これは去年の撮影で、うちから10分ほど歩いた自然公園の桜だが、だいたいどの市町村にも桜の名所というのはあると思う。どの町の、どの桜を他の桜と較べてあれこれ言うのは野暮であって、どんな桜も地元では春を告げる大事な役目を果たしているのだ。
もちろん桜の大半は人工的に植樹されたもので、桜のためにゆったりと場所を取って植えられている。過保護に管理されているくらいの桜もあるだろう。桜に託されている意味は日本では珍しいくらい豊富で、どの花にも意味づけしてしまう西洋文化からするとなぜ桜ばかりが特別視されるのか疑問かもしれない。
桜の樹の下には、もともと意味ありげなものは何もない。桜の花の満開の下で多幸感が溢れる気がしても、結局それも錯覚にすぎないだろう。四月は無慈悲で、まだあどけない児童をも容赦なく進級させる。無駄なほど花びらをまき散らしながら、去年も今年も同じように咲く。楽しむ人にも楽しめない人にも咲くのだ。