人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2016年12月21日~25日・1930年代フランス映画

 ジャン・ルノワール20年代のアルバトロス社映画ときたついでに、トーキーに入った1930年代フランス映画をまとめて観ました。『ゴルゴダの丘』と『陽は昇る』は初見のものですが、観直した作品は何度も観過ぎたもの、ほど良く忘れていて楽しめたもの、他の作品と印象がごっちゃになっていたもの、ほとんど忘れていたものが混ざり合っていて、身も蓋もない感想ではルノワールって本当に特別なんだな、30年代フランス映画全体の水準はハリウッド映画のプログラム・ピクチャーどころか当時の日本映画にも及ばないんじゃなかろうか、と首を捻る思いでした。中学~高校生の頃にこの辺のフランス映画をテレビ放映で観て、その時はすごく感動したのは一体何だったのだろう、という気分です。今回はたまたま波長が合わなかっただけかもしれません。孫でもできたらいずれまた観直してみたいと思います。


12月21日(水)

ルネ・クレール(1898-1981)『巴里の屋根の下』(フランス'30)*92mins, B/W
・戦前の日本公開時から映画人、批評家、観客に絶大な人気を誇ったのは当時憧れのパリそのものだったからで、実際は全編セット撮影からもリアリズムではなくファンタジーを目指した作品なのは明らか。そこが一見近いルノワールと大きく異なる。辻音楽師と田舎出(ルーマニア出身の設定)の女の子の恋愛未満の出会いを描くがドラマらしいドラマはなく映画的虚構としてのパリの下町ムードを作り上げるのが目的で、サイレント期フランス印象派映画の発想の到達点とも言える。クレール映画の「パリみたいなパリ」を単なる映画セットに還元して観ると本作はほとんどそれだけで成り立っている作品で、発想は林海象岩井俊二以降の日本映画に近いのではないか。

ルネ・クレール『自由を我等に』(フランス'31)*83mins, B/W
・『巴里の屋根~』『ル・ミリオン』や『巴里祭』も併せて初期クレール作品は必見ながら感動の長持ちしない作風だと思う。才人が才気だけで作った作品の限界はあるがクレール自身の資質が本来そういう才能だった自然さはある。脱獄に成功して大工場主に成り上がった男と失敗した脱獄仲間で工場の囚人労働刑者になった男の友情を描いたコメディで、よく比較されるチャップリンの後発作『モダン・タイムス』1936の狂気と鋭利な悪意には欠けているのでオートメーション労働はおろか受刑者の獄中生活すら思いつきの書き割りを出ない。クレールやジャック・タチらフランスの喜劇映画作家になく、サイレント期~トーキーを通じてアメリカの喜劇映画にあるのは生身の生の痛覚と残酷さで、クレールやタチの映画の生温さは良くも悪くも無害な社会の無害な人情喜劇に留まる。悪人も善人も同じ人間には違いないが、本質的な悪や善への洞察もないのも良かれ悪しかれ


12月22日(木)

ルネ・クレール『最後の億萬長者』(フランス'34)*88mins, B/W
・クレール本国で初の大コケ作ながら日本では好評でヒット作になったという怪作。カジノを主要国家財源とするヨーロッパの架空の小国が財政危機を乗り切るため、国外在住の大富豪に若い王女を嫁がせて内務大臣の独裁政権を許すが、大富豪はアクシデントから発狂しており無茶苦茶な政令を連発し……と、前年のヒトラー政権への揶揄ではないのだが、この後イギリスへ招かれるだけある大らかな風刺的センスで従来の型から進もうとした意欲が伝わってくる。日本の観客には楽しめる他人事でも本国では反動的作品とされ反感を買ったとも考えられる。やはりよく比較される『チャップリンの独裁者』1940の激しい怒りとは立ち位置が違うし、ふざけた映画を作ってもどこか真面目でふざけきれないあたりに人間味を感じる作品。

