人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Love - Da Capo (Elektra, 1966)

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Love - Da Capo (Elektra, 1966) Full Album : https://youtu.be/iz6VfFNLAlM
Recorded September 27- October 2, 1966
Released November 1966, Elektra EKS-74005(Stereo)/EKL-4005(Mono)
All tracks composed by Arthur Lee, except where indicated.
(Side A)
1. "Stephanie Knows Who" - 2:33
2. "Orange Skies" (Bryan MacLean) - 2:49
3. "??Que Vida!" - 3:37
4. "7 and 7 Is" - 2:15
5. "The Castle" - 3:00
6. "She Comes in Colors" - 2:43
(Side B)
1. "Revelation" (Lee, Bryan MacLean, Johnny Echols, Ken Forssi) - 18:57
[Personnel]
Arthur Lee - lead vocals, harmonica, guitar, drums, percussion
Johnny Echols - lead guitar
Bryan MacLean - rhythm guitar, vocal
Ken Forssi - bass
Alban "Snoopy" Pfisterer - organ, harpsichord
Michael Stuart - drums, percussion (On "7 and 7 Is", either Pfisterer or Lee plays drums. Stuart and Cantrelli do not appear.)
Tjay Cantrelli - saxophone, flute, percussion
with
Dave Hassinger - engineer
Bruce Botnick - engineer

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 (Love - "Da Capo" LP Liner Sleeve)
 ラヴのデビュー・アルバム『ラヴ』が録音(1965年12月、66年1月)・発売(1966年3月)の時点でビートルズの最新作は『ラバー・ソウル』(アメリカ盤65年12月)、ローリング・ストーンズは『アウト・オブ・アワー・ヘッズ』(アメリカ盤65年7月)と『ディッセンバーズ・チルドレン』(アメリカ編集盤65年11月)、ザ・フーはデビュー作『マイ・ジェネレーション』(65年12月)、ボブ・ディランは『追憶のハイウェイ61』(65年8月)、ザ・バーズは『ターン・ターン・ターン』(65年12月)だった。ラヴの意外な先進性と当時のロックの最前線のすごさがよくわかる。ラヴはデビュー作でビートルズストーンズボブ・ディランザ・バーズと並ぶか追い抜く水準に達してしまった、とすら言える。
 そしてデビュー作発売から早くも半年後の66年9月・10月には、ストーンズの『アウト・オブ・アワー・ヘッズ』『ディッセンバーズ・チルドレン』『アフターマス』のエンジニア(当時はプロデューサーはマネジメントを表し、現在使われる意味のサウンド・プロデュースを勤めていたのはエンジニアだった)デイヴ・ハッシンガーをエレクトラ・レーベルのハウス・エンジニアのブルース・ボトニックとの共同エンジニアに迎えたセカンド・アルバム『ダ・カーポ』が録音され、11月に発売された。

 デビュー作からセカンド・アルバムの間に、ビートルズは『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』(アメリカ編集盤66年6月)と『リボルバー』(アメリカ盤66年8月)、ストーンズは『ビッグ・ヒッツ』(アメリカ編集盤66年3月)と『アフターマス』(アメリカ盤66年6月)と『ガット・ライヴ・イフ・ユー・ウォント・イット!』(アメリカ独自盤66年11月)、ボブ・ディランは『ブロンド・オン・ブロンド』(66年5月)、ザ・バーズは『霧の五次元』(66年7月)が発表されている。他に特筆すべきはビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』(66年5月)とフランク・ザッパマザーズ・オブ・インヴェンジョン『フリーク・アウト!』(66年8月)で、ザ・バーズやラヴとともにロサンゼルスのトップ・バンドであり、60年代アメリカン・ロックの記念碑的作品となる。また66年12月にはザ・フー『クイック・ワン』とクリームのデビュー作も発表されたが、ロサンゼルスから渡英してきたジミ・ヘンドリックスのデビュー・シングル『ヘイ・ジョー』がぶっ飛ばしてしまう。
 やはりロサンゼルスのザ・ドアーズとバッファロー・スプリングフィールドのデビュー・アルバムは67年1月で、ニューヨークからのフランク・ザッパへの返答ともいうべきヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデビュー作が67年3月、サンフランシスコとロサンゼルスからメンバーが集まったモビー・グレープは67月6月のデビュー作だからだいぶ遅い。しかし、これら画期的な名盤も67年6月のビートルズサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で場をさらわれてしまい、同作は67年度グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞する。ビートルズに対抗できるのは唯一新人ジミ・ヘンドリクスだけで、67年5月のデビュー・アルバムは全米年間アルバム・チャートNo.1になり、11月の『ボールド・アズ・ラヴ』(クリームのセカンド・アルバムと同月)もビートルズと異なる土壌で対抗し得る唯一のサウンドを持っていた、といえる。

