人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

修正版『偽ムーミン谷のレストラン』第五章

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 予定変更。最終章・第五章。
 レストランの床にステッキが倒れ、シルクハットがひらりと落ちると床の上を転がってどこかのテーブルの下に潜り込みました。レストランの中の全員が――つまりムーミン谷の住民全員のうち、
・ここにいる人全員、と
・ここにいない人全員
 がハッとわれに帰りました。つい今しがたまで彼らは何だかめんどうくさい事態に関わりあっていたような気がしていましたが、つい一瞬、まるで閃光に打たれたかのように煩いの種は消えたのです。
 沈黙。ややあって、床にステッキが転がっているのは良くない、とヘムル署長が言いました。誰かが足をかけて転ぶかもしれない。そうですね、とスノークがステッキを拾いながら、でも何で誰もいないところでステッキが転がっていたのだろう、まるで空中から落ちてきたような現れ方をしましたよ、と気味悪そうに持ち上げました。スノークが何となく天井を見上げたので客席のトロールたちも何となく天井を見上げました。このくらいの怪異現象はムーミン谷では珍しくないことですが、それは後から話が伝わった場合こそ言えることなので、目の前で理解不能な何事かが起こった場合とは事情がだいぶ異なります。スノークは腰をかがめると数席離れたテーブルの下からシルクハットを拾いあげました。こんなのもある、とスノーク、まるでシルクハットとステッキだけ残して誰かが消えてしまったようにも見える。
 だったら脱衣所やコインランドリー、衣料品店は集団失踪の事件現場になってしまうよ、とヘムレンさん。コインランドリーって何ですか?とスノーク。話の流れから推察したまえ、とヘムレンさん。わかりました、とスノーク、服だけ残して着ていた者が消えているような設備ですね。おおむね正しいが、とヘムレンさん、煙草を喫いながらスポーツ新聞を読んでいる場合もある。
 誰かがシルクハットとステッキを落としていった、それは確かなんではないでしょうか、とスノークはヘムレンさんにはぐらかされながらも自説に固執しました。止めときゃいいのに、と偽ムーミン、それから偽フローレンは思いました。彼らは規格に合ったトロールではないので一瞬でムーミンママがレストランからムーミンパパの存在を記憶ごと抹消しても認識を保っていたのです。それに当然彼らもムーミンママの術中にはまったそぶりを続けねばならない必要がありました。さもなければ、彼らの存在も消されてしまいかねないからです。


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 やあムーミン、と背後から呼ばれた声にムーミンパパは意表を突かれました。それまでムーミンパパは突然周囲に現れた花盛りの景色に、これもレストランの用意した何かのしかけなのかと妙に感心していたところでした。知っているぞ、とムーミンパパは思いました。いわゆるイリュージョンというやつだな。それはそうとして、他の連中はどうなってしまったのだろう。ムーミンパパはちょっと考えると、ムーミンパパには珍しいことですが、これは遮断された状態なのかもしれないぞ、と正鵠を得た判断にもう少しでたどり着いてしまいそうでした。そうならなかったのはムーミンパパの場合、当たると思ったことはたいがい外れだし外れと思ったことはたいがい外れるジンクスのようなものへの信頼が理性を上回っていたからです。これを損得勘定で考えると得をすると思ったことはまず得にならず、損を覚悟の上ならば必ずしも損ばかりではない、という楽観的悲観主義のようなちんまい打算にもかなうので、百戦錬磨の冒険家だったムーミンパパにしてみれば生きて帰ってこれれば御の字なので、ムーミン谷に持ち帰って感謝される宝など世界のどこにもありはしませんでした。
 そのように経験的に判断力の不確かさを身に沁みて体得していたムーミンパパですが、ちらっとよぎった考えは以前ジャコウネズミ博士やヘムレンさんの談話で教わった宗教思想におけるイメージ上の冥界で、異文化の冥界には川が流れ花が咲き乱れているといいます。川は見えないが花は真っ盛りだ、とムーミンパパは思いました。もしこれが冥界なら、おれは突然死んでしまったわけだ。だとしたら突然おれがひとりきりなのも説明はつく。ムーミンパパは周囲の花が実はみんな砂でできていて、物音ひとつ立てようものなら一度に足もとに崩れおちてくるように感じました。それは漏斗の底に溜まる砂粒のように自らは音もなく一瞬のうちにムーミンパパを埋め尽くしてしまうように思われました。私は妄想が過ぎるぞ、とムーミンパパはブルッと震えました。いくら何でもそんなに都合の良く心配が現実になるわけはありません。ですが心配事が切実ならそれも一種の現実なので、突然花盛りのなかに立ちすくむ自分を見つけたムーミンパパの反応とは何もできない迷子そのものでした。
 そんな時です、やあムーミン、と背後からムーミンパパに呼びかける声が聞こえてきたのは……それは聞き覚えのある声でした。


