人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年4月13日~15日/ジャン・ギャバン(1904-1976)主演作品30本(5)

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 この連載映画感想文はコスミック出版刊の書籍扱い廉価版10枚組DVDボックス『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』第1集~第3集(2016年12月~2017年12月発売、各巻1,800円)収録作品30作を作品年代順に取り上げたもので、これまでに各巻のジャケットを掲載しましたから作品ごとの収録巻は第1回の前書きにもまとめましたが、掲載図版をあわせてご覧ください。『ジャン・ギャバンの世界』は現在パブリック・ドメイン(著作権期限切れ)になっている1953年度本国公開の作品を収録しており、ジャン・ギャバンの出演映画は長編劇映画デビュー年の1930年から1953年度までに46作あります。順不同に収録された『ジャン・ギャバンの世界』第1集~第3集にはギャバンが主演俳優に昇格した第16作『はだかの女王』'34.11から28作とそれ以前の準主演作品2作を収録しており、つまり主演俳優昇格以降の作品はほとんど網羅しているので、未収録作品が16作あっても主演作は残っていないのでおそらく第4集の発売は望めないと思います。著作権継続中の1954年度公開のジャン・ギャバン主演作といえば『現金に手を出すな』『フレンチ・カンカン』の年であり、名実ともにフランスを代表する国民的俳優の地位を駄目押ししたような年度で、その後ギャバンは(1)アクションNG、(2)犯罪者役NG、(3)死ぬ役NGを条件に気に入った役しかやらない悠々自適の大俳優生活に入ります。アクションNGはともかくとして、犯罪者役NG・死ぬ役NGとは往年の代表作のギャバンを知る観客には思わず笑いがこみ上げてくるようではありませんか。ギャバン出演作品第27作~第29作になる今回も'30年代後半のギャバン黄金時代の大傑作『霧の波止場』『獣人』が立て続けに登場し、また前回「今回以降は戦中作品のためすべて戦後公開」と書いた唯一の例外でぎりぎり昭和15年に日本公開され、戦時中にオリジナル・ネガが焼失し幻の消滅作品と思われていましたが2003年にユーゴスラビアベオグラードでフィルム倉庫から唯一のプリントが発見された日本初DVD化作品『珊瑚礁』をご紹介いたします。なお今回も作品紹介はDVDジャケットの作品解説の引用に原題、公開年月日を添えるに留めました。

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●4月13日(金)
『霧の波止場』Le quai des brumes
90分 モノクロ 1938年5月18日(仏)/日本公開1949年12月30日
監督 : マルセル・カルネ
出演 : ミシェル・モルガン
脱走兵のジャンはル・アーブルでネリーという女と出会う。彼女は名付け親にしつこくつきまとわれていたが……。つかの間の恋と悲劇的な結末が「詩的レアリスム」と言われる
マルセル・カルネ監督の渾身の一作。

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 脱走兵の(と後でわかる)ジャン(役名もギャバンと同じジャン)が乗せてもらっていたトラックを犬を轢きそうになったじゃないかと運転手と揉めてトラックを下り、冷静になって運転手と握手して別れる。犬が後からついてくる、という冒頭に続き私服の軍人たちがレストランでギャバンの失踪を話題にし、管理職に責任が負わされるのを杞憂している。そんな冒頭から始まって野宿しながらいつの間にか2晩をすぎてギャバンは旧友パナマ(エドゥアール・デルモン )と再会し、パナマの経営する港町の宿屋で3日ぶりの飯にありつくと、宿屋の一室に住んでいるネリー(ミシェル・モルガン)と出会います。疲れ果てた画家ミシェル(ロベール・ル・ヴィギャン )ら訳ありの人物ばかりが隠れ家代わりに集まっているこの宿には、モルガンと会話しながら食事中のギャバンにも表から銃声が聞こえてきて、怪我をした男ザベール(ミシェル・シモン)がふらふら入ってくる。