人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(15); 高村光太郎詩集『典型』より「暗愚小傳」(iv)

(昭和22年=1947年7月、岩手県にて。長編詩「暗愚小傳」発表月の高村光太郎<1883-1956>・65歳)

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高村光太郎詩集『典型』昭和25年(1950年)10月25日・中央公論社刊(昭和26年5月・第2回読売文学賞受賞)

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 詩集『典型』高村光太郎自装口絵

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 前回は高村光太郎支那事変~大東亜戦争~太平洋戦争~敗戦にかけての戦時下の詩10編と評論・随筆2編をご紹介しました。これらの詩の発想は詩集『典型』に収録された敗戦後の懺悔詩編と同じ文体と発想で書かれており、戦時下においては高村の戦争翼賛詩は賞賛され、称揚され、敗戦後においては『典型』収録の敗戦後詩編とともに「多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たわけと言われつづけて来た」(詩集『典型』自序)のです。高村の戦時下の姿勢と発想は昭和20年4月13日深夜、空襲により自宅兼アトリエ焼失し知人宅に仮寓中書かれた随筆「自信を以て立て」の、

「今、日本全土は敵機の空襲によつて至る処兵火の厄にかかつてゐる。帝都だけでも四月廿五日現在既に五十一万戸二百十万人の罹災を見るに至つた。高みに立つて俯瞰すれば茫々たり、累々たり、焦土一面の瓦礫鉄片。此の蕭条たる荒涼の風景に最高の美ありて存し、神明の気此の灼爛の曠野にこもりて息づき、限りなく吾が心を打つ。これこそ明治、大正、昭和初期の三代に亘つて蓄積された非日本的旧醜文化の壊滅焼尽であり、猛火消毒を意味する。残虐な敵の手によつて行はれた戦禍でさへも翻つて之を見れば其処に斯の如き神意を拝する。至純至誠の男女青少年よ、自信を以て立て。旧時代の陋習奸知を猛火の中に掃蕩して、皇国骨髄の節義を新しく作興し、着々脚下を固めて実力断行の巨腕を縦横に揮へよ。」
(昭和20年4月29日「新女苑」掲載予定執筆、掲載誌未確認、生前単行本未収録)

 --という発言と、詩集『典型』表題作の、

 三代を貫く特殊国の
 特殊の倫理に鍛へられて、
 内に反逆の鷲の翼を抱きながら
 いたましい強引の爪をといで
 みづから風切の自力をへし折り、
 六十年の鉄の網に蓋はれて、
 端坐粛服、
 まことをつくして唯一つの倫理に生きた
 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
 (昭和25年4月「改造」発表)

 --に見られる自己規定が、戦時下では「神意を拝する」とし、戦後には「愚直な生き物」と反転したに過ぎず、前者の「明治、大正、昭和初期の三代に亘つて蓄積された非日本的旧醜文化」の「壊滅焼尽であり、猛火消毒」を喜ぶ姿勢は「典型」でも「三代を貫く特殊国の/特殊の倫理」と戦時下の自己(そして日本)を規定する発想と変わりないのです。詩集『典型』は昭和25年度のベストセラー詩集となり前年度に創設されたばかりの読売文学賞を受賞歴しましたが、多くの読者の近親憎悪的感情を誘って批判されたのは致し方なく、この詩集の高村は自分自身を日本人を代表するかのように一億総懺悔の先頭に立っており、それは戦時下に「われら一億の品性この時光を放つて/純粋蕪雑の初源にかへる。」(「必勝の品性」昭和19年3月)と書いた姿勢やポツダム宣言受諾による全面降伏と敗戦・終戦詔勅を告げる天皇玉音放送に「綸言一たび出でて一億号泣す。」(「一億の号泣」昭和20年8月16日執筆、17日「朝日新聞」「岩手日報」発表)と同じ発想です。この戦時下の高村の強がりと国民一体化への無理な希望が敗戦後の詩集『典型』、なかんずく表題作や自伝的長編詩「暗愚小傳」には一種体質化したまま継承されており、高村の沒後翌年に刊行された吉本隆明の画期的な論考『高村光太郎』(昭和32年7月刊)ではこの敗戦後の高村の大振りなままの姿勢は「惰性」と表現されています。吉本はエンジニア出身の詩人・批評家ですので俗語としての「惰性」ではなく物理的現象としてこの言葉を用いており、社会批判的・芸術至上主義的詩人だった初期~中期の高村が戦争翼賛の方向に一体化した時、高村の中で皇国日本が高村とともに理想化され、日本国民一体のその理想化が敗戦後にも持ち越された過程を「惰性」と見ることで高村はいわば敗戦後の日本から見捨てられた形になった事情を暗示しています。高村の信じた、または信じようとする姿勢で書かれた皇国日本と八紘一宇の国民一体は高村自身が作り出した虚構であり、信念に殉ずる理想などどこにもありはせず、しかし高村自身は信念に殉じようとした詩人でした。それは初期~中期の高村、戦時下の高村も敗戦後の高村も変わらなかった資質であり、戦時下の他の著名詩人の代表的な戦争翼賛詩と比較しても高村の一貫性と頑迷さは群を抜いています。

