人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年7月13日~15日/イングマール・ベルイマン(1918-2007)の'50年代作品(1)

(『不良少女モニカ』アメリカ封切りポスター)

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 今回取り上げる第11作『シークレット・オブ・ウーマン(女たちの期待)』から本格的にベルイマン作品の作風確立期が始まります。『シークレット・オブ・ウーマン(女たちの期待)』は包括的作家論『ベルイマンの世界』で著者ジャック・シクリエが「非常に多作な作家の作品においては、完成され磨き抜かれ内容に富んだ作品よりも軽い作品の方が作家の主要テーマを明らかにすることがある。これまでで作品で象徴済みの、あるいはより展開されるべきテーマについての単純なスケッチである本作がそれにあたる」とした作品になり、スウェーデン国内で大ヒットしました。また第12作『不良少女モニカ』は映画批評家時代のジャン=リュック・ゴダールが「これは誰よりもオリジナリティのある映画作家のもっともオリジナリティのある作品だ。今日の映画界にあって『国民の創生』(グリフィス)と同じ役割を果たしている。『素直な悪女』(ヴァディム)に較べてもいいがより天才的だし、ケチをつける個所がまったくない。ドラマチックな点でもモラルの点でもコンストラクションが実に上手いし、演出の切れ味には驚くほかない」(『不良少女モニカ』評・1958年7月)と絶賛し、カイエ・デュ・シネマ派の新人ヌーヴェル・ヴァーグ監督、特にフランソワ・トリュフォーへの強い影響が指摘される作品で、早い時期から諸外国でも公開され評判になった国際的出世作の一本になりました。続く『道化師の夜』もスウェーデン国内の批評家からの絶賛を寄せられた意欲的な異色作でしたが、これは興行成績は大都市以外は惨敗で続く(次回紹介の)『愛のレッスン』『女たちの夢』『夏の夜は三たび微笑む』は興行的成功作『シークレット・オブ・ウーマン(女たちの期待)』の路線を踏襲した恋愛コメディ三部作になります。ともあれ、どこかしら骨格に脆弱さがあった『夏の遊び』までの初期監督作品10本から『シークレット・オブ~』以降のベルイマンは格段の成長を見せており、優劣があるにしても一段上のステージに上がったのが実感されます。今回の3本も3作とも特色に富んだものでベルイマン作品中でももっとも早く戦後映画の古典となった作品群と言ってよく、ベルイマンは何を観ても同じという指摘はこの時期については当てはまらないのではないでしょうか。

●7月13日(木)
『シークレット・オブ・ウーマン(女たちの期待)』Kvinnors vantan (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'52)*103min, B/W, Standard