ここはこんなところさ、と宿の主人と住人たちが話す。一夜明けて波止場の柵に腰を下ろして会話するギャバンとモルガンのシーンになるまで映画は始まってしばらく夜のシーンばかりが続きます。画家は海に投身自殺し、パナマの勧めでギャバンが遺品を譲り受けて画家を装おうことにする。モルガンはザベールの経営する雑貨店で働いていて、ザベールは盗品取り引きで港町を仕切るやくざのリュシアン(ピエール・ブラッスール)ともめており昨夜の銃撃戦もリュシアンが相手で、高飛びの手配はするからとギャバンにリュシアン殺しを持ちかける。犬づれの画家になりすましたギャバンは地元の警官にも流れ者の画家と思われひと安心して港町に落ち着きモルガンと恋に落ちるが、実はザベールとリュシアンの確執は金のもつれだけではなくモルガンをめぐった争いでもあって、モルガンの求めで駆け落ちを画策するようになったギャバンはザベールとリュシアンの両方から狙われるようになる……というのが名作の誉れ高い本作の大筋で、名高いラストシーンはジャンの名を叫ぶモルガン、そして出航する船の警笛が鳴り、繋がれていた紐がほどけて犬が駆けて行く、ともう決めまくりの場面が続きます。ジャック・フェデー(1885-1948)に師事したマルセル・カルネ(1906-1996)は監督デビュー作『ジェニイの家』'36から本作が3作目、サイレント時代から活動していたジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)とは10歳の違いとはいえこの時期の10歳の違いは大きく、カルネもフェデーのサイレント時代末期の『にわか紳士たち』'28から助監督に就いていますがフェデーは柔軟な作風でサイレント時代にもすでに演出や映像はトーキーの次元に踏みこんでおり、またトーキーでも'30年代前半のフランス映画界ではジャン・ルノワール(1894-1979)とともに最高の達成をした人で、そうしたフェデーの愛弟子がカルネですから監督デビュー作ですでに完成度の高いスタイルを確立していました。デュヴィヴィエの『望郷』は本作を含め後世のさまざまな映画の下敷きになりましたが、実作への応用という点ではカルネの本作の直接な影響力の方が大きいとも言えるのです。それはもっぱら精度や技法の次元の問題になります。
 脚本ジャック・プレヴェール、撮影オイゲン・シュフタン、美術アレクサンドル・トローネル、音楽モーリス・ジョベールとスタッフもカルネ映画で名を上げることになる一流中の一流で、グレゴール・ラビノヴィッチとシネ・アリアンヌ社製作、パテ映画撮影所で撮影時され、パテ映画社配給の本作はパテ映画社の監督デュヴィヴィエがギャバン映画で築いてきた路線を踏襲した内容なのは設定や人物配置からも明らかなのですが、監督始めとしてスタッフが交替しただけでこんなに面目を一新した仕上がりになるのかと目を見張るような映画です。カルネの映画はのちのヌーヴェル・ヴァーグの映画監督たちから良いのは俳優とプレヴェールの脚本を始めとしたスタッフたちが良いだけじゃないか、と憎まれ口を叩かれるようになりますが、師のフェデーよりも硬質ながら抒情味が強く、本作で下敷きにしたデュヴィヴィエの諸作よりも映像の統一が上手く演出が細密で端正であり、悪口を言おうとすればあまりに優等生的すぎる映画じゃないかといったところです。先に精度や技法と言ったのはそこにあり、シナリオの構成から撮影と美術の緻密さ、音楽の洗練まで本作のカルネは『望郷』のデュヴィヴィエを上回る成果を上げています。しかしそれは技術的な精度の向上であって、綿密なリフォーム作業であっても質的に新しいものを作り出したのではない、という冷静な判断に観客をとどまらせます。カルネ自身もそれは承知していたことでしょう。しかし『望郷』のような映画を作ろうという多くの後世の映画監督には『霧の波止場』の抜群の完成度の方が実践的な学習材料になり、それは他のカルネ作品『ジェニイの家』や『北ホテル』'38についても言えます。デュヴィヴィエやルノワールが特に大きな意味を持たせず使っていたギャバンの食事シーンに着目したのもカルネのカンの良さで、ギャバンという俳優はどんな映画のどんな状況でも食事だけはいつもうまそうに食べてみせる俳優です。