 まず諸家の戦争詩をご紹介する前に簡単な15年戦争年表を掲げておきます。15年戦争と呼ぶ場合、起点は昭和6年満州事変と見るのが穏当でしょう。

・昭和06年(1931年) ; 満州事変起こる(9月)
・昭和07年(1932年) ; 上海事変(1月)、日本により満州国建国(3月)、5.15事件、ナチス第1党になる(7月)
・昭和08年(1933年) ; ヒトラー政権樹立(1月)、小林多喜二拷問死(2月)、国連脱退(3月)、宮澤賢治逝去(9月)、抗日運動激化
・昭和09年(1934年) ; 満州国執政溥儀皇帝就任(3月)、中国共産党の大西遷
昭和10年(1935年) ; 国民政府(蒋介石)と中国共産党(毛沢東)の内戦続く
昭和11年(1936年) ; 2.26事件、中国国共内戦停止(西安事件)、日独防協定(11月)
昭和12年(1937年) ; 近衛内閣成立(6月)、日華事変(7月~昭和20年)、南京大虐殺(12月)、抗日民族統一戦線成立
昭和13年(1938年) ; 近衛内閣「爾後国民政府を相手とせず」と声明(1月)、日中戦争開戦(3月)、国家総動員法公布(4月)、文学者従軍始まる(9月)、高村智恵子逝去(10月)
昭和14年(1939年) ; ノモンハン事件(5月)、国民徴用列挙公布(7月)、ヨーロッパにおける第二次世界大戦始まる(9月)
昭和15年(1940年) ; ドイツ軍パリ占領(6月)、日独伊三国同盟調印成立(8月)、大政翼賛会発足(10月)、紀元二千六百年式典(11月)
昭和16年(1941年) ; 米日経済封鎖(7月)、東条内閣成立(10月)、太平洋戦争勃発・対米英宣戦布告(12月)
昭和17年(1942年) ; 学徒勤労報国命令(1月)、シンガポール陥落(2月)、日本本土空襲開始(4月)、日本文学報国会結成(5月)、ミッドウェー敗戦(6月)、アジア戦線敗色に向かう
昭和18年(1943年) ; ガダルカナル島敗戦(2月)、国家総動員法公布(4月)、ドイツ軍敗色に向かう、学徒出陣開始(10月)
昭和19年(1944年) ; サイパン失陥引責東条内閣崩壊(7月)、東京空襲開始(11月)
・昭和20年(1945年) ; 東京大空襲(3月)、沖縄陥落(4月)、原子爆弾投下(8月)、ポツダム宣言受諾により無条件降伏(敗戦、8月14日)、玉音放送による終戦詔勅(8月15日)

 以上を今回ご紹介する諸家の戦争詩の背景としてご参観ください。足かけ15年にも及んで日本が戦時下にあった、という異常が国民にとっては尋常であったことを前提としなくてはこれらの詩の理解は容易ではないのです。

 高村と並んで戦時下にもっとも名高い戦争翼賛詩人は佐藤春夫三好達治でした。高村より10歳若い世代で、同時代の友人だった芥川龍之介菊池寛直木三十五と並ぶ人気作家にして詩人であり、門弟三千人と呼ばれて生前には名声の栄華を極めた佐藤春夫(1892-1964)の戦争詩は高村の戦争詩よりむしろ当時の戦争詩の典型と言えるものです。「敵」を見据えた外向的な高村の戦争詩と違い、戦時下の国民に呼びかける祝詞(のりと)的性格を持った長歌的な詩であることに注目してください。

