人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(11); 立原道造 『萱草に寄す』

立原道造(1914-1939)23歳頃(昭和13年=1938年)、数寄屋橋ミュンヘンにて。

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 このシリーズでは明治30年代末から昭和10年代までほぼ40年間の日本の自由詩形式の詩集を取り上げてきました。すなわち日露戦争(明治37年=1904年~38年=1905年)後の高揚期の日本が昭和20年の太平洋戦争敗戦までに至る、日本人の現実認識と現実との乖離が痛ましいほど進んでいった時代です。明治大正の詩は近代詩と呼ぶ研究者の方が多数ですが、明治30年代の詩の優れたものはすでに現代詩としての特徴を備えており、1905年(日露戦争終結)~1945年(大東亜戦争・太平洋戦争敗戦)の40年間に形成され流通していた言語様式がそのまま戦後詩に持ち越された、というのが筆者の所感です。このブログでは以前高橋新吉詩集『戯言集』(昭和9年)、乾直惠詩集『肋骨と蝶』(昭和7年)などもご紹介しましたが、今回のシリーズで改めてご紹介した詩集を年代順に一覧にしてみます。

・伊良子清白『孔雀船』明治39年(1906年)
蒲原有明有明集』明治41作(1908年)
石川啄木『啄木遺稿』大正2年(1913年)
高村光太郎『道程』大正3年(1914年)
山村暮鳥『聖三陵玻璃』大正4年(1915年)
佐藤春夫『我が一九二二年』大正12年(1923年)
・尾形龜之助『雨になる朝』昭和4年(1929年)
・近藤東『抒情詩娘』昭和7年(1932年)
伊東静雄『わがひとに與ふる哀歌』昭和10年(1935年)
金子光晴『鮫』昭和12年(1937年)
・逸見猶吉『ウルトラマリン』昭和15年(1940年/執筆1929~36年)

 上記の詩集のどれでもいいですが、おそらくこれらの詩人の誰よりも広く読まれている今回ご紹介する詩集と並べてご覧ください。これは現代詩のレトリックのもっとも頽廃した地点で成立しており、23歳の成人男性が公刊したとは思えないような文体と題材から成り立っています。しかしこの詩集の魅力はその徹底した稚さにあるので、現代詩の発想の上ではこのスタイルの出現は一種の必然とも言えるものでした。この80年前の詩集の文学的価値を完全に抹消できるほど、戦後現代詩は決定的に新しい詩法を生み出していないとも言えるのです。
 
『萱草(わすれぐさ)に寄す』昭和12年(1937年)5月12日・風信子叢書刊行会刊(私家版)

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萱草(わすれぐさ)に寄す

立原道造


SONATINE
 No.1


 はじめてのものに

ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明かつたが 私はひとと
窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峽谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

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(「四季」昭和10年=1935年11月)


 またある夜に

私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷のやうに

私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出會つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈のやうに

その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ……(ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう

(「四季」昭和10年=1935年11月)


 (おそ)日の夕べに

大きな大きなめぐりが用意されてゐるが
だれにもそれとは氣づかれない
空にも 雲にも うつろふ花らにも
もう心はひかれ誘はれなくなつた

夕やみの淡い色に身を沈めても
それがこころよさとはもう言はない
啼いてすぎる小鳥の一日も
とほい物語と唄を教へるばかり

しるべもなくて來た道に
道のほとりに なにをならつて
私らは立ちつくすのであらう

私らの夢はどこにめぐるのであらう
ひそかに しかしいたいたしく
その日も あの日も賢いしづかさに?

