北村透谷(門太郎)・明治元年(1868年)12月29日生~明治27年(1894年)5月16日逝去(縊死自殺、享年25歳)。明治25年=1892年夏(23歳)、同年6月生の長女・英子と。
前回は北村透谷の簡略な経歴とともに「自序」と「第一」~「第四」を読んで行きました。今回は「第五」~「第八」の4章を読み進めていきます。全16章からなる『楚囚之詩』の全編は第1回・北村透谷『楚囚之詩』(i)に載せてあります。今回も各章をご紹介した後で大まかな読解を載せる形式を取りました。
『楚囚之詩』明治22年(1889年)4月9日・春洋堂刊。四六判横綴・自序2頁、本文24頁。
第五
あとの三個(みたり)は少年の壮士なり、
或は東奥(とうおう)、或は中国より出でぬ、
彼等は壮士の中にも余が愛する
真に勇豪なる少年にてありぬ、
左れど見よ彼等の腕の縛らるゝを!
流石に怒れる色もあらはれぬ――
怒れる色! 何を怒りてか?
自由の神は世に居まさぬ!
兎(と)は言へ、猶(な)ほ彼等の魂(たま)は縛られず、
磊落に遠近(おちこち)の山川に舞ひつらん、
彼の富士山の頂に汝の魂は留りて、
雲に駕し月に戯れてありつらん、
嗚呼何ぞ穢なき此の獄舎(ひとや)の中に、
汝の清浄なる魂が暫時(しばし)も居らん!
斯く云ふ我が魂も獄中にはあらずして
日々夜々軽るく獄窓を逃げ伸びつ
余が愛する処女の魂も跡を追ひ
諸共に、昔の花園に舞ひ行きつ
塵なく汚れなき地の上にはふバイヲレット
其名もゆかしきフォゲットミイナット
其他種々(いろいろ)の花を優しく摘みつ
ひとふさは我が胸にさしかざし
他のひとふさは我が愛に与へつ
ホツ! 是(こ)は夢なる!
見よ! 我花嫁は此方(こなた)を向くよ!
其の痛ましき姿!
嗚呼爰(ここ)は獄舎
此世の地獄なる。
[ 第五 ]
・第五章も第二章24行、第三章28行、第四章30行と続く28行の長い章です。第三章でこの房舎は「四つのしきりが境となり、/四人の罪人が打揃ひて」「四人は一室にありながら/物語りする事は許されず、/四人は同じ思ひを持ちながら/そを運ぶ事さへ容されず、」とあり、さらに第四章で「四人の中にも、美くしき/我が花嫁……いと若かき」と語り手の恋人も同じ事件での政治犯として同房にいることが語られます。普通アパートメント形式の部屋は正方形にしろ長方形にしろ四辺が90度ずつの四角に作られますから(一戸建てならば例外もありますが。またアパートメントなら四角でも台形は例外的でしょう)、読者はこの詩の記述ではやや長方形の部屋を中央で十字に区切った四人部屋を想像します。それでは窓側2と廊下側2に分かれて不平等ですし、窓側2は刑務官からの監視を逃れやすく管理の上で不都合ですから部屋を四等分するなら窓と廊下を結ぶ縦割りに四分割するのが合理的ですが、それでは自分以外の同房者を語り手が一望できる視点が成立しません。つまり第三章の時点ですでに四分割された獄舎の記述には論理的矛盾があるのですが、詩の論理は必ずしも現実法則に従う必要はありませんから第四章までは『楚囚之詩』はそういう設定なのだ、と読むことができたわけです。しかし第五章で「あとの三個(みたり)は少年の壮士なり」となると明らかに一編の長編詩の中で記述に矛盾が生じることになり、しかもこの矛盾を解消するには現実法則に頼らなければならない、という破綻をきたしてしまいます。