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 昔むかし、ムーミンパパがまだただのムーミンだった頃……ムーミンとは代々ムーミン族に受け継がれてきた名前ですが、ムーミンパパは生まれついての天涯孤独の孤児でした。ムーミン族の後継ぎが所有していなければいけないとされるつるぎ、鏡、勾玉の3種の神器はムーミンパパの先代のムーミンまではきちんと神棚にひとまとめに飾られていたらしいのですが、この先代ムーミンは妻帯せずに子を残したかどうかも不明なまま行方をくらませてしまったのです。ムーミン谷の冬は寒く、もう何週間も降り続いた雪が谷の住民を家々に閉じ込めていました。ひとり暮らしのムーミン家当主はフィリフヨンカさんのつてで家事賄いを雇っていましたが、ちょうど当番に当たるフィリフヨンカさんの姪(といっても相当なおばさんですが)が雪の止んだあいまに訪ねていくと、先代のムーミンさんの姿はなく大量の血痕が暖炉の前に広がっていました。
 争いがごく短かったのは居間に残った痕跡からも明らかで、大量の血痕がムーミンさんのものだとしても抵抗する余地はほとんどないまま決着がついたと思われます。つまりだ、とヘムル署長は言いました、これは普段から面識のある者同士の間で不意打ちするように行われた犯行に違いない。だが被害者がムーミンさんと断定するのは早計で、たとえ先に襲ってきたのが客の方で正当防衛だとしてもムーミンさんが犯人ということもあり得るのだ。遺体もしくは重傷な被害者が現場に残っていない以上、証拠となるのはこの大量の血痕なのだが、あいにくムーミンさんの血液型の記録などまったく谷に残されていない以上われわれムーミン谷警察もお手上げで、誰であれ被害者の遺体もしくは重体の発見を待つしかないのだ。
 とヘムル署長が告げるやいなや、ムーミン谷の女性住民から一斉にムーミンさんの血液型はAだBだOだEだABだEOだ、とあらゆる根拠なき憶測が飛び交いました。無駄な議論をしおる、とジャコウネズミ博士がヘムレンさんと顔を見合わせました。ムーミン谷では血液型は行いによって変わるからです。それにトロールの自己再生能力は本人たちですら驚くほど高いので、果たしてどれだけの流血が決定的な惨事を示すものかも論議の余地がありました。もし被害者がムーミンさんなら、それは神棚に祀られた3種の神器が持ち去られていたことと関係があるはずです。そしてそこに現れた孤児こそがムーミンパパだったのです。


