人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ピーナッツ畑でつかまえて(75)

 第一章(回想)
 ある暗い嵐の夜でした。
水皿の水にぼくのかおがうつっている。ぼくはのどが渇いているけど、この水をのみほせばぼくのかおは視られなくなる。ならぼくを視ているほうがいいや。そうナルシシストの小型ビーグル犬は考えると、そろそろおやすみの時刻かな、と犬小屋の屋根に億劫そうに上りました。彼は閉所恐怖症なのです。
 空模様はまずまずで、犬小屋には実は広大で快適な地下室もあり、タイプライター(執筆に関しては、彼はアンチ・パソコン派でした)を据えたデスクの正面には不運な火災で焼失するまではゴッホの小品が飾ってあり、やむなくビュッフェに変えてからは自分の創作力も低下しているように思えるのでした。「ある暗い嵐の夜でした……」
 彼は脊柱ががっちり犬小屋の屋根の峰を押さえこんでいるのを背筋の感触で確かめると、この小屋を彼に与えたくりくり坊主の少年のことを思い出し、自分ほどの知性ある犬、なにしろ少年の知人の少女には人間だと思われていたことすらあり、かつての戦線では撃墜王として勇名を轟かせ、探偵経験も弁護士資格も持ち、絶版ながら小説の著作も一冊ある(「ある暗い嵐の夜でした……」)。なのになぜあの少年はくりくり坊主としか覚えられないのだろう、と小首を傾げました。
 チャーリーも小首を傾げました。で?
 まあそれは自分のせいではないのだろう、とこの自惚れの強い小型ビーグル犬は気持よさそうに伸びをし、自分が彼らにどう呼ばれているかを、心地良い優越感とともに思い巡らしました。くりくり坊主とその仲間たちの、誰を取っても彼の名前と結びつけずには人物像が浮かばないほど、世界は彼を中心に形成されていたのです。
 ではもしあの少年の名がシルヴァーまたはゴールドだったら?あるいは陰影深いアジュールやグレイやブラックなら?色鉛筆や草花のようにレッド、ローズ、パイン、ミント、グリーン、ヒース、プラム、ガーネットだったら?
 ……ですがそれはあり得ないことでした。 少年の名前はチャールズ、愛称チャーリー。そして名前はブラウン、変哲もないブラウンだったからです。彼は何の役目も持たずにこの世界に生まれ、たまたま知らないうちにチャーリー・ブラウンという個性になったのでした。それでもスヌーピーにとってはただのくりくり坊主でしかなかったのです。
 ……チャーリーは顔を上げました。スヌーピーの姿はもうありませんでした。。