第三章と第四章まで読めば読者は「四人」とは語り手、恋人、その他2人と解釈するのが当然で、語り手も恋人も四人の中に含まれるのは「余は心なく頭を擡(もた)げて見れば、/この獄舎は広く且つ空しくて/中に四つのしきりが境となり、/四人の罪人が打揃ひて――」(第三章)、「四人の中にも、美くしき/我が花嫁……いと若かき」(第四章)から明らかです。第五章冒頭に「あとの三個(みたり)は少年の壮士なり」の三人に「余は其の首領なり」(第一章)という語り手が含まれるはずはなく、透谷が「あとの三個(みたり)」と書いてしまったのは二人では個別の個性に触れないと不自然だから「三個(みたり)」という集合にしてしまったのでしょう。しかし「四つのしきりが境となり、/四人の罪人が打揃ひて――」「四人は一室にありながら/物語りする事は許されず、/四人は同じ思ひを持ちながら/そを運ぶ事さへ容されず、」(第三章)という詠嘆は「四人」の中に「余」も含まれてこそ実感のこもった表現であるはずです。なのに第五章で透谷は数だけ合わせて語り手を数えるのを忘れてしまったか、あるいは縦割りに「四つのしきり」を入れれば現実法則では部屋は五分割されますから語り手、恋人、「あとの三個(みたり)」でも不都合はないわけです。すると語り手が恋人を含めた他の4人を一望する視点は中央で十字に四分割された対照型の具体的なイメージが崩れて恣意的で曖昧なものになり、「四つのしきり」といっても床にチョークで線を引いた程度のもの、せいぜい腰までの高さのついたて(これは現在でも独房でトイレを隠すのに使われていますが)でなければ語り手には獄舎を一望できないことになります(これも現実法則)。この28行からなる第五章は単独では定型律と不規則律、脚韻をうまく生かして漢文と英文学から学んだ透谷の才能が躍動しているものですが、獄舎という設定の中の独白という形式で語り手以外に(回想ではなく、眼前の)登場人物を呼び込むために分割独房という仕組みを発案しておきながら虚構の中のリアリティに一貫性を保つ配慮を忘れてしまった、才に任せて勢いで書いてしまったように見えます。こうした連は推敲の際にも見落としがちなので、透谷には「あとの三個(みたり)」が動かせなかったので第三章と第四章の「四つのしきり」「四人」も縦割り構造で「余」は四人とは別(つまり実は五人)ということでよし、として、読者のイメージには中央で象徴的に十字に仕切られた四人部屋の像が強い(語り手が他の全員を一望しているからにはそう解釈する)ことに気づかないか、または曖昧に棚上げにしてしまいました。しかし詩の持つ虚構のリアリティは具体的なイメージの一貫性にあります。時流を越えた傑出した作品とはいえ、『楚囚之詩』は20歳の詩人の若書きであることも寛恕しなければなりません。ただし比率がほぼ半々ならばともかく(それですら無理がありますが)トラブルを招きやすい男4、女1の混交房など明治時代ですらまず考えられないことです。
第六
世界の太陽と獄舎(ひとや)の太陽とは物異(かわ)れり
此中には日と夜との差別の薄かりき、
何(な)ぜ……余は昼眠る事を慣(なれ)として
夜の静かなる時を覚め居たりき、
ひと夜。余は暫時(しばし)の坐睡を貪りて
起き上り、厭はしき眼を強ひて開き
見廻せば暗さは常の如く暗けれど、
なほさし入るおぼろの光……是れは月!
月と認(み)れば余が胸に絶えぬ思ひの種(たね)、
借りに問ふ、今日の月は昨日の月なりや?