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 その孤児の少年、というよりまだ幼児と児童のさかいめあたりの年頃ですが、とにかくその男の子は谷の住民の誰も知らない男に手を牽かれていました。もちろんその孤児を見るのも初めてでしたが、ひと目で親子ではないとわかるのは男はヒューマノイドトロール、男の子はムーミントロールの姿をしていたからです。そうだ、と男は言いました、この子は親のないトロールの子どもらしいんだ。
 そんなの見ればわかる、とヘムル所長は言いました、私は警察だけではなく孤児院も経営しているからな(これは事実でした。ムーミン谷にはヘムル孤児院とフィリフヨンカ孤児院があり、ムーミンパパはフィリフヨンカ孤児院に引き取られることになります)。どーだ、おそれいったか。
 おそれいりません、と謎の男、なぜなら私はここの土地の者ではないからだ。おそれいりましたか。
 おそれいらん、とヘムル署長、私は警察も経営していると言ったろ(これも事実でした。ムーミン谷では警察は民営化されているのです)。お前さんがよそ者であってもムーミン谷にいる間は私には逆らえないのだ。どーだ、おそれいったか。
 ほお、と謎の男は合点がいったように、ここはムーミン谷というのですか。ではこの子はムーミン谷固有の種族に違いない。それと私は逆らいはしないが、誰も私に指図できない。あなたはここの法律かもしれないが、私はいかなる土地にも属さず、同時にすべての土地への通行権を持つからだ。
 ムーミン谷の極刑は断頭台なのだがな、と悔しまぎれにヘムル署長が唸りました、残念なことに寸止め仕様の断頭台しか使えん規則になっている。
 しかしこれはどういうことだ、とジャコウネズミ博士がヘムレンさんに、ムーミンパパが生死不明で姿を消したばかりのうちに、どう見てもムーミン族の男の子が現れるとは。この年端では状況も理解できるまい。きみはどこから来たのかね?
 ちびムーミンは男の陰にさっと隠れました。このお兄さんに連れて来てもらったんだね?うなずくちびムーミン。ヘムレンさんは謎の男に向き直ると、あなたはどこでこの子を見つけたのです?
 私はこの家の前まで歩いてきて、と謎の男、何か騒動が起きているようだと戸口まで来たのです。そして玄関に一歩入った時、上着のすそを後ろから引っ張られた。それがこの子でした。ムーミンといいましたっけ?
 そうです。それであなたのお名前は?
 スナフキンです、と男は言いました。


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 スナフキンが谷に着いたのはつい数時間前のことで、この土地で自分を待ち受けている運命は考えてもいませんでした。スナフキンはいつでも風に流れてたどり着いては風に流れて旅に出るのが流儀で、それがあまりにくり返しくり返し果てしなく長い旅路だったために自分の年齢すら忘れてしまっていたほどでした。その上スナフキンは過去の記憶を蓄積しないタイプの放浪者だったので来たことのある土地にまた来ても初めてのような感覚しかなく、またスナフキンが去った後には誰の記憶からもスナフキンの存在は消えてしまうので、たぶん放浪を続ける限りスナフキンは今いる土地で関わりあいを持っている相手との間でつかの間の実在性以上のものはないのです。スナフキンが風のような放浪者を極めた存在なのはまさにその一過性、稀薄さによるものでした。過去のスナフキン、現在のスナフキン、未来のスナフキンには同一性すらないかもしれません。そうしたスナフキンの属性からすれば、スナフキンとは存在自体に同一性はなく属性だけが行動している状態であるとも言えるので、本質的に放浪者とは誰もがスナフキンであり、放浪者の総称をスナフキンと言い換えてもいいでしょう。
 ムーミン谷とスナフキンの関係とはそういうものでした。スナフキンからすればスナフキンと世界との関係と呼ぶべきですがスナフキンのいる全世界はムーミン谷であり、スナフキンの放浪は常にムーミン谷からムーミン谷への放浪で、それはスナフキンムーミン谷という世界でのみスナフキンという存在だったからです。ムーミン谷以外の場所でスナフキンスナフキンではありえない、という簡単な理由から、スナフキンは存在していました。
 その理屈はわからないでもない、とヘムレンさんはあごをひねって、私たちだってムーミン谷あっての私たちだからな。だが署長は納得するかな?
 それがこの男の身元保証になればですがね、とヘムル署長。しかしこの状況ではどう見てもこの男が怪しい。流れ者だという理由で嫌疑をかけるのは何だが、谷の知りあいを疑いたくはないでしょう。
 あなたがたの言い分もわかる、とジャコウネズミ博士。ただし認めざるをえないのは、ムーミン谷に存在するすべてはムーミン谷に属する、ということだ。この男を私たちは知らない、だが故にこの男はムーミン谷の放浪者であり、この怪事件に何の動機も持たず、関わりもないと考えるのが条理と思えるのだ。


