在のため父と息子の愛情という太い柱で押せない代わりに、喜八とおたかとかあやんの三角関係が入ることになった。同じ涙でも『煩悶』が男くさく線が太いのに対し、『浮草物語』は女々しく線が細い。喜八は女に甘えている男だし女も喜八に甘えている、とした上で、佐藤氏はそれが正確に描かれている点で観客の心に訴える成功作、と高く評価しています。
 この小文は感想文の宿題みたいなものですが、映画を観ている最中よりもストーリーやエピソードを順に詳しく追っているうちに、徐々に感動が深まってくるのを感じました。配役で今回感心したのは、おたかを演じる八雲美恵子さんです。『その夜の妻』の健気な妻役とも『東京の合唱』の世慣れない感じの主婦役とも違う、あだっぽい憎めなさのある敵役で、幅のある役柄を演じられる女優さんです。憎めなくなるのは結末まで観てからで、観ている最中は嫌な女に見えるからやはり大したものです。