然り! 踏めども消せども消えぬ明光(ひかり)の月、
嗚呼少(わか)かりし時、曽(か)つて富嶽に攀上(よじのぼ)り、
近かく、其頂上(いただき)に相見たる美くしの月
美の女王! 曽つて又た隅田(すみだ)に舸(ふね)を投げ、
花の懐(ふところ)にも汝とは契りをこめたりき。
同じ月ならん! 左れど余には見えず、
同じ光ならん! 左れど余には来らず、
呼べど招けど、もう
汝は吾が友ならず。
[ 第六 ]
・第二章~第五章から一転して短い、わずか19行の第六章ですが、1行/3行/5行/4行(2行+2行)/6行(2行+2行+2行)と不規則に累積していくダイナミックな構成は文語自由詩としてはほとんど口語表現に近づいたもので、透谷以降15年以上を経た蒲原有明、岩野泡鳴まで現れなかったものです。また完全な口語自由詩ではこの表現の凝縮力は困難なので、萩原朔太郎が有力な口語自由詩の確立者でありながら『氷島』(昭和7年=1932年)で文語自由詩に向かい、『氷島』影響下に伊東静雄の『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年=1935年)、『夏花』(昭和14年=1939年)が現れたのも現代詩史の上では必然とも言えるものでした。敗戦後にも文語自由詩を書き続けたのは長命だった佐藤春夫と伊東より直接に萩原に師事した三好達治くらいなものですが、萩原や伊東のような透谷からの継承を感じさせるものではありません。この第六章は律を揃えた対句表現が転換するたびに視点も展開していく構造をとっており、第三章で「左れど其壁の隙又た穴をもぐりて/逃場を失ひ、馳込む日光もあり」と詠まれた獄中に差し込む光の月光版です。この光は獄舎の外の希望であり少年時代からの憧憬であり、また同じ獄舎にいながら隔てられて会話すら禁じられた恋人を表すものでもあります。レトリック自体は特に冴えたものはなく意味だけとれば特筆すべきものはないような章ですが、解説冒頭に指摘した通りこの章の不規則律は微分韻とでも呼ぶべきうねりがあり、透谷の天性の語感の鋭さを感じさせます。透谷の業績は同時代にも後世も詩よりも批評あるとされるのが一般的評価ですが、この韻律的革新性は政治的内容とあいまって透谷自身の自信も挫き、詩集は透谷自身によって発売中止となり明治35年版全集への収録まで事実上公刊されなかったのです。
第七
牢番は疲れて快(よ)く眠り、
腰なる秋水のいと重し、
意中の人は知らず余の醒めたるを……
眠の極楽……尚ほ彼はいと快よし
嗚呼二枚の毛氈の寝床(とこ)にも
此の神女の眠りはいと安し!
余は幾度も軽るく足を踏み、
愛人の眠りを攪(さま)さんとせし、
左れど眠の中に憂(うさ)のなきものを、
覚させて、其(そ)を再び招かせじ、
眼を鉄窓の方に回(か)へし
余は来るともなく窓下に来れり
逃路を得んが為ならず
唯(た)だ足に任せて来りしなり
もれ入る月のひかり
ても其姿の懐かしき!
[ 第七 ]
・全16行、短い章が続きます。それでも第一章が8行(4行+4行)の序詩程度の短章だったのに較べれば本文をなすだけの長さではあります。このあたりは全16章からなる長編詩の中間部ですし、前半のクライマックスは早くも第三章~第五章に描かれた監禁状態の苦悶にありますから、細部といえば細部、脇筋といえば脇筋になります。内容は「牢番」の居眠り中にやはり眠っている「神女」である「愛人」を足音で目覚めさせ、気を惹こうかとしたが上手くいかなかったというものですが、まず集団として同室の革命結社の逮捕者四人を詠んだ第三章、その中の恋人を詠んだ第四章、さらに部下三人を詠んだ第五章と読んできて不審に思うのは、革命結社の首領を称する語り手「余」が同房の四人を観察する描写が細かく記述されているにもかかわらず、他の四人からの「余」への眼差しがまったく描かれていないことで、せいぜい視線の交錯、隠れた仕草くらいは行われていてもおかしくはないですし、一見『楚囚之詩』は獄舎内の具体的描写が描かれているように見えますが、ため息、咳ばらい、嗚咽などの身体的行為、さらに監禁状態では極めて重要な食事と排泄のうち排泄は美的見地から割愛したとしてもいいですが、これらが描写されず他者からの語り手「余」へのリアクションもないのは透谷が肉体と主体性を持った他者として登場人物を描かず、「四人の罪人」(第三章)を状況下での概念の擬人化としか描かなかったことを示します。この第七章の韻律構造は2行ずつの対句が8回で16行、という『楚囚之詩』の中でも韻律においてあえてシンプルにまとめたもので、最終連で「もれ入る月のひかり」に帰結しますから月光の章というべき第六章を受け継いだバトンのような短章と見るべきでしょう。「もれ入る月のひかり/ても其姿の懐かしき!」そしてこれが第八章への導入部となるわけです。
第八
想ひは奔(はし)る、往きし昔は日々に新なり
彼の山、彼水、彼庭、彼花に余が心は残れり、
彼の花! 余と余が母と余が花嫁と
もろともに植ゑにし花にも別れてけり、
思へば、余は暇(いとま)を告ぐる隙(ひま)もなかりしなり。
誰れに気兼するにもあらねど、ひそひそ
余は獄窓の元に身を寄せてぞ
何にもあれ世界の音信(おとずれ)のあれかしと
待つに甲斐あり! 是は何物ぞ?