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 そこまでだ、動かないでいただきましょうか、と自称スナフキンは両手にコルトを構えて一堂をにらみつけました。あんたたちから好き放題に指図されるようなおれじゃない。結局あなたがたは事件のすべてを私の仕業に押しつけて一見落着させるつもりだ。違いますか?スナフキンは詰問しました。
 大きくは違わん、とヘムル署長が落ち着きはらって答えました。厳密に言えばわれわれだってここで起こった事件のことは目鼻もついていないようなものだが、適当な被疑者を選ぶとすれば突然現れた君こそ飛んで火に入る馬の脚だ。だからこそ、たぶん君の要求はここで起こったことはすべて水に流して見逃すか、さもなければ――
 さもなければ、の方ですよ、とスナフキン、なかなか署長さんもお察しがいい。皆さん全員口封じに始末させてもらいます。私だってもちろん気が進みはしないが、この状況ではそうせざるを得ないですからね。
 あっしには皆目見当もつきませんが、とスティンキー。もし困ったことになっているのなら、手遅れのザマになる前に手錠を外してくれやしませんか?
 早まった決断はいけない、とヘムレンさん。ただでさえ真っ白なきみの経歴に傷をつけることはない。何も君が有罪と決まったわけではないのだ。現時点ではこれはまだ謎の失踪で、確かに相当の負傷らさい血痕が残されているが、死ぬと生きると本人の姿がないのではどうしようもないからな。
 コイン投げなんかいかがです?とスティンキー。表が出た方の言い分の勝ち。
 その前にコインが見たいな、とスナフキン。どうせ両面とも表か、両面とも裏のコインを用意しているに違いない。
 その手があったか!とヘムル署長。通りでこいつのコイン投げには誰にも勝てないわけだ。悪党めが!
 悪党です、とスティンキー。
 いや待てよ、とジャコウネズミ博士。これはコインを薄く削って張りあわせてある作りだが、間に何かはさまっているぞ。
 紙切れみたいだ、とヘムレンさん。取り出してみよう。破れないように頼みますよ、署長。
 いかさまコインの中から出てきたのはどこか外国の切手を折りたたんだものでした。切手には消印が捺してあり、裏側にはムーミンパパの署名とともに、
 Wish You Are Here.
 と書いてあったのです。しかしおかしいぞ、と誰もが首をひねりました。ムーミンパパは読み書きのふりならできますが、本当の読み書きはできなかったからです。


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 とにかくこれではいつまで経ってもらちがあきません、とスティンキー。生きているのか死んでいるのか、事件かそうではないかもしれないようなことを問題にしていても仕方ないんじゃありませんか?
 確かにそれが正論かもしれん、とヘムル署長、現状、これは事件性があるかどうかもわからないのは認めざるを得ない。だがお前のような犯罪者に言われるのは実に心外きわまるというものだ。
 結局私はどうなるというんです、とスナフキン。皆さんが私を疑っているのはわかる、でも同時に皆さんはその疑いの裏づけは決して取れないとも知っている。
 やれやれ、疑わしきは罰せずに持ち込もうというのだね、とジャコウネズミ博士。ムーミン谷が文明国ならそれもありだろう。しかし文明国とは時に前近代的な強権を発動して自衛し、侵略することに民意が同意するものだということは否めない。
 そこまでわれわれの文化が成熟していれば、だがね、とヘムレンさんが割って入りました。ジャコウネズミ博士とヘムル署長はムッとしてヘムレンさんに向き直りましたが、すぐにヘムレンさんが形式上にすぎない弁護人を買って出たのを理解して、まあヘムレンさんの異議申し立てももっともだ、われわれは出来るだけ文化的にこの事態に対処しなければならん、と賛同しました。
 ではもう私は出て行っていいですか?とスナフキン
 いやまだ片づいていないことがある、とヘムル署長。君が連れてきたこのムーミン族の子どもをどうする?
 私は関係ないですよ、とスナフキンたまたまこの家の前に立っていただけと説明したじゃないですか。
 われわれだって君とムーミン族の子どもに接点があるとは思わん。
 だったらなおさら……
 しかしわからないのと実情は事情が違う。君は当事者である限りすでにこのムーミン族の子どもと関わりを持っているのだ。なぜ君が、君にとっては最悪なタイミングで、しかも出会ったばかりのムーミン族の子どもを連れてここに現れたのか、納得できる理由があるなら釈明してみせてくれたまえ。
 この子に訊いてくださいよ、とスナフキン。まだちゃんと話せる歳ではないだろうけれど、わかりやすく質問すればイエスかノーの仕草くらいはできるでしょう。
 きみはこのお兄さんとなかよしなのかな?とヘムレンさん。
 ちびムーミンはうなづきました。
 この家のおじさんを知っているかい?
 ちびムーミンはうなづきました。
 ではきみは誰なの?


