(昭和22年=1947年7月、岩手県にて。長編詩「暗愚小傳」発表月の高村光太郎<1883-1956>・65歳)
高村光太郎詩集『典型』昭和25年(1950年)10月25日・中央公論社刊(昭和26年5月・第2回読売文学賞受賞)
詩集『典型』高村光太郎自装口絵
全編を前回でご紹介した6部構成・全20章からなる長編詩「暗愚小傳」は筑摩書房発行の総合誌「展望」昭和22年(1947年)7月号に一挙掲載されて発表されました。詩人沒後の研究で、日記や書簡、未定稿からこの自伝的長編詩の構想と執筆は後に各章をなす個別の詩編から昭和21年1月頃に始まり、同年5月には未定稿が進み、9月には「暗愚の歴史」として全体の構成を立てて友人の詩人(高村が詩集『典型』編集を託した宮崎稔)宛ての書簡で進行を伝えるとともに2種類の構想メモが残されています。
I
(暗愚の歴史)
渦中に育つ
○土下座(憲法発布)○お爺さん○御前彫刻(明治天皇)○東郷元帥
反逆
○ボードレール○ロダン○おれにもかける
「道程」
○爆発○無頼
智恵子
○清浄光明○死、死
二律背反
○かけもどる○はやしや○必勝○必死○一切亡失(×わが詩をよみて人死につけり)
どん底
○山林○人類○美
これが構想「I」で、「II」では、
II
渦中に育つ
○土下座○阿爺さん○御前彫刻○楠公銅像○原型展覧
反逆
○ボオドレエル○ロダン○おれにも書ける
「道程」
○爆発○無頼
智恵子
○清浄光明○死、死
二律背反
○馳けもどる○はやしや○必勝○必死○一切亡失
原始 源泉
○神にはまさず○山林○美しきもの満つ○どん底○源泉
この「I」「II」の構想から、完成稿では、
家
土下座(憲法発布)
ちよんまげ
郡司大尉
日清戦争
御前彫刻
建艦費
楠公銅像
轉 調
彫刻一途
パリ
反 逆
親不孝
デカダン
蟄 居
美に生きる
おそろしい空虚
二 律 背 反
協力会議
真珠湾の日
ロマン ロラン
暗愚
終戦
爐 邊
報告(智恵子に)
山林
――になっています。対照させると、
家(完成稿・7章)←渦中に育つ(I・4章、II・5章)
轉調(完成稿・2章)←反逆(I・3章、II・3章)
反逆(完成稿・2章)←「道程」(I・2章、II・2章)
蟄居(完成稿・2章)←智恵子(I・2章、II・2章)
二律背反(完成稿・5章)←二律背反(I・5章、II・5章)
爐邊(完成稿・2章)←どん底(I・3章)、原始 源泉(II・5章)
つまり完成稿「反逆」(I、IIとも「「道程」」)の部と完成稿「蟄居」(I、IIとも「智恵子」)の部は2章ずつの構成が変わらず、完成稿・I、IIとも5章構成の「二律背反」は構想「I」では当初「わが詩をよみて人死に就けり」が置かれた後抹消されまったく別の詩「一切亡失」に置き換えられましたが、5章構成自体は当初の構成通りだったとわかります。問題は完成稿で「家」と改題された「渦中に育つ」の部で、構想「I」では4章、構想「II」でも5章だったものが全7章に増補され、その替わり完成稿「轉調」が構想「I」「II」では3章だったのが2章に、完成稿「爐邊」が構想「I・どん底」では3章、構想「II・原始 源泉」では5章だったのが2章に縮小されました。特に構想「II・原始 源泉」で構想「I・どん底」より3章から5章に一旦拡大されたのが完成稿では2章に半減された「爐邊」の部は長編詩の最終部としてはあまりにあっけなく、詩人はおそらく「どん底」→「原始 源泉」と年代記的には敗戦後の生活・心境を発展させようとして考え直し、長編詩「暗愚小傳」ではエピローグに留めたものと思われます。
