人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(15); 高村光太郎詩集『典型』より「暗愚小傳」(vi)

(昭和22年=1947年7月、岩手県にて。長編詩「暗愚小傳」発表月の高村光太郎<1883-1956>・65歳)

イメージ 1

高村光太郎詩集『典型』昭和25年(1950年)10月25日・中央公論社刊(昭和26年5月・第2回読売文学賞受賞)

イメージ 2

 詩集『典型』高村光太郎自装口絵

イメージ 3

 高村光太郎の戦争詩の特色はこれまでの回で同時代詩人の戦争詩との比較からもお分かりいただけたと思います。高村というと3歳年下の大正時代の詩の革新者として萩原朔太郎(1886-1942)の存在が意識されますが、萩原は新作詩集は昭和9年(1934年)が最後になり、詩作も新聞社の依頼による昭和12年(1937年)の萩原唯一の戦争詩「南京陥落の日に」が最後になったのは前回ご紹介した通りです。萩原の沒年は昭和17年ですが昭和16年12月8日の真珠湾攻撃と米英への宣戦布告から一挙に高村の戦争詩創作は増加しており、一方萩原は詩作を止めて以降日本文化の再建築を提唱するエッセイを多産していましたが昭和15年の紀元二千六百年式典には詩人仲間に「これで日本も没落するよ」と公言してはばからず、真珠湾攻撃=米英への宣戦布告にも詩作を残さず昭和17年、学徒勤労報国命令(1月)、シンガポール陥落(2月)、日本本土空襲開始(4月)、日本文学報国会結成(5月)、ミッドウェー敗戦(6月)と、アジア戦線敗色に向かう最中の5月に亡くなりました。戦争詩については萩原はほぼ沈黙に近い姿勢であり続けたと言えます。高村と並ぶ戦争詩の大家だった佐藤春夫(1892-1964)は萩原の好敵手であり(高村は晩成型の萩原にとっては萩原と同年生まれの石川啄木と同様先輩格でした)、また高村・佐藤と並ぶ戦争詩の大家だった三好達治(1900-1964)は萩原家の住み込み秘書を務めたほどの愛弟子でしたが、佐藤・三好ともども高村は尊敬すべき先輩詩人でした。
 一方、戦時下に1編の戦争詩どころか完全に詩の発表を絶ち沈黙を守った西脇順三郎(1894-1982)は三好とは反目しながらともに萩原の熱烈な信奉者だった詩人ですが、萩原は西脇を時には稀に見る芸術至上主義者と絶賛し、時には知性偏重で感情が欠乏していると酷評しました。この大詩人同士の論争も面白いものですがそれは措くとして、戦後詩人の飯島耕一(1930-2013)は西脇を萩原以降最大の詩人、金子光晴(1895-1975)と並んで日本の詩を開放した最大の存在としながら、西脇が萩原以前の日本の詩に一切否定的であった例として上田敏島崎藤村に対する新体詩批判に触れ、また西脇は同時代詩人にはおおむね寛容でしたが、中原中也嫌いと並んで有名な高村光太郎嫌いを端的に語ったエッセイを引用しています。

「過去一、二年秋間の詩のベストセラーは高村光太郎詩集『典型』だということも注目すべき現象だ。なぜ。もちろん日本人の多くはこうした人間のタイプの偉さを好むからだ。またそういう人間が一般に詩人として愛されているということがわかる。日本文学の伝統中には漢詩の流れがある。国士の憂鬱と東洋流の原始主義が美しく混入されている。この忠孝愛国の詩は天にうそぶき地にこくすのだ。土を耕しロマン・ロランを読むこの愛国の英雄豪傑は、菊をつむ陶淵明よりも雄大で悲壮である。」
(西脇順三郎「日本人好みの詩」・初出昭和26年11月29日「朝日新聞」、詩論集『斜塔の迷信』昭和32年5月刊収録)