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 ちびムーミンはうなづきました。一堂はいっせいにざわめきましたが、それでは問いに対する何の答えにもなっていないのに気づくのには一瞬もかかりませんでした。しかも気づいてみれば最初から、何を訊かれてもこのムーミン族の子どもはうなづく以外の応答をしていないではありませんか。たとえ首を横に振ろうが同じことで、要するに何を尋ねられても質問の内容を正しく理解できているとは限らず、この子どもからの返答からは具体的な出来事は何ひとつ引き出せないように思えました。結局まったく万事休すです。
 では結局ムーミンパパはどうにかなってしまったのでしょうか?まあ無事とは思えないしな、というのが全員一致の見解でした。いつからわれわれは同じところばかりをグルグル回っているのだ、と全員が顔を見合わせましたが、誰も突破口となる先鋭にはなりようもありません。所詮われわれはムーミン谷の民にすぎん、と誰もが痛感しました。ムーミン谷を超えて普遍性に到達するだけの想像力など持ちあわせようもないのです。
 少し脱線して気分転換しよう、とヘムレンさんが言いました、話した者勝ちのフリートークと行こうじゃないか。いいですね、とスノーク、では私が。実は先日外国製の野球映画を観る機会がありまして。劇映画ですから当然俳優が野球選手の役をやっています。脇役は野球の心得のある大部屋俳優から選べばいいですが、さすがに主役はスター俳優を持ってきた。そこで問題だったのが、この主役のスター俳優が「小さいころから乗馬をたしなみ、狩猟、フライ・フィッシング、スキーを生涯を通じての趣味とし、大学時代には美術を専攻してスポーツとはおよそ無縁の生活を送った」と文献に書いてある。要するに野球選手役を演じるのは苦労したとのことですが、幼少時から乗馬、狩猟、フライ・フィッシング、スキーを生涯の趣味としたのが「スポーツとはおよそ無縁」と言えるのでしょうか?
 たぶんその外国では乗馬や狩猟はスポーツとはされていないのだろうな、とジャコウネズミ博士。その点ムーミン谷では下手に乗馬やらウサギ狩りをすると馬でもウサギでもなくてトロールだったりするから話は早い。土台われわれほど種族混交トロール社会が進んでしまうと、公平かつ一定の基準を備えた競技など考えられないではないか。
 ウサギ狩りでなくてもクレイ射撃とかもありますよ。
 殺人現場かもしれない場所で不謹慎ではないかね。


