人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年10月22日・23日/ハワード・ホークス(Howard Hawks, 1896-1977)の男の映画(10)

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 ともにジョン・ウェイン主演の大作『ハタリ!』'61と『エル・ドラド』'66の間にホークスは釣りの経験もないのに釣りの入門書を書いたらベストセラーになってしまった男(ロック・ハドソン)のコメディ『男性の好きなスポーツ』'64、ジェームズ・カーン主演のストック・カー・レース映画『レッドライン7000』'65を世に送りますが、どちらも興行的にも世評も芳しくありませんでした。ホークスにはジョン・ウェインでないと十分に力をふるえなくなっていたのかもしれません。『男性の好きなスポーツ』などは女性との交際経験もないのに恋愛指南書を書いておもしろ半分に(空想ギャグ本として)出版社に歓迎される『猛進ロイド』'24の焼き直しのような古いアイディアです。しかしウェインの西部劇となれば古いも焼き直しもないパワーが俳優自身にあるので、長いホークスの監督キャリア最後の2作になるウェイン主演の西部劇『エル・ドラド』『リオ・ロボ』はわざとやっているとしか思えないホークス自身の作品のセルフ・リメイク的な内容の映画になりました。フリッツ・ラングの最後の2作、『大いなる神秘』'58、『怪人マブゼ博士』'60がデビュー間もないサイレント時代の代表作のリメイクだったように、ホークスも自分のやりたい映画を撮ろうとして「似たような映画を前に作ったが、まあいいか」という乗りで、それを観客も楽しむと自信を持とうとして几帳面に作ったのだと思います。今回で全46作に上るホークス監督作品から7割弱の27作のご紹介はひと区切りつけさせていただきます。なお、今回も紹介はキネマ旬報バックナンバー新作外国映画紹介を使わせていただきました。

●10月26日(木)
エル・ドラド』El Dorado (パラマウント'66)*126min, Technicolor; 日本公開昭和42年(1967年)6月

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ジャンル 西部劇
製作会社 パラマウント
配給 パラマウント
[ 解説 ] ハリー・ブラウンの小説を「リオ・ブラボー」のリー・ブラケットが脚色、「レッド・ライン7000」のハワード・ホークスが監督した西部劇。撮影はホークスの懇願で8年間の引退生活からカムバックしたハロルド・ロッソン、音楽は「ロリータ」のネルソン・リドルが担当した。出演はジョン・ウェインロバート・ミッチャムのほかに「レッド・ライン7000」の新人たちジェームズ・カーン、シャーリン・ホルト、ロバート・ドナーなど。製作はハワード・ホークス、共同製作はポール・ヘルミック。
[ あらすじ ] ガンファイターのコール(ジョン・ウェイン)はテキサスのエル・ドラドに久しぶりにやって来た。迎えたのはシェリフになった旧友ハラー(ロバート・ミッチャム)のライフル銃と、昔の恋人、酒場の女主人モーディー(シャーリン・ホルト)のキスだった。コールは牧場主ジェイスン(エドワード・アズナー)に頼まれ、水利権の争いの助太刀にやって来たのだ。しかしハラーがシェリフになっているのを知ると、旧友のために手を引くことにした。ジェイスンの牧場に助太刀を断わりに行った帰り、狙撃してきた男に応戦、重傷を負わせた。男はジェイスンと水利権を争っているマクドナルド(R・G・アームストロング)の息子で、彼は苦痛にたえかねて自殺した。コールは事情を説明しにマクドナルドの牧場へ行った帰り、今度はマクドナルドの娘ジョーイ(ミシェル・ケーリー)に撃たれ重傷を負った。彼女は仔細を知らなかったのだ。コールは傷がなおるとエル・ドラドを去ったが、マクロード(クリストファー・ジョージ)というガンマンがジェイスンにやとわれ、エル・ドラドへ行くことを知り、ハラーの身を案じて再びエル・ドラドへ戻った。マクロードはマクドナルド一家にいやがらせをはじめ、町には銃弾が飛びかった。結果は、ジェイスン側にマクドナルドの息子ソール(ロバート・ロスウェル)が捕らえられ、水利権の書類との引きかえを要求される破目になってしまった。情勢はマクドナルド一家に不利となった。そこで最後の決戦が開始されることになった。コールは古傷でまだ体の自由がきかなかったが、マクロードを撃ち倒した。ハラーたちはソールを助けだした。ジョーイはコールを狙ったジェイスンを撃ち倒した。翌日、エル・ドラドには平和がよみがえった。コールはモーディーと、コールに手助けしたミシシッピー(ジェームズ・カーン)はジョーイと結ばれることになった。