この長編詩は詩集『典型』に収められたので詩集収録の他の詩編を「暗愚小傳」の註釈的に読むことができ、前回では、まず発表も「暗愚小傳」に先立つ詩集巻頭詩「雪白く積めり」(昭和21年3月「展望」掲載)と、詩集『典型』の編纂が始まって書かれた詩集刊行半年前の新作で詩集表題作「典型」をご紹介しました。普通、読者は詩集巻頭作と表題作は特別に詩集の著者が力を注いだものとして注目するものです。また、詩集中最長の全6部20章の連作長編詩となればこれを詩集の中心作品として読むのはごく自然で、約200ページの詩集『典型』中「暗愚小傳」は半分の前半100ページあまりを占めています。さらに「暗愚小傳」全6部のうち半分は第1部「家」が占め、第5部「二律背反」が第2部~第6部のうちの半分(「暗愚小傳」の1/4)を占めています。しかし長編詩全篇では、第1部「家」はまだテーマ提示の前の前提部分に過ぎず、第5部「二律背反」も結末を保留したまま終わっており、最終部の第6部「爐邊」の2章は長編詩全体を締めくくるほどの説得力を持った内容とは言えないでしょう。それを補うには詩集中の「雪白く積めり」で描かれた詩人の戦後生活や「典型」で書かれた心境から「暗愚小傳」を読むしかなく、また前回ご紹介した構想当初の第5部「二律背反」の終章にあってすぐ「一切亡失」(完成稿「終戦」)に置き換えられた未定稿「わが詩をよみて人に就けり」が高村光太郎のどんな「わが詩」を指していたのか知らなければ高村自身が言う「暗愚」が何を指すのかもよくわからないのが今日の読者の感想ではないかと思います。
高村光太郎が「暗愚小傳」に書いたのは明治生まれの日本人の精神的な監禁拘束状態とその反動的爆発としてのさまざまな現象、そして突然の解放に至る道筋であるはずでした。高村の場合は爆発は西洋文化への傾倒として現れ、次に智恵子夫人との「蟄居」があり、智恵子夫人の逝去とともに訪れた日本の東洋諸国への開戦(「協力会議」)・西洋諸国への開戦(「真珠湾の日」)に歩調を合わせた国粋主義(「ロマン ロラン」で触れられる"パトリオチスム"、「真珠湾の日」の"天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した"、"陛下を守もらう。/詩をすてて詩を書かう。/記録を書かう。/同胞の荒廃を出来れば防がう。")になりました。高村光太郎の生前自選(または委任)詩集は『道程』(大正3年10月刊)、『現代詩人全集第9巻』(昭和4年10月刊・室生犀星、萩原朔太郎との三人集)、『道程改訂版』(昭和15年11月刊)、『智恵子抄(龍星閣版)』(昭和16年8月刊)が太平洋戦争開戦前にはあり、敗戦後には『智恵子抄(白玉書房版)』(昭和22年11月刊)、『典型』(昭和25年10月刊)、『智恵子抄その後』(昭和25年11月刊)、『高村光太郎詩集(創元選書版)』(昭和26年9月刊)、『高村光太郎詩集(岩波文庫版)』(昭和30年3月刊)までが生前刊行で、沒後に高村の意図に沿って刊行された追悼出版は『典型以後』(昭和31年9月)と『猛獣篇』(昭和37年4月)でした。1,000ページを越える『高村光太郎全詩集』の刊行は沒後10年を迎えた昭和41年1月です。つまり高村の詩集は『道程』『智恵子抄』『典型』とその増補改訂版に尽きるのですが(『猛獣篇』は『道程改訂版』に含まれる)、太平洋戦争開戦から敗戦までに高村は3冊の戦争詩集『大いなる日に』(昭和17年4月刊)、『をぢさんの詩』(昭和18年11月)、『記録』(昭和19年3月刊)を公刊し、敗戦末期の昭和20年1月に刊行した『道程再訂版』では戦時の時局にふさわしくない詩編は割愛してしまいます。