  千 人 針 を う た へ る  佐藤春夫

 わが夫(せこ)を戦(いくさ)にやると
 はりつめし女ごころを
 見ずや君 きのふもけふも
 うち日さす都(みやこ)大路(おほぢ)に
 立ち暮す八十(やそ)の巷(ちまた)の
 行きずりに はた野をわたり
 山を越え里を遠近(をちこち)
 隣びとうからやからや
 或(ある)は友 友のまた友
 見も知らぬをとめ子にさへ
 乞ひ求め今ぞ成りぬる
 おもほすなますら男の伴(とも)
 一片(ひら)の布にはあれど
 おろそかに帯びたまはざれ
 色糸の赤きこころを
 皆こめて運べる針は
 たけくしてよく闘ひむ
 ますら男を寿(ほ)ぐとなりけり
 怯(おそ)れたる人にはやらじ
 手弱女(たをやめ)らこころ心に
 千人(ちたり)して縫ひてしものは
 世の常の帯にあらねば
 こめにける百千(ももせ)の言(こと)は
 すめろぎの国の護(まも)りと
 ますら男をみな頼むなり
 いざさらば心おきなく
 征(い)きませと心のほどを
 一針にまたくこめける
 おろそかにおもほすな努(ゆめ)
   反歌
 一すぢにたたかへとこそ
 おもひびと
 千々(ちぢ)の心をこめにけらずや
 (昭和13年作、詩集『奉公詩集』昭和19年3月刊収録)

 この「千人針をうたへる」は昭和13年夏に関西の病院が提唱して盛んになった「千人針運動」(千人の女性が一針ずつ縫った護符を身につけると戦場の敵弾避けになるという、日露戦争から波及した信仰。護符に銅貨や女性の髪を入れるとなお効用が高いとされる)を讃えた詩ですが、その呪術性、民間信仰的性格は言うまでもないでしょう。次の詩も本質は祝詞であり、西洋人は「醜の夷」と表現され一か所だけ言及されるに過ぎません。「艦たてまつ」ること自体を寿いでいるのです。

  艦 た て ま つ れ  佐藤春夫
  - 五月二十一日詩人献艦運動
  「詩の夕」朗読詩として -

 艦たてまつれ
 国引きに 国生みに
 わが大君(おほきみ)のしろしめすわたつみ広くなりまさる
 艦たてまつれ
 聞かずや大八洲(おほやしま)の磯もとどろに寄る波を
 潮騒に呼ばるるは 艦たてまつれ艦たてまつれ
 八百会(やほあひ)の潮路隅々 大君の艦浮べん
 大綿津見(おほわたつみ)に艦たてまつれ
 まつろはぬ醜(しこ)の夷(えびす)を懲らすべき艦たてまつれ
 ヒヨヲが鼻、ちくらが沖を乗り越えて千里が瀬よりなほ遠く

 赤道の彼方 怒濤を蹴りしづめ
 渦潮のただ中を押しわけ 押し拓き
 新らしき歴史の岸に押し渡る光栄の艦たてまつれ。
 八紘を宇(いへ)とせんよすがの艦たてまつれあまたたてまつれ
 たてまつれ 国民(くにたみ)の赤き心を現はさむ艦
 たてまつれ 不屈の決意を世に証(あかし)せむ艦
 いざたてまつれ 艦たてまつれ
 われら詩人(うたびと)もたてまつらばや艦一つ
 ことごとくものなべて おのが心と
 心はゆたかなれども たどき貧しきわれらが
 おほけなく、奉る艦の小さきをな笑ひ給ひそ
 志の小さからぬにめでて ただねがはくば
 足びきの山なす富持ちたる人はすべて
 艦奉れ 勇精(いそくは)し鯨(くぢら)なす大艦をたてまつれ
 細戈(くはしほこ)千足(ちたる)の艦たてまつれ
 聞かずや大八洲の磯もとどろに寄る波を
 潮騒に呼ばるるは、艦たてまつれ艦たてまつれ
 (詩集『奉公詩集』昭和19年3月刊収録)