たぶん『愛慾』のグレミヨンはそれに気づいていて、『愛慾』のギャバンは悪女のミレーユ・バランにここぞという時には食事の約束をすっぽかされる男です。いつどんな時でも食事だけはうまそうに食う男が食事の約束をすっぽかされるのですからいかに相手の女に馬鹿にされているかわかる。本作もどんな時でも食事がうまいギャバンのキャラクターが生かされた映画で、こうした丁寧な演出が光るからこそ『霧の波止場』を『望郷』より高く買うプロの映画人が多いのだろうと思います。ただ『望郷』が観客の記憶の中で美化されていくような大づかみな映画なのに対して本作は細部までこと細かな映画であるため全体的には大きな印象を残しにくい、小ぶりな映画のように見えてくる。本作は名作中の名作ですし、カルネほどの名手にしても、それが欠点では決してないだけに、映画の仕上がりのあり方の難しさを感じます。

●4月14日(土)
『獣 人』La bete humaine
100分 モノクロ 1938年12月23日(仏)/1940年2月19日(米)/日本公開1950年7月15日
監督 : ジャン・ルノワール
出演 : シモーヌ・シモン
機関士のジャックは、駅長のルボーと妻セヴリーヌが犯した殺人事件の唯一の目撃者だった。捜査が進む中でセヴリーヌとジャックは恋に落ちる。二人はルボーを殺す計画を立て始めるが……。

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 ヒロイン(シモーヌ・シモン)の設定が好色な養父に愛人にされていた生い立ちの女で、この設定覚えがあるけど本作のアメリカ版リメイク『仕組まれた罠』'54(フリッツ・ラング)ではなくて他にあったなと思ったらベルイマンの『夏の遊び』'51がそうだったのを思い出しました。ラングは『仕組まれた罠』を全然ルノワール作品には及ばなかったと卑下していますが、あれはあれでギャバンの訳をグレン・フォード、シモンの役をグロリア・グレアム、何よりシモンの夫役を名優フレデリック・クロフォード(『オール・ザ・キングスメン』)が演じており、シモンの養父殺しの後夫婦関係も陰惨になって、職務も放棄してどんどん落ちぶれていく姿がフォードとグレアムの不倫カップルをしのぐ重量感があり、実質的にはクロフォードが主役になっているのがルノワール作品とは全然別の作品として成功していました。ギャバンとシモンの不倫カップルが迎える結末もラング版のフォードとグレアムでは変えてあり、同じ破滅的結末でもラング版の方が現実的で苦い味わいがあるのではないか。ラングは『スカーレット・ストリート』'45でもルノワールの『牝犬』'31のリメイクをやっており、『スカーレット・ストリート』はラングのハリウッド時代唯一のラング自身がウォルター・ウェインジャーと設立したダイアナ・プロダクションでの3本きりの作品中の白眉であり、名手ダドリー・ニコルズの脚本は『牝犬』のプロットを借りながらまったく異なる視点から再構成したもので、エドワード・G・ロビンソンジョーン・ベネットの両者にとって'40年代の代表作になったラング会心の傑作でしたから、コロンビアの企画と脚本による『仕組まれた罠』は不本意な作品だったのかもしれません。またラングはルノワールより年長でキャリアも長い監督ですがルノワールの力量には感嘆を惜しまなかったので、それも『獣人』ほどの傑作ならリメイクして敵うわけはないと作る前から負けた気分だったのでしょう。ラングがお手上げと認めたように本作『獣人』の素晴らしさと言ったらなく、ルノワール自身の前年の『大いなる幻影』など本作に較べれば建て前で作ったとしか思えないような映画で、カルネの名作中の名作『霧の波止場』ですら才能のある青二才の映画のように見え、グレミヨンの『愛慾』が骨格だけで勝負に出た鉄砲玉的作品なら『獣人』のこれ以上ははないほど充実しきった映画無双ぶりは本気を出したルノワールがいかにとんでもない映画監督かを見せつけてあまりあり、横面をはり倒されたような衝撃を与えます。