(「新潮」昭和11年=1936年9月)


 わかれる晝に

ゆさぶれ 青い梢を
もぎとれ 青い木の實を
ひとよ 晝はとほく澄みわたるので
私のかへつて行く故里が どこかにとほくあるやうだ

何もみな うつとりと今は親切にしてくれる
追憶よりも淡く すこしもちがはない靜かさで
單調な 浮雲と風のもつれあひも
きのふの私のうたつてゐたままに

弱い心を 投げあげろ
噛みすてた青くさい核(たね)を放るやうに
ゆさぶれ ゆさぶれ

ひとよ
いろいろなものがやさしく見いるので
唇を噛んで 私は憤ることが出来ないやうだ

(「四季」昭和11年=1936年11月)


 のちのおもひに

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 眞冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

(「四季」昭和11年=1936年11月)


 夏花の歌


  その一

空と牧場のあひだから ひとつの雲が湧きおこり
小川の水面に かげをおとす
水の底には ひとつの魚が
身をくねらせて 日に光る

それはあの日の夏のこと!
いつの日にか もう返らない夢のひととき
默つた僕らは 足に藻草をからませて
ふたつの影を ずるさうにながれにまかせ揺らせてゐた

……小川の水のせせらぎは
けふもあの日とかはらずに
風にさやさや ささやいてゐる

あの日のをとめのほほゑみは
なぜだか 僕は知らないけれど
しかし かたくつめたく 横顔ばかり

(「コギト」昭和11年=1936年2月)


  その二

あの日たち 羊飼ひと娘のやうに
たのしくばつかり過ぎつつあつた
何のかはつた出來事もなしに
何のあたらしい悔ゐもなしに

あの日たち とけない謎のやうな
ほほゑみが かはらぬ愛を誓つてゐた
薊の花やゆふすげにいりまじり
稚い いい夢がゐた――いつのことか!

どうぞ もう一度 歸つておくれ
青い雲のながれてゐた日
あの晝の星のちらついてゐた日……

あの日たち あの日たち 歸つておくれ
僕は 大きくなつた 溢れるまでに
僕は かなしみ顫へてゐる

(「四季」昭和11年=1936年7月)


SONATINE
 No.2


 虹とひとと

雨あがりのしづかな風がそよいでゐた あのとき
叢は露の雫にまだ濡れて 蜘蛛の念珠(おじゆず)も光つてゐた
東の空には ゆるやかな虹がかかつてゐた
僕らはだまつて立つてゐた 默つて!

ああ何もかもあのままだ おまへはそのとき
僕を見上げてゐた 僕には何もすることがなかつたから
(僕はおまへを愛してゐたのに)
(おまへは僕を愛してゐたのに)

また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる
明るい青い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに
小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる

おまへの睫毛にも ちひさな虹が憩んでゐることだらう
(しかしおまへはもう僕を愛してゐない
僕はもうおまへを愛してゐない)

(「四季」昭和12年=1937年1月)


 夏の弔ひ

逝いた私の時たちが
私の心を金(きん)にした 傷つかぬやう傷は早く愎るやうにと
昨日と明日との間には
ふかい紺青の溝がひかれて過ぎてゐる

投げて捨てたのは
涙のしみの目立つ小さい紙のきれはしだつた
泡立つ白い波のなかに 或る夕べ
何もがすべて消えてしまつた! 筋書どほりに

それから 私は旅人になり いくつも過ぎた
月の光にてらされた岬々の村々を
暑い 涸いた野を

おぼえてゐたら! 私はもう一度かへりたい
どこか? あの場所へ(あの記憶がある
私が待ち それを しづかに諦めた――)

(「ゆめみこ」昭和11年=1936年1月、「四季」昭和12年=1937年1月)


 忘れてしまつて

深い秋が訪れた!(春を含んで)
湖は陽にかがやいて光つてゐる
鳥はひろいひろい空を飛びながら
色どりのきれいな山の腹を峡の方に行く

葡萄も無花果も豐かに熟れた
もう穀物の収穫ははじまつてゐる
雲がひとつふたつながれて行くのは
草の上に眺めながら寝そべつてゐよう

私は ひとりに とりのこされた!
私の眼はもう凋落を見るにはあまりに明るい
しかしその眼は時の祝祭に耐へないちひささ!

このままで 暖かな冬がめぐらう
風が木の葉を播き散らす日にも――私は信じる
靜かな音樂にかなふ和やかだけで と

(「四季」昭和12年=1937年1月)