ジャン・ヴィゴ(1905-1934)『アタラント号』(フランス'34)*85mins, B/W
・29歳で夭逝した伝説的監督で短編1、中編2、長編は本作しかない。学生時代は上映会があるたびに観に行っていた。これもルノワールやクレール風の庶民劇というか、老水夫と少年のクルー二人を従えたセーヌ川の貨物船の青年船長が若い花嫁を迎える。最初は船上生活を楽しんでいた若妻だが次第に退屈してきて、初めて訪ねたパリで一人で遊びに出たのが夫の怒りを買って船出に置き去りにされてしまう。そして若夫婦は……とシンプルこの上ないドラマ。これが奇跡としか思えない決まり方で無駄も不足もまったくなく全編が美しく輝いている宝物のような映画と熱愛してきたが、あまり何度も観過ぎても味気なくなりかねないようで、先頃60年代ゴダールの全作品を観直して熱が冷めたように今回はいまいちだった。距離の取り方で感興も左右されるが、未見の方には何を置いてもお勧めできる瑞々しい一本。


12月23日(金)

ジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)『ゴルゴダの丘』(フランス'35)*91mins, B/W
・この監督も昭和10年代の日本では本国での評価以上にヒット作を連発した人。『にんじん』『我等の仲間』や『舞踏会の手帖』など70~80年代にはまだテレビ放映の定番で不覚にも感動して観たものだった。イエス・キリストの裁判~処刑を描いた聖書物の本作は劇場未公開作で、一見地味だが実は1000人規模のエキストラが主役と言っていい。集団リンチのマス・ヒステリーの雰囲気がよく出ていて、「マタイ福音書」の手堅く忠実な再現映画として成功している。腕の確かな職人的映画監督の芸は案外こういう普通の歴史劇映画でこそ古びないようで、つまらないディスカッションになりかねない異端審問裁判を巧妙な視点の切り替えによる話術できっちりメリハリをつけているのはさすが。ワイラーに似た技巧に気づかせない技巧が効いているのはけれん味の強いフランス映画では珍しいが、ハッタリの利いた作品で知られたのはデュヴィヴィエの本懐だったのかどうか。

ジュリアン・デュヴィヴィエ『望郷』(フランス'37)*94mins, B/W
ジョン・ウェイン出世作が『駅馬車』ならジャン・ギャバンはこれだろう。本作が一番ヒットした国は日本だという実績がある。ここで描かれた無国籍都市カスバは日本人には上海とだぶって親近感があったかもしれない。カスバにいる限り逃げ切れるがカスバから出たら逮捕されて極刑確実の職業犯罪者の男が、色々あって自滅する話。邦題の「望郷」は原題より上手いし、破滅的犯罪者ものとしては案外あっさりしてカラッとしている。アメリカの暗黒街映画の非情さとはまるで異なる人情味が持ち味だから別に犯罪者でなくてもいい話だし日本でも公開当時から通俗性を指摘されていたらしいが、この俗っぽさには普遍性もあってキネマ旬報年間ベスト1の支持は揺らがなかったのは微笑ましい。最初から新しくなかった分風化の度合いはクレールより少ない。日本の任侠映画は歌舞伎の仇討物のモチーフを『望郷』で濾過したものなのではないか。


12月24日(土)

ジャック・フェデー(1885-1948)『女だけの都』(フランス'35)*109mins, B/W
・最高!『アタラント号』ほど繰り返し観てはおらずほぼ20年ぶりに観たが、ルノワールの最高作に匹敵する。フェデーは『外人部隊』に感動しつつも辟易していた面もあり、つい先日観たサイレント期の『グリビシュ』『成金紳士たち』も抜群の面白さがどこか胡散臭かったが、本作は辟易も胡散臭さも全部プラスに働いた奇跡の一作。スペイン軍の一時駐屯を宣告された田舎町が、町長は急死して男はほとんど留守ということにして町長夫人が町中の主婦を指揮してスペイン軍が去るまで平和接待にいそしむ、とアリストパネスモリエールを足して割ったような艶笑喜劇で、本当に17世紀のフランドルを撮影してきたかのような迫真の嘘くささがたまらない。時代劇だからオーヴァーな演技も当時の礼儀作法というリアリティがあって、狐と狸の化かしあいのような話だが人間の知性と理性への信頼が根底にあるから嫌な感じはしない。ルノワールの場合はエロスとセンシビリティへの信頼だから化かす話を描くと混沌としてきてしまうから、この題材はフェデーだからこそ大成功した。やりすぎなくらいふざけた映画だが、それもすべてがお見事。