大東亜戦争開始時に萌芽し太平洋戦争開戦で本格的になった戦争詩への傾斜は当時のほとんどの日本の詩人に見られるもので、大きな理由には戦争詩の実績のない詩人は軍事体制への非協力的詩人とされ事実上執筆禁止とされたことがあります。この時期に積極的に戦争詩の書き手になり、異例の多作を戦争詩に残した詩人は三好達治、佐藤春夫そして高村でした。戦局が一進一退するたびにこの三人の新作戦争詩が新聞雑誌の巻頭を飾ったのです。『捷報いたる』(昭和17年7月)という詩集まである三好達治には「おんたまを古山に迎ふ」(詩集『艸千里』昭和14年7月刊)、「ことのねたつな」(詩集『寒柝』昭和18年12月)などの戦争詩の名作があり、そのものずばり『大東亜戦争』(昭和18年2月)という詩集がある佐藤春夫には「千人針をうたへる」「鑑たてまつれ」(詩集『奉公詩集』昭和19年3月)という戦時下で愛唱された名作がありました。三好達治や佐藤春夫は抒情詩的または祝詞的に戦争詩を書いたのですが、高村の場合はもっと思想的な、思想的だからこそファッショ的な主張を持ったものでした。しかし「暗愚小傳」では高村の解放はまるで自然現象のようにやってきます。この呪縛からの解放は昭和20年(1945年)10月にアメリカ占領軍によるB・C級戦犯指定者に対する公職追放令(日本全国で20万人を越えました)や東京裁判(極東国際軍事裁判、昭和21年5月~23年11月、判決前に自殺者1名、病死2名、死刑判決7名は昭和23年12月23日の当時皇太子15歳誕生日に死刑執行)があり、保田與重郎を始め実際一切の実名文筆活動を禁止された文学者もいましたが、「暗愚小傳」の終章「山林」にあるように、
おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の非難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。
――と本気で思いつめているとはどうも疑わしいのです。逆にこう表明することで読者の心証を良くしようとしているのではないか。真に思想的な詩人であれば「それが社会の約束ならば/よし極刑とても甘受しよう。」とは口が裂けても言えないでしょう。詩に真実があるのならば社会の約束の方が間違っている、とは高村は言えませんでした。これは「曽(か)つて誤つて法を破り/政治の罪人(つみびと)として捕はれたり、」から始まる北村透谷の長編詩「楚囚之詩」(明治22年=1889年)よりも後退しており、「楚囚之詩」が最終章で「遂に余は放(ゆる)されて、/大赦の大慈(めぐみ)を感謝せり」とあっさり恩赦で監禁拘束状態から解放されてしまうのと大差ありません。日本の詩は60年かけて「楚囚之詩」から「暗愚小傳」にしか進まなかった、つまりまったく進まなかったことになります。もし「わが詩をよみて人死に就けり」を含んでいたら、いや戦争詩そのものを連作の中に取り込んでいたら「暗愚小傳」はまだしも高村のパトリオチスムの具体的な検証を含んだ作品になったかもしれませんが、サンフランシスコ講和条約の締結とともにアメリカ占領軍GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の検閲が解除された昭和27年(1952年)4月まで占領軍の統治方針に沿わない出版物は一切公刊できなかったのです。大戦中の軍国翼賛的な文献が復刻公刊できる冷静な文化基準が出版界に回復したのは、高村沒後10年を経た『全詩集』刊行と同時期の昭和40年代(1965年~)で、敗戦から20年の年月が必要でした。三好達治の逝去が昭和39年(1964年)4月、享年63歳。佐藤春夫の逝去も同年5月、享年72歳でした。昭和31年(1956年)4月に逝去した高村光太郎は享年74歳、生前に大戦中の戦争詩やエッセイの復刊を見ることもかなわなかったのです。次回は高村の戦争詩が果たして詩人自身が「暗愚小傳」で否定したようなものであったかを見てみたいと思います。