 しかしまあ1966年は、3月にラヴのデビュー作が出てすぐに5月にはディランの『ブロンド・オン・ブロンド』とビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』が出れば、6月にはストーンズの『アフターマス』が出て、7月にはザ・バーズ『霧の五次元』が出て鼻の差で『ラバー・ソウル』や『アフターマス』を抜いたと思いきや8月にはビートルズリボルバー』とザッパ&マザーズ『フリーク・アウト!』が出てしまう。ブライアン・ウィルソンがリードヴォーカル・全作曲・アレンジ・プロデュースを手がけていたビーチ・ボーイズがワンマン・バンドゆえに『ペット・サウンズ』で煮詰まり、ブライアンが鬱病から薬物依存症になり統合失調症に進んで復帰まで20年を要したのは有名な話だが、こうも凄まじいトップ争いがあったのではビートルズよりデビューも成功も早かったビーチ・ボーイズのリーダーとしては想像を絶するプレッシャーがあっただろう。
 ラヴの場合はビーチ・ボーイズと逆で、セカンド・アルバムからサード・アルバム『フォーエヴァー・チェンジズ』(67年7月~9月録音・11月発売)の間にリーダーのアーサー・リー以外のメンバー全員がまともに演奏できないほどおかしくなってしまった。デビュー作と『ダ・カーポ』の間でもメンバー・チェンジがあったが『ダ・カーポ』から『フォーエヴァー・チェンジズ』の間でもメンバー・チェンジがあり、かろうじて準リーダーのブライアン・マクリーンが名曲を書いてきた程度で、名盤『フォーエヴァー・チェンジズ』はセッション・ミュージシャンの演奏とメンバーの演奏が混在している。純粋にメンバー自身による名盤はデビュー作と『ダ・カーポ』で、第4作『フォー・セイル』ではアーサー・リー以外のメンバーは全員リーがラヴ結成以前に組んでいたバンドのメンバーを呼び戻した新生ラヴ、またはプレ・ラヴ(オリジナル・ラヴでもいいが)になり、旧友ジミ・ヘンドリックスの影響を受けたハード・ロックになっていた。以降のラヴ、またはアーサー・リーのソロ名義作はジミに影響されたブラック・ロック色が濃く、黒人ミュージシャンがブルース系ではないパンキッシュなフォーク・ロックを創作するユニークさはやっと晩年になってリーの感覚に戻った。

 この『ダ・カーポ』の多彩さはビートルズが『リボルバー』、ストーンズが『アフターマス』を最新作としていた66年秋には驚異的なもので、『リボルバー』に刺戟されたストーンズキンクスの『フェイス・トゥ・フェイス』(66年11月・『ダ・カーポ』と同月発売)の作風をヒントに制作したフォーク・ロック風作品『ビトウィーン・ザ・バトンズ』(アメリカ盤67年1月)は『ダ・カーポ』に匹敵する多彩なアルバムだが、全英3位・全米2位とセールス的には成功するも完成度や楽曲の水準はストーンズとしてはまちまちで、『ダ・カーポ』が明らかに勝っている。ただし『ダ・カーポ』は『アフターマス』を意識したアルバムで、B面全面を使ったインプロヴィゼーション・ブギ『リヴェレイション』(ハウリン・ウルフの『スモークスタック・ライトニング』の改作)は『アフターマス』の10分におよぶブギ『ゴーイン・ホーム』、ディラン『ブロンド・オン・ブロンド』のD面全面の『ローランドの悲しい目をした乙女』、ザッパ&マザーズ『フリーク・アウト!』のD面全面の『モンスター・マグネットの息子の帰還』に刺激されたものだった。同じエレクトラ・レーベルのバタフィールド・ブルース・バンド『イースト・ウェスト』(66年8月)の13分のタイトル曲の影響もあるだろう。エレクトラではドアーズのデビュー作の『ジ・エンド』、セカンド・アルバムの『音楽が終わったら』が続く。片面1曲というとエレクトラ同様ワーナー傘下のアトランティックのサブ・レーベル、アトコでB面がタイトル曲1曲で大ヒットしたアイアン・バタフライの『イン・ア・ガダ・ダ・ヴィダ』が有名だが、68年6月とずっと遅く、これまで上げた一流バンドとはバンドとして比較にならない。ただし『ガダ・ダ・ヴィダ』1曲だけは異様にかっこいい。
 だが『ダ・カーポ』の真価はA面の6曲にあり、どの曲も多彩な作風が成功した名曲で、ラヴのベスト・アルバムが編まれると絶対落とせない。2枚組ベスト盤だと『ダ・カーポ』A面全曲、CD2枚組なら『フォーエヴァー・チェンジズ』全曲も必ず入るのだが、個々の曲の魅力では『ダ・カーポ』のA面が上だろう。ストーンズの『アウト・オブ・アワー・ヘッズ』『アフターマス』の実質的サウンド・プロデューサーだったデイヴ・ハッシンガーの手腕は素晴らしく、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッドもハッシンガーのエンジニアリングでデビュー作とセカンド・アルバムを制作することになる。ハッシンガーはロサンゼルスのエンジニアでRCAスタジオ社員だがRCAは外注も受けるし、ビートルズみたいなサウンドにしたくても英EMI社員プロデューサーのジョージ・マーティンは借りられない。また、ビートルズは憧れだがハッシンガーの手がけたストーンズサウンドには具体的な影響力があったことでもある。ストーンズも確実にラヴを聴いていて、後の『サタニック・マジェスティーズ・リクエスト』(67年12月)収録の『シーズ・ア・レインボー』は『ダ・カーポ』収録曲『シー・カムズ・イン・カラーズ』へのアンサー・ソングになっている。同曲はマドンナの『ビューティフル・ストレンジャー』の原曲ともいえ、ザ・フーターズのカヴァーもある。『オレンジ・スカイ』はスティーヴィー・ワンダーの『マイ・シェリー・アモール』に先立って曲調の類似が指摘され、『セヴン・アンド・セヴン・イズ』はラヴ最大のヒット曲(全米33位)のガレージ・パンク曲、『ステファニー・ノウズ・フー』は発売すぐにザ・ムーヴがEPでカヴァーしており、ラヴの存在とはミュージシャンズ・ミュージシャン的バンドだったのが想像される。