 この皮肉は素晴らしく、西脇にとって英雄豪傑の悲壮詩ほど非詩的でつまらないものはなく、漢詩にだって陶淵明のような素朴な自然詩人がいるではないかと指摘しています。おそらく西脇には石川啄木宮澤賢治三好達治らも高村と同じタイプの東洋的ストイシズム詩人と見ていたでしょう。ところが、この高村批判の本意は高村光太郎詩集『典型』の批判というよりは「日本人好みの詩」というタイトル通りに日本人の詩の好みの偏向への批判にあったことが昭和25年のエッセイ「透谷の芸術」からはわかります。透谷については一旦置くとしても、西脇は大学の英文学教員だった大正9年(1920年)に友人から大正6年(1917年)刊行の萩原朔太郎詩集『月に吠える』を教えられ大きなショックを受けて日本語の詩は萩原の文体で初めて可能であると考え、正教授就任のための大正11年夏~大正14年末(1922年~1925年)に及ぶイギリス留学にはボードレール悪の華』、ニーチェの『ツァラトゥストラ』と萩原の『月に吠える』を携行していったといいます。イギリスからの帰国の船中でリルケの翻訳者としても知られるドイツ文学者の茅野蕭々に日本最高の詩人は高村光太郎と聞かされた西脇はそれから萩原派の高村嫌いになったと言われますが、引用した一文は高村の詩の特色、特に詩集『典型』で露骨なその性格を批判的とは言え良くとらえている、と言えるでしょう。
 しかし問題は西脇によるこの高村観は大正時代からの批判的視点だったのに対し、戦後になってからの高村の批判者は敗戦前までは「忠孝愛国」の「雄大で悲壮」な「英雄豪傑」詩人だったからこそ高村を賞賛していた、ということにあります。「国士の憂鬱と東洋流の原始主義が美しく混入されている」とは西脇にとっては皮肉を極めた批判ですが高村を賞賛していた読者にとっては高村の詩の魅惑そのもので、西脇が批判的に指摘した高村の詩の特色それ自体には善も悪もないでしょう。世の中にはどんな詩があってもよく、たとえそれが人間の尊厳や基本的人権を踏みにじるような害悪に満ちていても読むかどうかは読者が選択すべきことで、世に満ち溢れる低劣な通俗小説の数々、読者の知性を愚弄した処世訓=自己啓発書の氾濫なども無視すればいいだけのことです。

 高村の戦争詩は詩人本人の自発性を伴い、自己を賭けて信念に問いかけた真剣なもので、時局便乗的なジャーナリズムはこれまで反商業的だった詩人・高村をこの時とばかりに持ち上げ競って新作を依頼しました。智恵子夫人を亡くして内面的な空漠状態にあった高村は戦争詩の多作に没入し、精神的喪失感を創作によって自己救済する手段ともしました。高村は子をなさなかった代わりに多くの後輩詩人に慕われる父性的な包容力があり、それが智恵子夫人発病から夫人逝去後の高村を慰めるとともに、詩人たちの先頭に立って戦時下の詩人の範を示さなければ、という態度にもなったと考えられます。当時まだ高村よりも年配の詩人はいましたが高村より年配の詩人は新体詩の世代であり、口語自由詩の詩人の最初の世代で最長老だった高村は西脇の指摘を言い換えるなら一種の使命感から詩を書く詩人でもありました。高村の詩の訴求力の強さはそこにあり、高村と萩原の違いは使命感で詩を書く詩人と詩に使命感を持ち込まない詩人の違いとも言えます。
 萩原唯一の戦争詩「南京陥落の日」が巧まざるユーモアをたたえているのは戦争詩の必須条件といえる戦時下の国民的使命感の翼賛に役立つ要素がほとんどなく、

 (前略)
 ああこの曠野に戦ふもの
 ちかつて皆生帰(せいき)を期せず
 鉄兜きて日に焼けたり。
 天寒く日は凍り
 歳まさに暮れんとして
 南京ここに陥落す
 あげよ我等の日章旗
 人みな愁眉をひらくの時
 わが戦勝を決定して
 よろしく万歳を祝ふべし。
 よろしく万歳を祝ふべし。
 (「南京陥落の日に」末尾11行、初出「朝日新聞昭和12年12月13日・生前詩集未収録)

 と投げやりに町内会の演説程度の万歳三唱(二唱ですが)で締めくくっていることです。引用した末尾11行は「南京ここに陥落す」までの6行と「あげよ我等の日章旗」からの5行に分かれますが、「南京ここに陥落す」までの6行に勇壮さは微塵もなく決着した戦場の虚無感が漂うだけで、「あげよ我等の日章旗」から後のおざなりな勝利の宴はかえって皮肉にすら感じられることです。ここには使命感などかけらもなく、戦勝のニュースがあったから日の丸を揚げて万歳三唱しなくちゃならんな、という町内会の親父たちの会話が聞こえてくるだけです。「南京陥落の日」は大して優れた詩ではありませんが末尾11行の対照を見ると前半6行はむしろ厭戦詩の文脈に属する表現で萩原の本音が覗いていると言ってよく、後半5行はなし崩しに日章旗掲揚して万歳三唱するしかない市民感情の反映です。これを書いてしまえば晩年5年間、萩原がまったく新作詩を創作しなかったのもうなずけます。一方高村の新作詩編創作数を年表にすると、昭和12年~13年は智恵子夫人の病状の末期化と逝去に伴って急増したのがわかります。年表中昭和6年満州事変が日本の15年戦争の幕開けと言える年です。