 本作はもともとギャバン自身がパリ・フィルム・プロダクション製作で蒸気機関車運転手を演じる映画を思いつきジャン・グレミヨンに脚本・監督を依頼しましたがギャバンの気に入るシナリオにならなかったので、グレミヨンはゾラの『獣人』の映画化を代案に提案しました。ギャバンは『獣人』映画化を採用しましたがグレミヨンではなくルノワールに脚本・監督を依頼して大傑作となった本作が実現したそうで、グレミヨンには気の毒ですがグレミヨンが手がけたらルノワールほどの重量感は出なかったと思います。ルノワールエミール・ゾラの小説の映画化はサイレント時代の『ナナ』'26、またゾラの師ギュスターヴ・フロベール原作の映画化『ボヴァリー夫人』'33もあり、言うまでもなくルノワールの父上はフロベールやゾラの同時代の巨匠画家ピエール=オーギュスト・ルノワールですからもとより親近感がある。またデュヴィヴィエが大づかみなだけにやや粗っぽく、カルネが細密なためにやや小ぶりに見えてくるような問題はルノワールにはまったく起こらないのは技法的分析抜きに現実を直観的に把握し映画に映し撮ることができる力がある。この現実とはルノワールの実生活の現実と同じか、もっと強力なほどに映画という虚構の中の現実を作り出し真実性を感じ取ることができる、そうした直接性を持った現実です。ルノワールのリアリズムは現実に映画を似せよう、現実を写実した映画を作ろうというものではなくルノワールの作り出した映画はそのまま観客のいる現実と地続きの現実であって、『トニ』'34で照りつける陽射しや『ピクニック』'36で降る雨、『南部の人』'45で流れる川は映画の結構のためにそうあるのではなく現実に陽射し、雨、川がそこにあり、俳優たちも映画監督の演出下で厳密な演技をしているのではなくしばしばドラマとして見れば唐突で心理的な必然を欠いて見えもします。『獣人』はそれがルノワールの映画でも極端に表れた作品で、原作小説に非常に忠実な脚本(ルノワール単独執筆)ですがこんな無茶苦茶な話はあるまいと思うくらい登場人物たちはでたとこまかせで動いていて、プロットやストーリーといった概念すらなく一筆書きのようにして出来上がったように見える。ゾラの小説はそんなことはなくてしつこいくらい人物たちの性格と行動を念入りに読者に納得させるように書いている。ルノワールはゾラの小説の真実性を信じたので、小説の念入りなしつこさは俳優たちの肉体的存在感に託して小説のあらすじと場面だけを映画に映しました。ドラマ構成や登場人物たちの心理を説明するような台詞や映像を追加するようなこともない。そういう意味では本作は親切心に欠けたぶっきらぼうな映画です。俳優たちの演技や台詞が唐突ででたとこまかせに見えるのは、この映画ではそれが真実だからで本作ほど優しくもあれば率直で、狂暴でもある振幅の大きい役柄のギャバンは思いつかないくらいです。本作のヒロインの映画で最後の台詞は「何で私なの!」です。フリッツ・ラングも「勝ち目はないな」と感嘆した途方もない映画の本作は全然万人向けではないかもしれませんが、もう映画としての次元が他のギャバン主演作とは違います。本作は他社から単品発売もありますが、そちらは単品DVDで5,000円もします。1,800円の10枚組『ジャン・ギャバンの世界 第1集』なら『獣人』に豪華なオマケが9本もついてきます。この機会に未見の方はぜひご検討をお勧めします。

●4月15日(日)
珊瑚礁』Le recif de corail
90分 モノクロ 1939年3月1日(仏)/日本公開1940年10月
監督 : モーリス・グレーズ
出演 : ミシェル・モルガン
オーストラリアのブリスベンのとあるアパートで、住人の男を殺したレナール。アパートを訪れたアンナは、通報せずに彼を逃がすのだった。レナールはアボイ刑事の目を逃れ、ポートランド号という船に乗り込むが……。

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 シネ・アリアンヌ社製作の前々作『霧の波止場』に続いてミシェル・モルガンがヒロインを勤める本作はドイツ系大手映画社ウーファ映画社製作、シネ・アリアンヌ社配給ですからモルガンはシネ・アリアンヌ社の売り出し中の専属新人女優だったのでしょう。ぎりぎり戦時中の新作映画輸入禁止の直前に日本公開された本作は、ドイツ敗戦後にネガが焼失したとされ、以来半世紀以上ギャバン主演作中でも幻の消失作品と目されていましたが、保管状態も良くほぼ完全版(公開時のデータでは95分)の上映用プリントの1本が2003年にユーゴスラビアベオグラードのフィルム倉庫から発見され、無事フランスに買い戻されました。