スナフキンが谷に着いたのはつい数時間前のことで、この土地で自分を待ち受けている運命は考えてもいませんでした。スナフキンはいつでも風に流れてたどり着いては風に流れて旅に出るのが流儀で、それがあまりにくり返しくり返し果てしなく長い旅路だったために自分の年齢すら忘れてしまっていたほどでした。その上スナフキンは過去の記憶を蓄積しないタイプの放浪者だったので来たことのある土地にまた来ても初めてのような感覚しかなく、またスナフキンが去った後には誰の記憶からもスナフキンの存在は消えてしまうので、たぶん放浪を続ける限りスナフキンは今いる土地で関わりあいを持っている相手との間でつかの間の実在性以上のものはないのです。スナフキンが風のような放浪者を極めた存在なのはまさにその一過性、稀薄さによるものでした。過去のスナフキン、現在のスナフキン、未来のスナフキンには同一性すらないかもしれません。そうしたスナフキンの属性からすれば、スナフキンとは存在自体に同一性はなく属性だけが行動している状態であるとも言えるので、本質的に放浪者とは誰もがスナフキンであり、放浪者の総称をスナフキンと言い換えてもいいでしょう。
ムーミン谷とスナフキンの関係とはそういうものでした。スナフキンからすればスナフキンと世界との関係と呼ぶべきですがスナフキンのいる全世界はムーミン谷であり、スナフキンの放浪は常にムーミン谷からムーミン谷への放浪で、それはスナフキンがムーミン谷という世界でのみスナフキンという存在だったからです。ムーミン谷以外の場所でスナフキンがスナフキンではありえない、という簡単な理由から、スナフキンは存在していました。
その理屈はわからないでもない、とヘムレンさんはあごをひねって、私たちだってムーミン谷あっての私たちだからな。だが署長は納得するかな?
それがこの男の身元保証になればですがね、とヘムル署長。しかしこの状況ではどう見てもこの男が怪しい。流れ者だという理由で嫌疑をかけるのは何だが、谷の知りあいを疑いたくはないでしょう。
あなたがたの言い分もわかる、とジャコウネズミ博士。ただし認めざるをえないのは、ムーミン谷に存在するすべてはムーミン谷に属する、ということだ。この男を私たちは知らない、だが故にこの男はムーミン谷の放浪者であり、この怪事件に何の動機も持たず、関わりもないと考えるのが条理と思えるのだ。