昭和05年 ; 09編 - 智恵子病臥
昭和06年 ; 12編 - 智恵子精神病兆候
昭和07年 ; 03編 - 智恵子自殺未遂
昭和08年 ; 00編 - 智恵子病状悪化
昭和09年 ; 01編 - 父光雲逝去
昭和10年 ; 07編 - 智恵子入院
昭和11年 ; 03編 - 宮澤賢治詩碑製作
昭和12年 ; 10編 - 智恵子入院続く
昭和13年 ; 19編 - 智恵子逝去、日中戦争開戦、国家総動員法
昭和14年 ; 23編 - 国民徴用列挙公布、第二次世界大戦開戦
昭和15年 ; 19編 - 大政翼賛会発足、期限二千六百年式典
昭和16年 ; 24編 - 東条内閣成立、太平洋戦争勃発
昭和17年 ; 31編 - 学徒勤労報国命令、日本本土空襲開始、ミッドウェー敗戦、日本文学報国会結成
昭和18年 ; 44編 - ドイツ軍敗色、学徒出陣、大日本言論報国会結成
昭和19年 ; 42編 - サイパン失陥引責東条内閣崩壊、東京空襲開始
昭和20年 ; 22編 - 大空襲、沖縄陥落、原子爆弾投下、ポツダム宣言受諾により無条件降伏(敗戦)

 昭和13年は10月に智恵子夫人が亡くなり、この年までは詩作の半数は晩年の智恵子夫人を詠った『智恵子抄』(昭和16年刊)の詩編です。昭和16年まではまだしも戦争詩以外の詩作がありました。転機となったのは昭和16年12月8日の大平洋戦争開戦からです。高村は佐藤春夫らとともに国策翼賛のための文学者の会、「日本文学報国会」の詩人代表としていわば公人として詩作を発表していくことになります。視線が国民感情に向いて雅文調の文語文を採用した佐藤春夫三好達治の愛国詩に対して、高村の詩が力強く明晰な口語詩で明確なメッセージを持ち、「記録」という意識で戦況の一進一退の報にコメントして激しく対戦国を批判し、日本国民を鼓舞し激励しようとするものでした。しかし高村の悲劇は本気で尽くした皇国日本がアメリカ占領下の敗戦国になったことで始まりました。国民の先頭に立って戦勝を祈願してきた詩人高村は敗戦を境に民衆から吊し上げられた格好になり、これはいわば生け贄で裏切りよりもさらに悪質なものです。
 高村の戦時中の詩集はすべて占領軍の検閲基準で絶版・再販不可にされたのに詩集『典型』がベストセラーになり読売文学賞を受賞したのは(先の西脇の引用文も朝日新聞掲載の時評なのに注意。読売新聞なら突き返された内容でしょう)、国内でも20万人もの戦犯指定と公職追放令の対象者を出したGHQ占領政策のうち文学者中、なかんずく詩人の中ではその瀬戸際にあった高村の弁明に対する好奇心と擁護の意味もありました。高村は早くも敗戦半年後には当時の共産党員の文芸批評家による「高村光太郎の戦争責任」(小田切秀雄、「文学時評」昭和21年1月)で激しく糾弾されていたのです。

「戦争の進行と共に、詩人は多く侵略権力の単なるメガフォンと化した。プロレタリア詩人の政治主義と違って、これは時の支配権力への迎合であるが故に、決定的に卑しかった。そしてこうした詩人達の未だ前例を見ぬ堕落は、高村光太郎の動きによって促進されるところ最も大であった。(中略)多くの詩人の中で高村光太郎は、直接人民に対して戦争責任の最も大なるものがあるばかりでなく、詩人全体の堕落に対して最高責任をとるべき人物である。「第一級」たるゆえんである。」
(小田切秀雄、「文学時評」昭和21年1月)