 佐藤よりさらに若い世代の三好達治(1900-1964)の戦争詩もまた、現代詩でありながら祝詞の伝統を継ぐものです。三好の世代では他にこれほど巧みな和文脈の文語詩を書ける詩人はいなかったでしょう。三好は萩原朔太郎に師事した詩人ですが、古典への傾斜は師の萩原の志向とはまったく異なったものでした。佐藤春夫の詩は初出誌が判明しませんでしたが、三好の詩は初出誌の記載もしておきます。

  お ん た ま を 故 山 に 迎 ふ  三好達治

 ふたつなき祖国のためと
 ふたつなき命のみかは
 妻も子もうからもすてて
 いでまししかの兵ものは つゆほども
 かへる日をたのみたまはでありけらし
 はるばると海山こえて
 げに
 還る日もなくいでましし
 かのつはものは

 この日あきのかぜ蕭々と黝(あをぐろ)みふく
 ふるさとの海べのまちに
 おんたまのかへりたまふを
 よるふけてむかへまつると
 ともしびの黄なるたづさへ
 まちびとら しぐれふる闇のさなかに
 まつほどし 潮騒のこゑとほどほに
 雲はやく
 月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々と楽の音きこゆ

 旅びとのたびのひと日を
 ゆくりなく
 われもまたひとにまじらひ
 うばたまのいま夜のうち
 楽の音はたえなんとして
 しぬびかにうたひつぎつぎつつ
 すずろかにちかづくものの
 荘厳のきはみのまへに
 こころたへ
 つつしみて
 うなじうなだれ

 国のしづめと今はなきひともうなゐの
 遠き日はこの樹のかげに 鬨(とき)つくり
 讐(あだ)うつといさみたまひて
 いくさあそびもしたまひけむ
 おい松が根に
 つらつらとものをこそおもへ

 月また雲のたえまを駆け
 さとおつる影のはだらに
 ひるがへるしろきおん旌(はた)
 われらがうたの ほめうたのいざなくもがな
 ひとひらのものいはぬぬの
 いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる
 うへなきまひのてぶりかな

 かへらじといでましし日の
 ちかひもせめもはたされて
 なにをかあます
 のこりなく身はなげうちて
 おん骨はかへりたまひぬ

 ふたつなき祖国のためと
 ふたつなき命のみかは
 妻も子もうからもすてて
 いでまししかのつはものの
 しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ
 (初出「文學界昭和13年10月・原題「英霊を故山の秋風裡に迎ふ」、詩集『艸千里』昭和14年7月刊収録)

 この「おんたまを故山に迎ふ」は言葉もないほど完成度の高い詩ですが(題名も原題の「英霊を故山の秋風裡に迎ふ」より改題の「おんたまを故山に迎ふ」の方が格段に優れます)、次の戦争詩集『寒柝』の書き下ろし巻末詩のほとんど神業的な超絶技巧は驚くべきものです。普通このような技巧には内容が伴わないものですが(しかも戦争翼賛詩です)、この詩は日本語の限界を究めた上で内容と不即不離の絶唱に成功した奇跡的作品でしょう。

  こ と の ね た つ な  三好達治

 いとけなきなれがをゆびに
 かいならすねはつたなけれ
 そらにみつやまとことうた
 ひとふしのしらべはさやけ
 つまづきつとだえつするを
 おいらくのちちはききつち
 いはれなきなみだをおぼゆ
 かかるひのあさなあさなや
 もののふはよものいくさを
 たたかはすときとはいへど
 そらにみつやまとのくにに
 をとめらのことのねたつな
 (詩集書き下ろし、詩集『寒柝』昭和18年12月刊収録)