マルセル・カルネ(1906-1996)『霧の波止場』(フランス'38)*90mins, B/W
・上の『女だけの都』を含めて、『成金紳士たち』1928以来フェデーの助監督を勤めてきたのがカルネで、本作は監督第3作かつ出世作ジャン・ギャバン主演で、霧の波止場の港町に隠れて暮らす脱走兵の末路とまるで続『望郷』のような追われる男を演じる。いくつも映画賞を受賞して評価は『望郷』より高く、フランス映画に「詩的リアリズム」という批評用語が使われたのは本作がきっかけとされる。絶体絶命の窮地を描いて、映画全体がダウナーなムードで、最後に主人公が絶命すれば何でも詩的リアリズムで、主役がジャン・ギャバンならもうお約束になってはいないか、という感じがするのが「詩的リアリズム」の胡散臭さだが本作独自で『望郷』にはない魅力は良い意味での生硬さと抽象性だろう。日本の流れ者映画の手本になったことでも高いフォーマットの汎用性がわかる。日本映画にとってアメリカ映画よりフランス映画の方がパクりやすくなったのは「詩的リアリズム」映画あたりからかもしれない。


12月25日(日)

マルセル・カルネ『北ホテル』(フランス'38)*92mins, B/W
・前作『霧の波止場』から格段にスケールを広げた群像劇。パリの場末の安ホテルの住人たち(欧米のホテルは長期在住型が多く、この映画のホテルは日本で言う「ドヤ」に当たる)の中で、心中未遂したカップルとそれを助けた男、北ホテルの宿主夫婦の人間模様をしみじみ描く。原作小説は当時の話題作で、シナリオ、セット、キャスティングなど条件を揃えれば名作は生まれるというハリウッド型の映画で、監督の個性は稀薄に思えないでもない。ルネ・クレールには厳しいのにカルネ作品には甘いのは不本意だが、カルネの場合はフランスの映画スタジオ・システムの生んだ集団製作作品という感じが強いので、本作のようにそれが上手く機能していると揚げ足もとれない。群像劇というスタイル自体が集団製作としての映画の暗喩に見えてきたりもする。

マルセル・カルネ『陽は昇る』(フランス'39)*89mins, B/W
・卑劣な脅迫者をアクシデントから殺してしまった男(ジャン・ギャバン)がアパート最上階の自室に籠城し、やがて……という顛末を回想形式で描く。ビデオ発売まで日本未公開になったのは公開年が戦時中なのもあるが、戦後公開にもならなかったのは話があんまり暗いからではないか。アメリカでヘンリー・フォンダ主演(いかにも…笑)『朝はまだ来ない』1947(監督アナトール・リトヴァク)としてリメイクされているが、そちらも戦後作なのに日本未公開なのは話に無理があるからで、どう見ても主人公は正当防衛を主張できるから頭が悪いか、話を悲劇的にするために無理矢理思い詰めさせられているようにしか見えない。これは集団製作体制が悪く転んだ例で、トリッキーな結構に凝ったために映画全体を看る役割を監督なりプロデューサーなりがしくじった作品だが、失敗作なりの面白さはある。ギャバンは何歳だったか、今後受ける出演依頼は(1)アクション不可、(2)死ぬ役不可、(3)犯罪者役不可、と宣言したと何かで読んだ記憶があるが、それを思い出してデュヴィヴィエやカルネ映画のギャバンを観ると可笑しくなってくる。