(立原道造<大正3年=1914年7月30日生~昭和14年=1939年3月29日没>、23歳(昭和13年=1938年)、数寄屋橋ミュンヘンにて)
これまで明治20年代初頭に始まり昭和60年代までの、ほぼ100年にわたる日本の自由詩形式の詩=現代詩をご紹介してきました。その100年のうち約40年間、すなわち日露戦争(明治37年=1904年~38年=1905年)後の高揚期から昭和20年(1945年)の太平洋戦争敗戦までが日本のパトリオシズムの時期であり、日本人の現実認識と現実との乖離が痛ましいほど進んでいった時代です。敗戦後の昭和27年までは日本は実質的にアメリカ軍による連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下に置かれており、敗戦後の占領期と朝鮮戦争への協力期を含めれば日露戦争からの50年間が軍事によって左右されていた時代でした。明治大正までの詩は便宜的に近代詩と呼んで区別する研究者も多いのですが、明治30年代までの詩も優れたものはすでに現代詩としての特徴を備えており、1905年(日露戦争終結)~1945年(大東亜戦争・太平洋戦争敗戦)の40年間に形成され流通していた言語様式がそのまま戦後詩に持ち越されて発展した、という見方もなり立ちます。これまで詩集中の1篇~数篇の代表作をご紹介してきた1905年~1945年までの詩集を上げると、
・伊良子清白『孔雀船』明治39年(1906年)
・蒲原有明『有明集』明治41作(1908年)
・石川啄木『啄木遺稿』大正2年(1913年/執筆1906年~1911年)
・高村光太郎『道程』大正3年(1914年)
・山村暮鳥『聖三陵玻璃』大正4年(1915年)
・萩原朔太郎『月に吠える』大正6年(1917年)
・佐藤春夫『我が一九二二年』大正12年(1923年)
・山村暮鳥『雲』大正14年(1925年)
・八木重吉『秋の瞳』大正14年(1925年)
・三富朽葉『三富朽葉詩集』大正15年(1926年/執筆1908年~1917年)
・『富永太郎詩集』昭和2年(1927年/執筆1921年~1925年)
・尾形龜之助『雨になる朝』昭和4年(1929年)
・三好達治『測量船』昭和5年(1930年)
・菱山修三『懸崖』昭和6年(1931年)
・金子光晴『鮫』昭和12年(1937年)
・逸見猶吉『ウルトラマリン』昭和15年(1940年/執筆1929年~36年)
・瀧口修造『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』昭和42年(1967年/執筆1927年~1937年)
上記の詩集のどれでもいいですが、おそらくこれらの詩人の誰よりも広く長く読まれている今回ご紹介する詩集と並べてご覧ください。たった10篇の14行詩だけを収めたこの詩集は現代詩の言語意識のもっとも頽廃した地点で成立しており、23歳の成人男性が第1詩集として公刊したとは思えないような幼い文体と題材から成り立っています。詩集1冊を費やして分量・内容ともに『氷見敦子詩集』の1篇にもおよばないようなものです。しかしこの立原道造詩集の魅力は徹底して抵抗感を排除した無防備な稚さにあるので、現代詩の発想の上ではこのスタイルの出現は一種の必然とも言える画期的なものでした。舌足らずで朦朧として暗示的かつ明確な像を結ばないのに、その幼げなスタイルは未完成感なまま読解を読者に託しているので、逆説的に甘やかな魅力を放っています。八木重吉にも当てはまりますが、立原道造のこの手法は島崎藤村以来の現代詩が必ずしも自覚していなかった反男性(マチズモ)的文体を意識的な方法としたもので、小説はもちろん批評・詩・劇作にいたるまで明治以降の日本文学が男性的文体を鍛え上げてきたのとはまったく異なる方向性を目指してささやかな、しかし確かな達成を示したものです。
これがこの詩人の全力を尽くした発明なのは全5巻にもおよぶ浩瀚な『立原道造全集』を仔細に読んでも明らかなので、この詩人が堀辰雄の秘蔵っ子であり晩年に王朝時代の退廃的貴族文学を尊ぶ日本浪漫派に接近したのも、武家の台頭期に文化的衰退を迎えた貴族的な滅びの質として『新古今和歌集』に近い伝統的正統性があったからです。この80年以上も昔の詩集の文学的価値を完全に抹消できるほど昭和後半~現在までの現代詩は真に読者の言語意識を変える決定的に新しい詩法を生み出していないとも言えますし、立原道造の詩法もそれだけ射程の長い現代詩の可能性を予見していたので、これもまた今なお新たな観点から読み返される意義を備えた詩集と認めざるを得ません。これは立原道造詩集だけを読んではわからず、明治20年代から現在まで150年近い現代詩史全体に立原道造を置いた時に初めて浮かび上がってくるので、あえて女性詩人によるもっとも苛烈な詩集『氷見敦子詩集』全編をご紹介した直後に、両極にあるような立原道造、一般的には青春恋愛抒情詩として広く愛読者を持つこの詩人をご紹介した意図でもあります。臓腑を切り裂くように書かれた氷見敦子詩集と較べたら、立原道造詩集は入浴中の放屁のようなものかもしれません。しかしそのどちらにも人生の真実はあるのです。
『萱草(わすれぐさ)に寄す』昭和12年(1937年)5月12日・風信子叢書刊行会刊(私家版)
萱草(わすれぐさ)に寄す
SONATINE
No.1
はじめてのものに
ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた
その夜 月は明かつたが 私はひとと
窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峽谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた
――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた
いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた
(「四季」昭和10年=1935年11月)
またある夜に
私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷のやうに
私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出會つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈のやうに
その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ……(ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)
私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう
(「四季」昭和10年=1935年11月)
晩(おそ)き日の夕べに
大きな大きなめぐりが用意されてゐるが
だれにもそれとは氣づかれない
空にも 雲にも うつろふ花らにも
もう心はひかれ誘はれなくなつた
夕やみの淡い色に身を沈めても
それがこころよさとはもう言はない
啼いてすぎる小鳥の一日も
とほい物語と唄を教へるばかり
しるべもなくて來た道に
道のほとりに なにをならつて
私らは立ちつくすのであらう
私らの夢はどこにめぐるのであらう
ひそかに しかしいたいたしく
その日も あの日も賢いしづかさに?