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・昭和63年(1988年)にようやく日本公開された第11作でオムニバス的恋愛コメディの快作。撮影のグンナル・フィッシェルも冴え、前作『夏の遊び』の成功から飛躍的に視野の広い洗練された作品になった。英Tartan Video社からのベルイマンDVD全集(2002年~2007年)では第10作とされており、第9作『それはここでは起こりえない』'50はフィルモグラフィから抹殺作品にされている事情が察せられる。さて本作は郊外の小島の別荘に夫たちより先に来てヴァカンスを送っている富豪一家の四人兄弟の妻たちが各々の「夫婦生活の秘密」を語り合う。会社員の長男ポールの妻アネッテは毎日が同じ会話で明け暮れる平々凡々な結婚生活と打ち明け、ラーケル(アニータ・ビョルク)は寡黙な三男の美術評論家夫エウシェン(カール=アーネ・ホルムステーン)に飽きたらず愛人を作るが「一時の遊びさ」と一蹴される。不倫の事実を知ったエウシェンは無言で猟銃を持って小屋に立てこもるが、ポールの説得で自殺を諦めて出てくる。エウシェンは裏切られるより孤独の方が辛いと言い、ラーケルはエウシェンに母性愛を抱く。それにつられて末弟四男マッティン(ビルイェル・マルムスティーン)の妻となったマッタ(マイ=ブリット・ニルソン)はパリでのマルティンとのなれそめや、芸術家(画家)志願の彼の身勝手さ、家業のため仕送りを打ち切られたマルティンが相談もなく帰郷してしまった後で妊娠が判明し一人で子供を生もうとして出産直前に駆けつけたマルティンとの和解を語り、未婚の妹マイ(17歳で、ポール夫妻の息子ヘンリックと恋仲)にそれは妥協でしょ!となじられるが、そうかもしれないと笑う。このエピソードの結末は幻想的かつ省略が効いたスピード感溢れるもので、出産直前の苦痛中、マルティンとの幸福な家庭のイメージを見た途端に出産が終わっていた、とテンポが良い。最後に、一族の事業を仕切っている次男フレードリック(グンナル・ビョーンストランド)の妻カーリン(エーヴァ・ダールベック)の回想は独立した短編映画といえる完成度で名優二人の最高の演技と独創的手法で本編の白眉となっており、会社のパーティの帰りにアパートの故障したエレヴェーターに閉じ込められた中年夫婦の一夜の会話を15分あまりほとんどワンカットで撮っている。珍しく酔って上機嫌で口数が多い夫に、実は自分も不倫の経験がある、と偽りの告白をして、自信家の夫に女遊びを暴露させる妻の手管によって夫婦は久しぶりに新婚気分になるが、一夜明けて救出され自宅へ戻るやいなやビジネスの電話に夫はいつもの調子に戻ってしまう。以上、妻たちの話が終わった頃に夫たちが到着する。マッタの妹のマイが恋人ヘンリックとは大人たちのようにはならないと駆け落ちを宣言して二人で湖上をモーターボートで出発し、「一度くらいいいだろう、そのうち帰ってくるさ」とポールが締めくくって映画は終わる。15分間ワンシーン・ワンカットはほとんど離れ技的技巧だがエレヴェーター内の大鏡を効果的に使って切り返しカットなしに躍動感に富んだ長い会話シーンを成立させている。4人兄弟の4組4様の夫婦模様を描いて淀みなく快適に観ていられる。主要登場人物男女8人をこれだけすっきりと、個性と現実感をともに備えた性格に描き分けたのはこれまでのベルイマンにはできなかったことで、エピソードやキャラクターの誇張もなくごく日常的なドラマをこれだけ面白く観せる才能には感服する。もっとも成熟して面白みのない平凡な長男ポールか小屋に立てこもった弟を説得しに行き、無言で猟銃を持って出てきて海に投げ捨てるシーンや映画の締めくくりの台詞などおいしいところをとぼけた調子でさらっていくのも皮肉で気が効いている。昭和63年の遅れた日本初公開までは『女たちの期待』で通っていて、日本公開時に英語圏タイトルの『シークレット・オブ・ウーマン』に改題されたが、これは『女たちの期待』(愛に対する期待)の方が良いタイトルなのではないか。ジャック・シクリエの指摘通り軽い内容がかえってベルイマンの本音を引き出している作品で、もっと強力な代表作(『第七の封印』や『野いちご』、『鏡の中にある如く』や『沈黙』、『ペルソナ』や『叫びとささやき』など)のようなくさみがなくすんなり入ってくる。技巧が技巧として露骨な代表作に較べても本作は自然で、敷居が低いが映画としては決して低くない。今回の本作、『不良少女モニカ』『道化師の夜』は見方によってはベルイマンのもっとも面白い、ピークを画した作品といえるかもしれない。

●7月14日(金)
『不良少女モニカ』Sommaren med Monika (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'53)*92min, B/W, Standard