送り来れるゆかしき菊の香り!
余は思はずも鼻を聳(そび)えたり、
こは我家の庭の菊の我を忘れで、
遠く西の国まで余を見舞ふなり、
あゝ我を思ふ友!
恨むらくはこの香り
我手には触れぬなり。
[ 第八 ]
・これも16行の短章で、内容は第七章結句の「もれ入る月のひかり/ても其姿の懐かしき!」に導かれた往時の回想です。6行(2行+2行+2行)+7行(4行<2行+2行>+3行)+3行、という対句単位の微分はここまで『楚囚之詩』を読んできた読者には透谷独自の文体としてむしろ普通に読過してしまうほどこなれたものになっており、「彼の山、彼水、彼庭、彼花に余が心は残れり、/彼の花! 余と余が母と余が花嫁と/もろともに植ゑにし花にも別れてけり、」に見られる類語反復には一気呵成の勢いが感じられます。「彼の山、彼水、彼庭、彼花」はもちろん「彼の山、水、庭、花」としても意味が通じるので、強意の効果を込めて冗語表現をしているのです。「余と余が母と余が花嫁と」も同様で、「余と母と花嫁と」では物足りず「余と余が母と余が花嫁と」と念を押している。こうした冗語法には強意だけではなく音楽的効果もありますが一歩間違えば通俗きわまりない危険性もあり、唐突に「思へば、余は暇(いとま)を告ぐる隙(ひま)もなかりしなり。」と散文的なストップをかけているのは筆の滑りに気づいてのことでしょう。末尾の2行・3行・3行は「~是は何物ぞ?/~菊の香り!」「~聳(そび)えたり、/~我を忘れで、/~見舞ふなり、」「あゝ我を思ふ友!/恨むらくはこの香り/我手には触れぬなり。」とくどいまでに「香り」「~たり」「~なり」と脚韻を踏んでいます。脚韻のための脚韻を得意げに踏んだような詩は詩としては品格が下るものですが、透谷の場合は漢文脈の文語構文を利用してかろうじて一歩手前に留まった、と言えるでしょうか。明治以降の現代詩における定型律や規則的脚韻はさまざまに試みられてきましたが、文語詩においては機械的で不自然になり、口語詩においては文法自体を破壊してしまうので脚韻で得られる効果より失われるものの方が大きい、というのが先人たちによる妥当な経験則です。平仄(韻律)や脚韻の概念は中国文学や西洋、主に英米文学における詩の技術であり、中国文学からの影響は歴史的に長い分だけ日本語の基本構造に浸透しているのに対し、西洋文学の言語が日本語の構造に入り込んできてからはまだ150年も経ちません。透谷は馴染んだ漢詩文をフィルターにして英文学を日本語化した、または日本語で英文学を書いたので、『楚囚之詩』とは極端な人工言語で書かれた詩作品であることを見落とすわけにはいきません。第八章のように一見逡巡なく書かれた短章さえも決して標準的な文語体ではないので、こんなに対句だらけ、脚韻だらけの文体が意識的操作なしに仕上げられるでしょうか。