 歴史的には小田切のこの時評は昭和21年1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」の公職追放令を受けたもので、
戦争犯罪人
・陸海軍の職業軍人
超国家主義団体等の有力分子
大政翼賛会等の政治団体の有力指導者
・海外の金融機関や開発組織の役員
満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官
・その他の軍国主義者・超国家主義
 を対象とし、昭和23年までに全国20万人あまりの対象者が指定されたのは前述の通りです。この指定が解除されたのはようやく昭和26年~27年の占領軍撤退の頃で、長編詩「暗愚小傳」(昭和22年7月発表)や詩集『典型』刊行(昭和25年10月)、詩集『典型』未収録詩編「蒋先生に慙謝す」(昭和22年9月30日執筆、初出「至上律」昭和23年2月、生前詩集未収録)の頃は高村はいつ戦犯指定とまではいかずとも文筆発表禁止される公職追放令対象者に指定されてもおかしくなかったのです。小田切の時評はまさに高村光太郎公職追放にせよ、と主張したものでした。民衆の意見の代弁を騙った吊し上げ、生け贄とはこうしたことです。
 小田切の歴史的な高村告発は今日小田切自身の経歴とあいまって(プロレタリア文学批評家だった小田切は徴兵忌避のために故意に病身になる一方、学校教師として教育機関誌に戦争翼賛のエッセイを多数発表していたことが後に判明しました)一批評家の論及というよりは敗戦後のマス・ヒステリーを代表するものと解釈されますが、詩集『典型』の読売新聞社からの文学賞授与は高村への擁護のためとも解釈でき、読売新聞社は明治期の創刊に当たって警察署の天下り新聞社となることで有力な情報入手経路を確保した権力との繋がりが密接な新聞社であり、それは陸軍軍需工場跡地だった後楽園球場(現東京ドーム)を軍・警察・大新聞社の提携から読売巨人軍のホーム球場としたことからもうかがえます。大新聞社主催の文学賞を受賞した詩人に公職追放指定することは占領軍にとっても得策ではなく、また詩集刊行時点でまだ高村が公職追放令対象者ではなかったことで受賞が可能になったとも言えます。

 そこで詩集『典型』の中核をなす長編連作詩「暗愚小傳」を見直すと、未発表手記からの構想メモでは昭和21年9月の時点で第1案と第2案ができていたことが判明しています。

   I
(暗愚の歴史)
 渦中に育つ
○土下座(憲法発布)○お爺さん○御前彫刻(明治天皇)○東郷元帥
 反逆
ボードレールロダン○おれにもかける
「道程」
○爆発○無頼
 智恵子
○清浄光明○死、死
 二律背反
○かけもどる○はやしや○必勝○必死○一切亡失(×わが詩をよみて人死につけり)
 どん底
○山林○人類○美

 これが構想「I」で、「II」では、

  II
 渦中に育つ
○土下座○阿爺さん○御前彫刻○楠公銅像○原型展覧
 反逆
○ボオドレエル○ロダン○おれにも書ける
「道程」
○爆発○無頼
 智恵子
○清浄光明○死、死
 二律背反
○馳けもどる○はやしや○必勝○必死○一切亡失
 原始 源泉
○神にはまさず○山林○美しきもの満つ○どん底○源泉

 そして決定稿「暗愚小傳」では、

 家
○土下座(憲法発布)○ちよんまげ○郡司大尉○日清戦争○御前彫刻○建艦費○楠公銅像
 轉調
○彫刻一途○パリ
 反逆
○親不孝○デカダン
 蟄居
○美に生きる○おそろしい空虚
 二律背反
○協力会議○真珠湾の日○ロマン ロラン○暗愚○終戦
 爐邊
○報告(智恵子に)○山林

 となっており、構成を対照させると、

第1部. 家(完成稿・7章)←渦中に育つ(I・4章、II・5章)
第2部. 轉調(完成稿・2章)←反逆(I・3章、II・3章)
第3部. 反逆(完成稿・2章)←「道程」(I・2章、II・2章)
第4部. 蟄居(完成稿・2章)←智恵子(I・2章、II・2章)
第5部. 二律背反(完成稿・5章)←二律背反(I・5章、II・5章)
第6部. 爐邊(完成稿・2章)←どん底(I・3章)、原始 源泉(II・5章)

