人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

日本の自然主義小説

 日本の初期の現代小説は二葉亭四迷浮雲』1887、森鴎外舞姫』1890、樋口一葉たけくらべ』1895と続くが、大衆的人気は尾崎紅葉幸田露伴にあった。「紅露時代」とすら喧伝されたらしい。紅葉の処女作『二人比丘尼色懺悔』、露伴の処女作『風流仏』はともに1889年発表だが、たちまち彼らはベストセラー作家になった。特に紅葉は優れた弟子を多く育て、その機関誌の名前を取って硯友社文学という呼び名もつけられたほどだった。

 紅葉の作風は江戸時代の世相小説の流れをくむ戯作的なものだったが、鴎外を指導者とする西洋文学思潮の輸入に対して『心の闇』1893で陰鬱な心理小説に着手する。紅葉の弟子たちの広津柳浪『黒蜥蜴』、川上眉山『うらおもて』、泉鏡花『外科室』が発表されたのが『たけくらべ』と同年の1895年で、一葉最後の傑作となった翌年(没年)の『わかれ道』も硯友社文学の新傾向に軌を一にしたものだった。これらは当時題材の暴露性と悲劇的な内容から「深刻小説」と呼ばれた。

 深刻小説は日本のプレ自然主義小説と位置づけられるものだが、明確に西洋自然主義小説を意識して書かれたもっとも早い作例は紅葉門下の最年少だった小栗風葉『恋慕ながし』1898だろう。同年に国木田独歩『武蔵野』『忘れえぬ人々』も発表されている。小杉天外の『はつ姿』1990と『はやり歌』1902、永井荷風『地獄の花』1902、田山花袋『重右衛門の最後』1902は本格的に西洋自然主義の移入を意図して書かれた作品であり、特に田山花袋自然主義私小説『蒲団』1907の是非を置いても、島崎藤村徳田秋声正宗白鳥・岩野泡鳴・近松秋江ら同世代の自然主義作家の誰よりも見劣りする小説家だったが、それでも生涯に40作以上の長編小説を書き、平凡さによってかえって日本的自然主義小説の代表者と目されてしかるべきだろう。藤村を始めとする優れた作家たちは自然主義の制約を超えた達成を示しているので典型とは見做しがたいのだ。

 実はここまでは前置きで、ではなぜ深刻小説や初期自然主義の作家たちは花袋を除いて本格的な自然主義の追求に進まず、花袋に刺激されて詩人から小説家に転じて処女長編『破戒』1906で大反響を呼んだ藤村、さらに『破戒』の大評判から苦し紛れに書かれた花袋の自己暴露小説『蒲団』1907の2作がきっかけに徳田秋声正宗白鳥、岩野泡鳴、近松秋江ら新しい自然主義作家が取って代わったかについては定説らしきものがないのだ。花袋も実は硯友社から文学界にデビューしており、花袋・秋声・藤村は樋口一葉(1872~1896)より一歳年長ですらある。花袋の場合は硯友社時代には頭角を顕さなかったのがむしろ西洋自然主義の移入に向かうには良かったのかもしれない。

 西洋自然主義小説の移入については長谷川天渓や島村抱月の論考があるが、明治末の時点で最新の西洋文学研究としてフランス自然主義思潮を論じたものに過ぎず、実作者が日本で西洋自然主義の方法で作品をものするためには何の指針にもなるものではないのに対し、花袋の『露骨なる描写』1904、『描写論』1911は遥かに自然主義の日本文学への移入について具体的な指針を表明している。早とちりだったり誤謬が多々あるとはいえ、自分の頭で考えるというのはそういうことなのだ。日本の自然主義小説については当時の西洋文学研究者の目はヨーロッパばかり向いていて何の参考にもならない。論考と実作との乖離がわかるだけだ。

 まず日本の自然主義小説の実作を読まなければ話にならない。藤村の『破戒』1906、『春』1908、『家』1910、『新生』1919、『夜明け前』1935の5大長編はもちろんだが、花袋の長編なら三部作『生』『妻』『縁』1908~1910、『田舎教師』1909、『時は過ぎ行く』1916、『一兵卒の銃殺』1917、『残雪』1918、『再び野の草に』1919、『百夜』1927は落とせないだろう。花袋歿後(1930年没)の1935年に刊行された『百夜』の序文で、島崎藤村は花袋の傑作長編を『生』『田舎教師』『時は過ぎ行く』『一兵卒の銃殺』『百夜』としている。花袋の危篤を見舞いに来た藤村は「花袋君、死んで行く気持はどうだい」と訊ねて周囲を唖然とさせ、花袋も花袋で「それはもう、嫌なものだね」と返答したという。

 花袋と藤村だけで長くなってしまった。秋声、泡鳴、秋江については次回に譲る。また、初期自然主義小説の実験性を示す小杉天外『はつ姿』『はやり歌』、永井荷風『地獄の花』『夢の女』についても改めて言及したい。ひさびさの文学関連の作文しているとなんだか学生に戻った気がする。田山花袋を読み返したくなる。