 佐藤春夫三好達治の戦争詩がむしろ典型的な戦争詩だった時代に、高村の戦争詩がいかに個性的な特色を持っていたかは前回ご紹介した詩からもお分かりいただけると思います。一言で言えば高村の戦争詩は抒情詩的ではまったくなく、積極的な政治詩なのです。それが不出来な時にはアジビラ的なものになり、冴えた時には思想詩として読者に強い訴求力を持ちます。つまりいつもの高村の詩と発想は同じで、敵を見据えた時にもっとも高村の詩は冴えるのです。おそらく高村の戦争詩の最高のものは今回ご紹介する「沈思せよ、蒋先生」でしょう。蒋介石(1887-1975)は孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となった軍人・政治家です。蒋介石は1928年から1931年と、1943年から1975年の死去まで国家元首の地位にありました。しかし国共内戦毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、その後大陸支配を回復することなく没した人物で、台湾が国連非公認国なのも国連が毛主席の中華人民共和国を正式な中国政府とし、中華民国を名乗る台湾の蒋政権を中国政府とは認められないからです。蒋介石は徹底的な抗日方針で台湾を支配したため日本の植民地時代に親日派だった(それまでの中華民国の侵略的台湾統治よりも日本の統治は民間の自治を認めたものだったので、民間感情では親日意識が高かった)多数の台湾人は蒋政権に弾圧され、1980年代末まで蒋政権の圧制を公開することは台湾ではタブーでした。次の詩は蒋政権と毛政党が抗日民族統一戦線を結んでいた時期の作品ですが、いくら詩人より4歳年下の政治家であっても一国の最高指導者に直接呼びかけた詩などそうあるものではありません。その意味でもこれは高村にしか書けない詩であり、このような発想で詩を書いてしまうのが高村の面目躍如たるところだと言えるのです。

詩集『大いなる日に』昭和17年(1942年)4月20日・道統社刊

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  沈 思 せ よ 蒋 先 生

詩の精神は疑はない。
なるほど政治の上では縁が無い。
蒋政権を相手とせずと、
かつて以前の宰相は天下に宣した。
けれどもわたくしは先生によびかける。
心が心によびかけ得るのを
詩の精神は毫末も疑はない。
わたくしはむしろ童子の稚なさに頓著せず、
遠く先生に此の言をおくる。
詩流、礼にならはずである。

先生はいそがし過ぎる。
先生は一人で八方に気を配る。
目前の処理に日も亦(また)足りない。
米英的民主主義が右にゐる。
モスクワ的共産主義が左にゐる。
うしろには華僑が様子をうかがひ、
しかも面前にわが日本の砲火が迫る。
先生は一人でそれに当らうとする。
先生は思想と行きがかりとに憑かれてゐる。
何を為つつあるかをもう一度考へるため、
先生よ、沈思せよ。
この一月の月あかき夜半、
先生は地下の一室に何を画策する。

先生は人中の竜であると人はいふ。
先生の部下である愛すべき青年将校から
わたくしもかつて先生の出処行蔵をきいた。
先生は身を以て新生活の範を垂れ、
人みな先生に服すといふ。
わたくしも亦先生を偉とする者だが、
その先生に過ちが一つある。
抗日といふ執念を先生は何処から得たか。
東亜の強大ならんとするを恐れる輩(やから)、
先生の国をなま殺しにし、
わが日本の力を消耗せしめようとした、
彼等異人種の苦肉の計を思ひたまへ。
兄弟牆(かき)に鬩(せめ)ぐのはまだいいが、
外(ほか)其の務(あなどり)を禦(ふせ)ぐべき時、
先生は抗日一本槍に民心を導いた。
抗日思想のあるかぎり、
東亜に平和は来ない。
先生は東亜の平和と共栄とを好まないか。
今でも彼等異人種の手足となつてゐる気か。
わたくしは先生の真意を知りたい。
先生の腹心を披(ひら)いて見せてもらひたい。

画策にいそぐ時、人はまよふ。
一切を放擲して根源にかへる時、
天理おのづから明らかに現前する。
結局われわれは共に手をとる仲間である。
いくらあがいても、
さうならなければ東亜の倫理が立たない。
わが日本は先生の国を滅ぼすにあらず、
ただ抗日の思想を滅ぼすのみだ。
抗日に執すれば先生も亦滅ぶ。
わが日本はいま米英を撃つ。
米英は東亜の天地に否定された。
彼等の爪牙は破摧(はさい)される。
先生の国にとつて其は吉か凶か。
先生よ、沈思せよ。

わたくしは童子の稚なさに似た言を吐く。
やむなき思にかられて
ただひたすらに情を抒べるのみだ。
先生に語るべき胸中の氤慍(いんうん)は尽きない。
あり得べくんば長江のあたりへ飛んで、
先生を面責したいのだ。
むしろ多忙の画策をすてて、
沈思せよ、蒋先生。

(昭和17年=1942年1月13日執筆、初出「中央公論昭和17年2月号、詩集『大いなる日に』昭和17年4月刊収録)

*仮名づかいは原文のまま、用字は略字体に改めました。機種依存文字になる一部の稀字はやむを得ず同音同義の別字に置き換えました。