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 するとそれまで自分からは何も話す様子のなかったちびムーミンが…………、とつぶやきました。ん?今何を言ったのだ?とヘムル署長。どうも「…………」と言ったみたいですね、とスナフキン
 君のような不審者には訊いておらん、とヘムル署長は冷たく言うと、比較的スナフキンの近くに立っていたスノークが、この男の言うには、ムーミン族の子供は「…………」とつぶやいたらしいですね、と言いました。君にはそれが聞こえたのか?つまりスノーク君自身が子供がそうつぶやいたのが聞こえたのかね?
 そう言われても、とスノーク、私は自分に都合の良いことしか言いません。それは法的にも守られた権利のはずで、もちろん偽証は言いませんよ。
 スノーク君の言ったのは嘘ではないよ、とヘムレンさん。確かにあの男の言うには、ムーミン族の子供は「…………」とつぶやいたらしい。確かなことは言えないが、私の耳にもそう聞こえたように思う。親戚だからと無理に信じてもらう必要はないが、私の耳にもそう聞こえたのだからもっと男の近くにいたスノーク君からの伝聞にも信憑性は高いのではないかな。
 伝聞どころか証言と呼ぶべきではないかと思うがね、とジャコウネズミ博士、つまり何と言うか、私とヘムレンさんはともに学者仲間でもある。つーかこのムーミン谷では学者はヘムレンさんと私しかいない。とすればヘムレンさんのご意見に異議を申し立てられる立場の者は私以外にはすべて学者ならざる者になるのだが……例えば冒険家とか。
 冒険家と言ってもムーミンパパとその仲間のロッドユールとソースユールしかおらん、とヘムレンさん、フレデリクソンさんは専属バックアップだしな。ところが当面の問題はムーミンパパに関わることなのだから、彼らの証言は身内として客観性に欠ける。
 では魔女ならばどんなものですか?とヘムル署長、何しろ魔女ってくらいなのだからわれわれ俗衆を超越した存在であるはずで、われわれだって普段から都合の良い時には尊重し、そうでない時には遠慮なく税金を取り立てている。ムーミン谷で現在魔女というとトゥーティッキ、モラン、フィリフヨンカさんの3者になりますな。やれやれ、ついに魔女の見立てを仰がなければらちがあかない事態になるとは困ったものだが、これを超法規的処置と言っていいんでしょうか?
 するとそれまで自分からは何も話す様子のなかったちびムーミンが…………、とつぶやきました。


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 最終回。
 もういい加減に決めてしまおうではないか、と暖炉の中に身を潜めていたムーミンパパが現れて全員に呼びかけました。要するに誰が私を殺害して何食わぬ顔でいるってことだろう?こういう場合は独裁制であろうと共和制であろうと個人の責任を問わないで審判を下すに限る。特定の誰かが判決の責を取るのでは後から真偽が揺らいだ時に審判者が処罰の対象になりかねず、事実政権交代が処刑の連鎖に直結する国家、なども面白いくらいに普遍的な現象だったりするだろう。ところで皆さんは、とムーミンパパは居間をぐるりと見回し、ほぼ満場一致でこの男(とスナフキンを指し)を被疑者と目しているということでいいのかね?
 他ならぬ被害者たる君がわざわざ姿を現したからには意見を撤回する必要もなかろう、とヘムル署長。それは署長という役職としての意見かね、とムーミンパパ、それとも役職を離れた一市民としてのミスター・ヘムルとしての立場から態度を表明しているのか、そこらへんを明確にして欲しいものだね。
 それが何かね、違いはなかろう、と揚げ足を取られた悔しさを滲ませたヘムル署長の反論はうおっほん、というジャコウネズミ博士の咳払いにかき消されました。まさか私の目の黒いうちにムーミン谷で多数決が提案される事態に居合わせるとは思わなかったよ。改めて表明したいがヘムレンさんが人文主義者であるように私は一種のいじけた唯我論者の末裔に過ぎないかもしれぬ。誰も否定してくれないところを見るとどうやら私は正確に自己を客観視できているようだ。だがそれこそ私の訴えたいことでもあって、もし私が信任に足る市民という前提が崩れるのであればわれわれの誰が何のために公正を証言できるだろうか。
 まことに僭越で恐縮の至りですが、とスノークがおっかなびっくり口を挟みました。審判というのは、具体的にはどのような罪状になるのですか。
 謀殺の罪で縛り首、とヘムル署長、牛泥棒、証拠隠滅、公文書偽造、虚偽証言、逃亡未遂の罪で総計懲役270年だろうな。
 しかしもし後から証拠不十分、法改正、突然の恩赦、ましてや冤罪と判明した場合にはどうなさるのです?
 確かに困った問題になるな、とヘムレンさん顔を曇らせました。
 それは大丈夫、とヘムル署長、先に縛り首にして、それから懲役270年を執行すればいいだけのことさ。
 それってリンチじゃないかね?
 判りきったことでしょう。
 第五章完。おしまい。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第一部改作版・既出2016年6月~2017年7月、全八章・80回完結予定=未完)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)