人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Dew - 布谷文夫 Live 1971 (URC, 1989)

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Dew - 布谷文夫 Live 1971 (URC, 1989) Full Album : http://youtu.be/zULFkqX96aA
Recorded live on August 7, 1971 at the 3rd All Japan Folk Jamboree, at Hananoko, Gifu.
Released by Kitty Records URC/Kitty H20K25044, November 25, 1989 / Toshiba Records ?TOCT-10294 URCレアトラックシリーズ, June 10, 1998
All songs written by 布谷文夫 except as indicated.
(Tracklist)
1. からのベッドのブルーズ - 5:47
2. 傷ついて - 5:01
3. 夏は終わり 6:09
4. フーチー・クーチー・マン (W.Dixon) - 4:32
5. 二人のブルーズ - 4:06
6. 僕の天使 - 6:45
7. 悲しき願い (Benjamin, Marcus, Caldwell) - 7:53
[ DEW ]
布谷文夫 - vocal
大野久雄 - guitar
松本恒男 - bass
内藤正美 - drums

 1969年9月発売のファースト・アルバム『BLUES CREATION』(ポリドール/日本グラモフォン)でデビューしたブルース・クリエイションの初代ヴォーカリスト・布谷文夫(1947-2012)が同年末に同バンドを脱退し、1970年1月に結成した自分のバンドがDEWでした。1年半強の短い活動期間中にメンバーは布谷以外は流動的で、ギタリストをとっても左右栄一(のち頭脳警察、ファーラウト)、洪栄龍(のち乱魔堂、スラッピー・ジョー)ら70年代初頭の日本のロック・シーンのキー・パーソンが去来していったというバンドです。
 DEWのレコード音源はテレビのニュース取材から生まれたオムニバス・ライヴ・アルバム『幻野-幻の野は現出したか '71日本幻野祭 三里塚で祭れ』(創世記レコード/URC, 1971年12月発売)に1971年8月14日の成田空港建設反対集会でのライヴ(ブルース・クリエイションも出演)に「二人のブルース」「夏は終わり」の2曲が収められただけでした。バンドは翌月には解散してしまい、布谷はソロ・シンガーに転向して『悲しき夏バテ』(ポリドール、1973年11月)をリリースしますが一時活動を休止し、1975年から70年代いっぱいはブルース・クリエイション時代から交流のあった大瀧詠一の一連のナイアガラ・レーベル作品にセッション・ヴォーカリストとして参加します。1990年代末には再びライヴ活動を再開し、インディー・レーベルから2001年に3枚ライヴ・アルバムを発表して話題になりましたが、つい先年亡くなったのが惜しまれます。
(Reissued Germany Lion Records "DEW LIVE" CD Gatefold Front, Inner, Liner Cover)

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 ブルース・クリエイションのメンバーは布谷以外の3人は1951年~1952年生まれと4、5歳年が離れており、ブルース・ロックに徹したデビュー作からヴォーカリストが交代したセカンド・アルバム『悪魔と11人の子供達』(コロムビア/ブロー・アップ、1971年7月)ではブラック・サバス影響下のヘヴィなハード・ロックに変貌している通り、布谷と他のメンバーの間に嗜好の違いが現れたのが1作きりの脱退の理由だったと思われます。デビュー・アルバムでは全面的にブルース・ロックの定番曲のカヴァーでしたから当然英語詞でしたが、DEWは布谷がまだほとんど実例のない日本語詞による本格的なロック曲を試したものでした。フェスティヴァル出演から42分の、フルアルバム分のライヴ・レコーディングが未発表のまま残っていたおかげで、DEWは実態不明の幻から一気に70年代初頭最重要バンドのひとつに数え上げられる存在になったのです。
 1971年といえばハード・ロック派にフラワー・トラヴェリン・バンドの『SATORI』、前述のブルース・クリエイションのセカンド・アルバムがある一方、フォーク・ロック派には南正人の『回帰線』、遠藤賢司『満足できるかな』にはっぴいえんどの『風街ろまん』が発表されましたが、DEWのロックはブルース・ロックに根ざして南正人とやや近いながら、ヴォーカル・スタイルとバンドのサウンド・スタイルはキャプテン・ビーフハートヴェルヴェット・アンダーグラウンドすら思わせる破壊的で異様なものでした。その点でDEWは日本のアンダーグラウンド・シーンにいた裸のラリーズ村八分に先駆けており、村八分山口冨士夫(1949-2013)の自伝『村八分』(K&Bパブリッシャーズ、2005年11月)には『悲しき夏バテ』発表時の布谷文夫バンドとフェスティヴァル競演した時の回想があります。「オレ、昔からあいつ大好きでさ。これから(村八分のヴォーカリストの)チャー坊がやろうとしているダンスとか、これからオレたちがキメたい音をオレたちの出番の前に布谷文夫のバンドに全部やられたのが決定的だったね」。どう決定的だったかというと、ヤケになった村八分のメンバーは朦朧としてステージに上がり、当然ライヴはボロボロで、中心メンバーの1人が幻滅して脱退してしまった。布谷のパフォーマンスは村八分を骨抜きにするほど凄かったということです。ソロ時代にしてそうだったのですから、DEW時代の凄みはどれほどだったか、おそらくこれ以上のライヴ音源が出てくることはないのが無念に思えます。