 と、第3部と第4部、第5部は章数に変更はありませんが、第2部と第6部は章数を減らされ、その分第1部が1.5倍の章数に増補されていることがわかります。もともと第5部はこの部だけで全編の1/4を占めていましたが、第1部は増補された完成稿では全編の1/2を占めています。明治ナショナリズムの形成を描いた第1部の増補に果たして効果があったかというのがまず問題になり、章数こそ増えたものの内容としては同質の章ばかりであまり効果を上げておらず、かえって冗長になった印象があります。ナショナリズムの形成を詳しく描くなら必要なのは15年戦争間のナショナリズムの本格的な軍国化と爆発も同じくらい詳しく描かれるべきでした。それは例えば構想「I」に一旦記載され抹消された「わが詩をよみて人死につけり」(未定稿では「わが詩をよみて人死に就けり」)であり、戦時下そのままの戦争詩であり、または直接自身の戦争詩への反省として書かれた「蒋先生に慙謝す」のような詩が含まれるべきでした。昭和22年9月執筆の「蒋先生に慙謝す」では

 人口上の自然現象と見るやうな
 勝手な見方に麻痺してゐた。

 という詩句が見られます。これは日本の満州国政策についての反省ですが、完成稿「暗愚小傳」ではまさにある種の「自然現象」のように敗戦が訪れます。しかし「蒋先生の慙謝す」も北海道の小同人誌にようやく発表できたものの詩集『典型』には検閲をおもんばかって収録を見合わされたように、GHQによる検閲基準は連合国最高司令部への公的文書での言及、占領政策への言及すら禁止するものでした。「蒋先生に慙謝す」後半に書かれたような、また「わが詩をよみて人死に就けり」で描こうとしたような軍事力の劣勢による敗戦の過程を描くことも禁じられていたのです。
 小田切秀雄とは対照的な保守派の批評家・河上徹太郎は戦後いち早く戦後の世相を時評「配給された自由」(昭和20年10月「東京新聞」)に発表し、自由主義者のにわか民主主義批評家や共産党系批評家から袋叩きにあいましたが、河上は敗戦による軍国主義の解体と自由化をしょせん占領軍による配給であり、その自由も占領政策の手のひらの上に限定されたものではないかと冷静に指摘したのです。公職追放という恐怖政策の上で自主規制の風潮が生まれ、長編連作詩「暗愚小傳」も詩集『典型』も、

 今日も愚直な雪が降り
 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
 小屋にゐるのは一つの典型、
 一つの愚劣の典型だ。
 (「典型」冒頭4行)

 と言いながらGHQの検閲基準によって肝心な高村が「愚劣の典型」であるゆえんである戦争翼賛詩人としての過去まで包括し、点検することは自主規制を強いられ叶いませんでした。「暗愚小傳」と詩集『典型』が重い課題を抱えながら核心部分については割愛せざるを得なかったのは時代的制約からやむを得なかったことですが、それに代わるテーマを見つけ出せなかったために詩集『典型』、とくに長編連作詩「暗愚小傳」は中心を欠いた、どこか焦点を結ばず暗示にとどまる空疎さな措辞が目立つ作品となってしまったのです。完成稿の第5部「二律背反」が最終章に、

  終 戦

 すつかりきれいにアトリエが焼けて、
 私は奥州花巻に来た。
 そこであのラヂオをきいた。
 私は端坐してふるへてゐた。
 日本はつひに赤裸となり、
 人心は落ちて底をついた。
 占領軍に飢餓を救はれ、
 わづかに亡滅を免れてゐる。
 その時天皇はみづから進んで、
 われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
 日を重ねるに従つて、
 私の眼からは梁(うつばり)が取れ、
 いつのまにか六十年の重荷は消えた。
 再びおぢいさんも父も母も
 遠い涅槃の座にかへり、
 私は大きく息をついた。
 不思議なほどの脱却のあとに
 ただ人たるの愛がある。
 雨過天青の青磁いろが
 廓然とした心ににほふ。
 いま悠々たる無一物に
 私は荒涼の美を満喫する。

 だけではなく、せめて「終戦」の前に「わが詩をよみて人死に就けり」が置かれていたらどうだったでしょう。しかし「わが死を~」は空襲による民間人の被害と高村の戦争詩、また戦死軍人への言及があったために発表は叶わない短章だったのです。

詩集『高村光太郎全詩集』昭和41年(1966年)1月15日・新潮社刊

イメージ 4


  わ が 詩 を よ み て 人 死 に 就 け り

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の太腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向つた。
その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

(昭和21年5月11日構想・推定中旬~下旬執筆、生前未発表未定稿)

*仮名づかいは原文のまま、用字は略字体に改めました。機種依存文字になる一部の稀字はやむを得ず同音同義の別字に置き換えました。