翌2004年にはさっそく未DVD化だったギャバン出演作品のジャン・グレミヨン『曳き船』'41、ジャン・ゴダール『一夜のために (Pour un soir)』'31とともにフランスでDVD化されましたが日本ではこの『ジャン・ギャバンの世界 第2集』の収録が初DVD化になります。コスミック出版はやはり10枚組廉価版DVDボックス『西部劇パーフェクトコレクション』(50巻以上)や『戦争映画パーフェクトコレクション』(20巻以上)でも他社単品DVDでは4,000円~5,000円で発売されている作品、日本未公開作品、日本初DVD化作品、世界初DVD化作品(!)を鬼のように毎月2巻ずつ(つまり20作ずつ)リリースしていますので買っても買っても追いつきません。書籍扱いですからDVDショップやレンタルには並ばず通販サイトや取り扱い書店で買うしかありませんが、日本近代美術館フィルムセンターよりもよっぽどすごいことをやっているのではないでしょうか。パブリック・ドメイン作品限定ですが、日本のDVD会社でコスミック出版に匹敵するクラシック映画発掘発売をしている会社は現在他に見当たらないのではないか。激安廉価版の上に良好なマスターの使用、画質音質、良質な翻訳スーパー字幕まで単品で高価な発売をしている他社より上質だったりします。
 しかし何なのかなこの映画は。冒頭はまるで状況説明なしに殺した男の部屋で茫然としているギャバンの姿から始まり、そこへやってきた殺した男の愛人らしい女アンナ(ジェニー・ブリュネー)に早く逃げなさいと言われ、やっと舞台はオーストラリアとわかってギャバンポートランド号の船長ジョリフ(ルイ・フロランシー)に拾われ、警部アボイ(ピエール・ルノワール)から逃れて船出するのすが、映画が進んで40分経過後メキシコに到着するまでギャバンは何もやることがないのです。メキシコ航路の途中でイギリス人の老人ホブソン(サテュルナン・ファーブル)が住む平和な珊瑚礁の島に寄っても船長からは何の仕事の指示もされないので仕方なくぶらぶらするだけ、水夫の仕事を手伝おうとすると「雇った仕事だけしてくれればいい」と止められる。結局ギャバンが拾われたのは警備船が近づいた時だけ偽船長に仕立てるためだったのがわかる。だからメキシコに密航が成功したらさっさとお払い箱にされてしまいます。そこで現地人に混じって生活を始めてすぐ嫌な縁談から逃げてきたという若いイギリス人女性リリアン・ホワイト(ミシェル・モルガン)に出会って恋仲になるのですが、アボイ警部がギャバンを訪ねてきてギャバンの殺した男は懸賞金つきのお尋ね者の犯罪者だったからギャバンは無罪とわかる。しかしモルガンの方も実は逃走中だった指名手配中の殺人犯だったのが露見してしまう。折りから伝染病が流行ってモルガンは倒れてしまい、アボイ警部が医者を連れてきて何とか回復する。ギャバンとモルガンはジョリフ船長の船で珊瑚礁の島に逃げようとしてアボイ警部に見つかるが、アボイ警部はモルガンは伝染病で死んだらしいねと船長に告げてギャバンとモルガンを見逃す、とこれでも脚本シャルル・スパークなのかと思うような間の抜けた話で、監督のモーリス・グレッツェ(1898-1974)はサイレント時代からのヴェテランらしいのですが'23年の監督デビューから'51年の引退作まで監督作品22本という作品数からも推察つくように代表作らしい代表作もヒット作もない監督のようです。寡作即二流監督というわけではなく寡作の一流監督だって映画史には数多いのですが、『珊瑚礁』の監督は忘れられるべくして忘れられた存在らしい。本作はギャバンとモルガン共演だけが見所の資料映像のような裏『霧の波止場』ですらない凡作でしょう。しかしこれも単品で5,000円払って買ったら地団駄を踏むような映画かもしれませんが、10枚組1,800円の激安廉価版DVDボックスの1枚として観るとこういう映画もあったということで観ておいて損はないなと思えてきます。若い映画青年時代のトリュフォーゴダールが通いつめていたという、1日6本~8本立てで所蔵映画を手当たり次第に上映していた伝説的なアンリ・ラングロワのシネマテーク・フランセーズも、こうしたコスミック出版的な映画との出会いの場だったと思われるのです。