(「新潮」昭和11年=1936年9月)
わかれる晝に
ゆさぶれ 青い梢を
もぎとれ 青い木の實を
ひとよ 晝はとほく澄みわたるので
私のかへつて行く故里が どこかにとほくあるやうだ
何もみな うつとりと今は親切にしてくれる
追憶よりも淡く すこしもちがはない靜かさで
單調な 浮雲と風のもつれあひも
きのふの私のうたつてゐたままに
弱い心を 投げあげろ
噛みすてた青くさい核(たね)を放るやうに
ゆさぶれ ゆさぶれ
ひとよ
いろいろなものがやさしく見いるので
唇を噛んで 私は憤ることが出来ないやうだ
(「四季」昭和11年=1936年11月)
のちのおもひに
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには
夢は 眞冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
(「四季」昭和11年=1936年11月)
夏花の歌
その一
空と牧場のあひだから ひとつの雲が湧きおこり
小川の水面に かげをおとす
水の底には ひとつの魚が
身をくねらせて 日に光る
それはあの日の夏のこと!
いつの日にか もう返らない夢のひととき
默つた僕らは 足に藻草をからませて
ふたつの影を ずるさうにながれにまかせ揺らせてゐた
……小川の水のせせらぎは
けふもあの日とかはらずに
風にさやさや ささやいてゐる
あの日のをとめのほほゑみは
なぜだか 僕は知らないけれど
しかし かたくつめたく 横顔ばかり
(「コギト」昭和11年=1936年2月)
その二
あの日たち 羊飼ひと娘のやうに
たのしくばつかり過ぎつつあつた
何のかはつた出來事もなしに
何のあたらしい悔ゐもなしに
あの日たち とけない謎のやうな
ほほゑみが かはらぬ愛を誓つてゐた
薊の花やゆふすげにいりまじり
稚い いい夢がゐた――いつのことか!
どうぞ もう一度 歸つておくれ
青い雲のながれてゐた日
あの晝の星のちらついてゐた日……
あの日たち あの日たち 歸つておくれ
僕は 大きくなつた 溢れるまでに
僕は かなしみ顫へてゐる
(「四季」昭和11年=1936年7月)
SONATINE
No.2
虹とひとと
雨あがりのしづかな風がそよいでゐた あのとき
叢は露の雫にまだ濡れて 蜘蛛の念珠(おじゆず)も光つてゐた
東の空には ゆるやかな虹がかかつてゐた
僕らはだまつて立つてゐた 默つて!
ああ何もかもあのままだ おまへはそのとき
僕を見上げてゐた 僕には何もすることがなかつたから
(僕はおまへを愛してゐたのに)
(おまへは僕を愛してゐたのに)
また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる
明るい青い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに
小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる
おまへの睫毛にも ちひさな虹が憩んでゐることだらう
(しかしおまへはもう僕を愛してゐない
僕はもうおまへを愛してゐない)
(「四季」昭和12年=1937年1月)
夏の弔ひ
逝いた私の時たちが
私の心を金(きん)にした 傷つかぬやう傷は早く愎るやうにと
昨日と明日との間には
ふかい紺青の溝がひかれて過ぎてゐる
投げて捨てたのは
涙のしみの目立つ小さい紙のきれはしだつた
泡立つ白い波のなかに 或る夕べ
何もがすべて消えてしまつた! 筋書どほりに
それから 私は旅人になり いくつも過ぎた
月の光にてらされた岬々の村々を
暑い 涸いた野を
おぼえてゐたら! 私はもう一度かへりたい
どこか? あの場所へ (あの記憶がある
私が待ち それを しづかに諦めた――)
(「ゆめみこ」昭和11年=1936年1月、「四季」昭和12年=1937年1月)
忘れてしまつて
深い秋が訪れた!(春を含んで)
湖は陽にかがやいて光つてゐる
鳥はひろいひろい空を飛びながら
色どりのきれいな山の腹を峡の方に行く
葡萄も無花果も豐かに熟れた
もう穀物の収穫ははじまつてゐる
雲がひとつふたつながれて行くのは
草の上に眺めながら寝そべつてゐよう
私は ひとりに とりのこされた!
私の眼はもう凋落を見るにはあまりに明るい
しかしその眼は時の祝祭に耐へないちひささ!
このままで 暖かな冬がめぐらう
風が木の葉を播き散らす日にも――私は信じる
靜かな音樂にかなふ和やかだけで と
(「四季」昭和12年=1937年1月)
(以上詩集『萱草に寄す』全篇)
(旧稿を改題・出直ししました)