人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Charles Mingus - Mingus at the Bohemia (Debut, 1955)

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Charles Mingus - Mingus at the Bohemia (Debut, 1955) Full Album : http://youtu.be/7OMjgu7U3dQ
Recorded live at Cafe Bohemia, NYC, December 23, 1955
Released Debut DEB-123
(Side A)
A1. "Jump Monk" (Charles Mingus) - 6:44
A2. "Serenade In Blue" (Mack Gordon, Harry Warren) - 5:57
A3. "Percussion Discussion" (Mingus, Max Roach) - 8:25
(Side B)
B1. "Work Song" (Mingus) - 6:16
B2. "Septemberly" (Harry Warren, Al Dubin / Jack Lawrence, Walter Gross) - 6:55
B3. "All The Things You C♯" (Jerome Kern, Oscar Hammerstein II / Sergei Rachmaninoff) - 6:47
(CD Bonus Tracks)
1. "Jump Monk" Alternate Take (Charles Mingus) - 11:38
2. "All The Things You C♯" Alternate Take (Jerome Kern, Oscar Hammerstein II / Sergei Rachmaninoff) - 9:45
[Personnel]
George Barrow - Tenor Sax
Eddie Bert - Trombone
Mal Waldron - Piano
Charles Mingus - Bass
Willie Jones - Drums
Max Roach - Drums ("Percussion Discussion" only)

 ニューヨークの有名ジャズ・クラブ、カフェ・ボヘミアで収録されたライヴ・アルバムの名盤は50年代に数多く、ジョージ・ウォーリントンやジャズ・メッセンジャーズケニー・ドーハムハードバップ系ジャズのイメージが強いが、チャールズ・ミンガスのこのライヴ盤はジョージ・ウォーリントンと同じ1955年の収録ながら、ハードバップを代表する『ジョージ・ウォーリントン・クインテット・アット・カフェ・ボヘミア』(55年9月)とはまったく異なる方向性を持つ。ウォーリントンは白人ピアニストだが演奏は最先端の黒人ジャズであるハードバップで、ライヴ・アルバムの成功はメンバーの人選によるところも大きかった。ドナルド・バード(トランペット)、ジャッキー・マクリーン(アルトサックス)、ポール・チェンバース(ベース)、アート・テイラー(ドラムス)、つまりウォーリントン以外は全員黒人の有望新人ばかりだった。実際ポール・チェンバースはすぐマイルス・デイヴィスのバンドに引き抜かれて若手No.1ベーシストと目されるようになるし、アート・テイラーはプレスティッジ・レーベルのハウス・ドラマーになる。バードとマクリーンについては言うまでもない。
 マクリーンは1951年~55年まで断続的にマイルス・デイヴィスのバンドに起用されていたが、56年1月末にはチャールズ・ミンガス・ジャズ・ワークショップのメンバーとして『直立猿人』の録音に参加し、自己名義のアルバムを録音する一方で56年秋からはアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズに加入して音楽監督を勤め、1956年と57年の2年間で30枚の参加アルバムを残している。当時ジャズがいかに薄利多売な商売だったかに驚く。

 56年1月30日に『直立猿人』の録音が行われ、それが選曲もアレンジも練り込まれたアルバムなのを思うと、『ミンガス・アット・ザ・ボヘミア』の収録された55年12月23日にはアトランティック・レーベルへの契約はもちろん、メンバーの人選もアルバムの構想もほぼ確定していたのは間違いない。『アット・ザ・ボヘミア』と同時に収録された姉妹編『ザ・チャールズ・ミンガスクインテットマックス・ローチ』収録曲は、

A1. "A Foggy Day" (George Gershwin, Ira Gershwin) / A2. "Drums" (Charles Mingus, Max Roach) / A3. "Haitian Fight Song" (Mingus) / A4. "Lady Bird" (Tad Dameron)
B1. "I'll Remember April" (Gene de Paul, Patricia Johnston, Don Raye) / B2. "Love Chant" (Mingus)

 から成り、『直立猿人』収録曲はA面が『直立猿人』『ア・フォギー・デイ』、B面が『ジャッキーの肖像』『ラヴ・チャント』だから『ア・フォギー・デイ』と『ラブ・チャント』はそのままスタジオ・ヴァージョンに先立つライヴ・ヴァージョンになっている。『直立猿人』は『ザ・ジャズ・エクスペリメンツ・オブ・チャールズ・ミンガス』の『マイナー・イントルション』とこの『アット・ザ・ボヘミア』冒頭の『ジャンプ・モンク』、B面冒頭の『ワーク・ソング』を合わせて再アレンジし、新しい曲にしたもの。4/4からブリッジ・パートが6/8に変化する手法は15年後にイギリスのロック・ミュージシャンによってプログレッシヴ・ロックの定番的手法となった。
 画期的アルバム『直立猿人』の、スタジオ録音に先立つライヴ・ヴァージョンという側面のある『アット・ザ・ボヘミア』『ザ・チャールズ・ミンガスクインテットマックス・ローチ』だが、試作にとどまらず独立した価値を持つのは、ライヴでありながら完成度の高い演奏と、ライヴならではの実験性の高い曲が同居しているからでもある。実験性とは、この場合パフォーマンス性と呼んでもよい。『アット・ザ・ボヘミア』では『パーカッション・ディスカッション』がそれに当たり、ベースのアルコ(弓弾き)奏法とピチカート奏法を往復するミンガスに、マックス・ローチのドラムスが変幻自在に応じる。10年後には一般化するフリー・ジャズをもう1955年にやっている。