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・日本公開1955年6月。原作はP・A・フーゲルストレムの小説で、撮影は引き続きグンナル・フィッシェル、作曲はエーリック・ノードグレーン。主演は新人のハリエット・アンデションとラーシュ・エークボルイでヨン・ハリソンが助演。アメリカ封切りポスターと本国版ポスター(2種)を見較べいただきたい。タイトルの『モニカ』は原音ではモーニカになので、梗概はモーニカで統一する。春のストックホルム、下町の瀬戸物店の配達係で19歳の青年ハリー(ラーシュ・エークボルイ)は17歳の少女モーニカ(ハリエット・アンデション)と知りあう。モーニカは家庭に恵まれず、不良たちと奔放な生活を送っているが、年相応に青春の夢を抱いており純真なハリーに惹かれる。一方ハリーは父と二人暮しで、勤め先では同僚の大人たちに冷く扱われ弧独な日々を送っている。モーニカを取り巻く不良レッレ(ヨン・ハリソン)にがハリーを殴って以来、ハリーとモーニカとの仲は急速に接近する。モーニカはある夜に酔って帰った父と口論して家を飛び出しハリーの許に走る。ハリーも家を飛び出し、モーニカと二人きりで父のモーターボートの中で暮そうと決心する。二人は狭い船室で結ばれる。翌朝ハリーは寝すごしたために店をクビになるが、これで二人を束縛するものはなくなり、二人は初夏の多島海へ向ってモーターボートを駆り、島から島へと奔放な生活を続け夏の喜びに浸る。そのうちモーニカは妊娠し、未来の幸福な結婚を夢みる。ある日レッレが、二人のモーターボートを焼き、かえってハリーに叩きのめされる。やがてモーニカは山菜だけの食生活に不満を抱き、留守宅の別荘に食べ物を盗みに行ったが別荘の住人に見つかり辛くも肉塊だけを盗んで逃げ出してくる。このときハリーが臆病な態度をとったことから二人の仲は気まずくなる。ハリーの内気な性格とモーニカの奔放な性格は結局相容れなくなっていく。ストックホルムに帰った二人はハリーの伯母の世話で結婚し、モーニカは女の子を生む。ハリーは工場に職を得真面目に働きはじめ、夜はモーニカに代わって子守をしながら技術者になるための勉強に打ち込む。しかしモーニカは一日中赤ん坊と暮す貧乏生活に堪えられず、ハリーの留守中にレッレを引き込み、ハリーに知られた翌日家出する。残されたハリーは子供を自分だけで育てようと決心する。映画初出演にしていきなり主役デビューのハリエット・アンデションの存在感がとにかく強烈で同時期のマリリン・モンロー、少し遅れてブリジッド・バルドーに比較される演技を越えた演技が鮮烈。元ショウ・ダンサーで舞台演劇に進出して間もない抜擢だったという。『シークレット・オブ~(女たちの期待)』の大ヒットにもかかわらず製作費、スタッフ、キャストともに最小予算の作品だったそうだが撮影中から傑作になる確信が関係者全員に生まれ、フィルムの機械的ダメージから再撮影することになったシーンが多く出てもテンションが下がらなかったという(『ベルイマン自伝』新潮社'89)。ゴダールも着目した78分46秒~79分15秒の愛人レッレと逢い引き中の斜め右顔のクローズアップで30秒にも及ぶカメラの直視(手前の人物を見つめているのではない)はフェリーニの『カビリアの夜』'57のジュリエッタ・マシーナに4年先駆け、大胆さでは上を行きベルイマン始めスタッフもこのカットを採用するべきか躊躇したらしい。実直なハリー役のエークボルイ、ハリーへの悪意に満ちた軽薄なちんぴらレッレ役のハリソンも好演。ハリーとモーニカは19歳と17歳の設定か、と思うとズベ公モーニカはこんなものだしハリーの生真面目さは切ないが、当時のヨーロッパ映画では未成年の喫煙や飲酒は平然と描かれるし総じて早熟な老け顔なので違和感ないものの、現代日本映倫コードでは描けないのでその辺りも日本映画の内容の低年齢化を招いてしまった気がする。アンデションのセミ・ヌードは輸入映画としてギリギリで当時のアメリカでも描けなかっただろう。ゴダールが指摘する通りモラル面でもモーニカやレッレはまったく道徳的観念の欠如したズベ公・チンピラでハリーと対立するが、創作作品で描くのが困難なのは前者のような種類のキャラクターなのであくまで公正なベルイマンの視点が際立つ。モーニカやレッレには罪悪感という観念すらないが、これを映画で裁かずに描いて成功させるのが実際はとても難しいのは想像に難くない。現代映画において『国民の創生』に匹敵する、というゴダールの讃辞はこれ以上のものはないだろう。ちなみに本作をきっかけにアンデションは短期間ベルイマンの愛人となるが、私生活での関係解消後もベルイマン作品の準レギュラー女優になり主演作品も『鏡の中にある如く』'61、『叫びとささやき』'72がある。だが本作ほど鮮やかなデビュー作を得た女優は稀だろう。

●7月15日(土)
『道化師の夜』Gycklarnas afton (スウェーデン/サンドレウ=バウマンフィルム'53)*92min, B/W, Standard

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・日本公開1965年6月。撮影はスヴェン・ニイクヴィスト(室内)と「女たちの夢」のヒルディング・ブラッド(屋外)、音楽はカール=ビルイェル・ブロムダールが担当し、いずれもベルイマンとの初顔合わせになった。巡業サーカス団の座長アルベット(オーケ・グレーンベルイ)は若い女曲馬師アン(ハリエット・アンデション)を愛人にして旅を続けるうちに、妻のアグダ(アニカ・トレートウ)と二人の息子を残してきた町にたどりついた。御者イェンス(エーリック・ストランド)が7年前にこの町に来た時の事件をアルベットに思い出させる。道化師フロスト(アンデシュ・エーク)の妻アルマ(ギュードルン・ブロスト)はこの町に駐留していた小隊の兵士たちに混じって全裸で水浴し、激怒したフロストはアルマを連れ返るなり卒倒し、サーカス団員に八つ当たりするアルマに団員たちの方こそ呆れ果てたのだった。町に着き、アルベットは寄る年波を考えると平凡な家庭生活が恋しくなり、妻子の住む家を訪れてみたものの妻と息子の拒絶にあう。サーカス団員たちはアメリカ流の宣伝パレードを行うが地元警察に止めさせられて落胆する。アルベットが妻を訪れたのを知ったアンは嫉妬し、アルベットとともに衣裳の借用交渉に現地の劇場支配人シューベルイ(グンナル・ビョーンストランド)に会いに出かけた時に誘われていた劇団の二枚目俳優フランス(ハッセ・エークマン)に身をまかせる。アンがフランスと関係したことを知ったアルベットはその夜サーカス見物に来たフランスの帽子を再三鞭で弾き飛ばして挑発し、決闘することになる。だが年老いたアルベットはフランスに観衆の前で叩きのめされる。アルベットは絶望のあまり自殺を決意したものの決行するだけの勇気はなく、惨めな気持を紛らすために道化師フロストをピストルで脅し、フロストに教唆されてフロストの妻アルマが可愛がっている老いた熊を射殺し、惨めな自分の姿に泣く。翌朝、アルベットとアンは傷ついた者同士で慰めあうかのように寄り添い、「妻の胎内に吸い込まれてどんどん小さな胎児になっていく夢を見ましたよ」という御者イェンスが語る話に耳を傾けながら濃い霧の中を次の巡業地へと旅立って行く。御者イェンスと座長アルベットの会話を前後に配した枠物語とも言え、フェリーニ好みのサーカス団を描いて陰鬱なムードで一線を画す。フェリーニならばイタリア映画ならではの気風に従って形だけでもハッピーエンドに持ち込むが、本作は何とも救いのない貧乏サーカスの散々たる田舎巡業を描いてとことん惨めったらしい。『シークレット・オブ~(女たちの期待)』で成果を示した多数の人物をすっきり配置し、ドラマ構成も人間関係も込みいっているにもかかわらずすんなり入ってくる。7年前に妻を笑い者にされて侮辱された道化師フロストは愛人アンを弄ばれた現在のアルベットそのものであり、叩きのめされたアルベットがまずフロストを空の銃で撃ち、フロストの教唆でフロストの妻アルマが世話するサーカスの老熊を射殺するのは一見行き当たりばったりだが、アンを弄んだばかりか観衆の面前でアルベットを無様に叩きのめした二枚目俳優フランスへの代償的復讐なのは実際はまったく無意味なだけに後からじわじわと染みてくる。この空虚感こそよくあるサーカス団映画では安易にハッピーエンドに描かれるもので、ベルイマンの場合はまったく容赦ないドラマに仕立て上げたのが光り、興行成績惨敗・批評家からの評価は絶賛だったのもあまりにシビアで玄人受けのする作品になったからだろう。本作の窮乏したサーカス団、エゴイズムと人間不信はまったく容赦なく描かれており、室内撮影と屋外撮影を二人のカメラマンに分担した効果や本作が初顔合わせのブロムダールの音楽も効いている。またベルイマン監督作品で溶暗ではなくエンド・マーク(作品タイトル)が出るのも13作目にして初めてのことになる。『シークレット・オブ~(女たちの期待)』や『~モニカ』が流露感溢れる自然体の作品ならば、本作は練りに練った入魂の傑作だろう。それだけに大衆性についてはやや(かなり)後退したのは仕方なく思える。

*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。