 ミンガスはバンドリーダー、作曲家でベーシストだから無伴奏ベースのイントロで始まる曲が多いが、セロニアス・モンクを讃えた『ジャンプ・モンク』はその中でも特にかっこいい曲だろう。実はそういうタイプの曲はサビのリフ以外は特定のテーマ・メロディは決められておらず、テナーサックスのジョージ・バーロウもトロンボーンのエディ・バートもアドリブで入り始めるのだが、このバーロウ&バートのコンビはミンガス史上もっとも地味で過小評価されたフロント・ラインで、何しろテナーにトロンボーンでは低音域に固まりすぎる。その上ミンガスがリーダーだけあってベースが目立つアレンジで、しかもピアノは低音域でコンピングするタイプのマル・ウォルドロンとくる。ミンガスはトロンボーンバリトンサックスなど低音大好きなリーダーで、バーロウもバリトンサックス奏者として知られるがさすがにトロンボーンバリトンでは低すぎるので、バリトンに近いニュアンスでテナーを吹き、必要な場面ではテナーの高音域を吹いている。
 冒頭の『ジャンプ・モンク』もサビまでピアノが入らなかったが、次の『セレナーデ・イン・ブルー』もテナーとトロンボーンの合奏がコードを形成してからピアノが入ってくる。ピアノが引き継いで本格的なイントロになり、イン・テンポになるが、ピアノのコンピングもハードバップ的にリズムをあおるものではなく、テナーとトロンボーンのアドリブもソロのリレーではなくアンサンブルを即興するものなのがハードバップとは異なる。

 曲名が即物的で惜しい『パーカッション・ディスカッション』でA面は終わり(ベースは一部オーヴァーダビングされていると思われる)、B面の『ワーク・ソング』はミンガス流のジャズによる交響詩で、2管のリフの微妙なニュアンスも素晴らしいものだが、バートのソロ、ミンガスのソロのバックで蠢くようなウォルドロンの陰鬱なピアノが素晴らしい。クロージング・テーマではウォルドロンは拳でピアノの低音部を打鍵するクラスター奏法までやっている。
 次の『セプテンバリー』はミンガス得意の2曲同時演奏で、スタンダード『セプテンバー・イン・ザ・レイン』と『テンダリー』をトロンボーン(前者)とテナーサックス(後者)に分けて演奏し、全体的には『テンダリー』のテーマ旋律を『セプテンバー・イン・ザ・レイン』のコード進行からリハーモナイズしたような曲想といえる。
 アルバム最後の『オール・ザ・シングス・ユー・C♯』はスタンダード『オール・ザ・シングス・ユー・アー』にラフマニノフの『プレリュード嬰ハ短調』を足し、さらにピアノによるバッキング・パートはドビュッシーの『月の光』から転用したモチーフも弾いている、と大変なことになっている。『オール・ザ・シングス・ユー・アー』はビバップの定番曲だから、ビバップをさらに複雑化したものをあえて演ってみせたものだと言っていい。全員がソロをまわし、ミンガスのベース・ソロもギター並みに弾いている。4バース・チェンジもやっている。
 
 ミンガスはロサンゼルス出身で、ニューヨークを発祥とするビバップには遅れて加わったジャズマンだった。遅れて加わった分だけチャーリー・パーカーバド・パウエルらトラブルメーカー的天才ビバッパーたちにも強く傾倒し、憧憬が深く、寛大だったという皮肉まじりの証言もある(『マイルス・デイヴィス自叙伝』)。チャーリー・パーカーが急逝したのは1955年3月で、同年中にミンガスはジャズ・ワークショップ・レーベルからパーカーの発掘ライヴ『バード・アット・セント・ニックス』をリリースしている。黒人ジャズの尖鋭はハードバップ・スタイルに移っていたが、ハードバップビバップの洗練化のようでいて、純粋なバップ・スタイルのジャズマンを置き去りにするようなものだった。
 さらにミンガス自身の音楽的試みは、ビバップ時代もハードバップ時代も孤立したものだった。また、ミンガスの音楽から発展した系譜も生まれなかった。その原点とも言うべき、完成度の高い『アット・ザ・ボヘミア』は、いまだに内容に見合うだけの評価もされず、広く聴かれていない感がある。