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 主従関係が逆ですが、アル中の保安官のロバート・ミッチャムと冷静に戦略を練るウェインに『リオ・ブラボー』のディーン・マーティンとウェインを重ねない観客はいないでしょう。また、水利権をめぐる隣家の争いは開拓史西部劇の永遠のテーマの一つです(SF映画トータル・リコール』などでは植民惑星の大気独占という変奏もされます)。誤解による殺傷沙汰も定番ならもめ事の間に芽生えるロマンスもお決まりのもので、ミッチャムはやろうと思えばお手のものだったでしょうが『リオ・ブラボー』のマーティンほどアル中然とはしておらず、始終毅然としています。それもホークスの指示だと思われるのは本作が『リオ・ブラボー』とも一転して丁寧かつ端正に隅々まで満遍なく語りの行き届いた映画になっているからで、始まって相当経っても視点人物が誰か断定できないほど状況があちこちの視点から描かれていきます。本来ならミッチャムかウェイン、またはこの両者の側に視点をまとめて理があるマクドナルド家に敵対するジェイスン一味とのにらみ合いを描くのが定石で、『リオ・ブラボー』でもホークスはそうしています。しかし本作はミッチャムとウェインの間に親密な同盟意識はなく(ジェームズ・カーンは子分みたいなものですが)、保安官ミッチャムとマクドナルド家の間にも気が置けない信頼関係はないように見えます。それが本作の多元平行話法に現れていて、その公平さはジェイスン一味にまで及んでいます。かつてないほど几帳面な演出姿勢を感じるのはその点で、まぎれもなくホークスの映画でありながらおよそホークス作品らしからぬネルソン・リドルの気品の高い劇伴音楽が居心地悪いほどで、『リオ・ブラボー』を意図的に連想させながらも目指しているのはまったく別のムードを持つ映画だったように思えます。何と言ったらいいか、ホークスより小粒な作風ながら端正な演出に定評ある盟友ヘンリー・ハサウェイが『リオ・ブラボー』似の映画を撮ったらどうなるかホークス自身が撮ってみたような、素直に作ったようで底に腑に落ちない表情が浮かんで見えるような印象を残す作品です。リベラルのホークスに対してこの時期、ウェインはウェイン自身の企画・製作・監督・主演作品『グリーン・ベレー』'68のようなヴェトナム戦争推進派の右翼的姿勢を表明していました。ただしそういう野暮な話抜きに両者の信頼関係は深かったでしょう(ウェインはジョン・フォード作品には20作あまり出演していますが、ホークスとは違ってフォードとは師弟関係でした)。

●10月27日(金)
『リオ・ロボ』Rio Lobo (パラマウント'70)*114min, Technicolor; 日本公開昭和46年(1971年)2月

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ジャンル アクション / 西部劇
製作会社 C・C・F・プロ
配給 東和
[ 解説 ] 無法の町リオ・ロボを舞台に展開される壮絶なアクションと西部男の心意気を描く。製作・監督は「リオ・ブラボー」「エル・ドラド」のハワード・ホークス、アクション担当監督を「ベン・ハー(1959)」の戦車競争シーンを撮ったヤキマ・カナット、脚本はバートン・ウォルとリー・ブラケット、撮影を「アラモ」のウィリアム・H・クローシア、音楽はジェリー・ゴールドスミス、編集をジョン・ウッドコック、美術はロバート・スミスがそれぞれ担当。出演は「チザム」のジョン・ウェイン、新人のホルヘ・リベロジェニファー・オニール。その他、ジャック・エラム、クリス・ミッチャム、ヴィクター・フレンチなど。
[ あらすじ ] 南北戦争末期、北軍のマクナリー大佐(ジョン・ウェイン)の護衛する金塊輸送列車は南軍のコルドナ大尉(ホルヘ・リベロ)の率いるゲリラに襲われ、彼は捕えられる。だが、巧みな手段で脱出し、逆にコルドナと部下のタスカロラ(クリス・ミッチャム)を捕虜にし、事件の背後で操った北軍の裏切り者が2人いることを聞き出す。戦争が終わり、故郷の町に帰ったマクナリーは、若い娘シャスタ(ジェニファー・オニール)の危難を救ったことから、偶然、裏切り者の1人をしとめ、コルドナと再会をする。マクナリーは喜んだ。列車襲撃事件のときに負傷した仲間がその後死んで、仇をとる必要があったからだ。一方、魔術芝居の巡業をして歩くシャスタは、リオ・ロボで悪徳保安官ヘンドリックス(マイク・ヘンリー)一味に相棒を殺され、彼女も追跡されていたのだった。コルドナは、その保安官一味に裏切り者がいると教えた。彼もリオ・ロボに牧場をもつ旧友タスカロラが、地元のボスのケチャム(ヴィクター・フレンチ)一味に牧場を乗っ取られようとしているのを救援にいこうとしているところだった。3人はリオ・ロボへ向かうこととなった。マクナリーはそのボスこそ、例のもう1人の裏切り者に違いないとにらんだ。町に着いた3人は、タスカロラが馬泥棒に仕立てられて逮捕され、彼の祖父フィリップス(ジャック・エラム)が監禁されていることを知った。3人は不意を衝き、老人を救出した。しかし、リオ・ロボの留置所は砦のようで、まともな攻撃でタスカロラは助けられそうもなかった。マクナリーは一計を案じ、ケチャム牧場を襲って彼を人質とした。やはり、彼は例の裏切り者だった。マクナリーはコルドナを近くの騎兵体砦に通報にやり、敵とリオ・ロボで、タスカロラとケチャムの人質交換をもくろんだ。しかし、コルドナはヘンドリックスに捕えられた。今度はリオ・ロボの町を流れる川の橋で、ケチャムとコルドナの身柄交換となった。多勢に無勢、マクナリーたちの形勢は不利となったが、タスカロラの作戦が功をそうした。形勢は逆転して、ケチャム一味は硝煙の藻屑と消えた。コルドナとシャスタは結ばれて、リオ・ロボに平和が戻った。

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 敵同士だったジョン・ウェイン北軍大佐と南軍大尉のホルヘ・リベロと南軍兵士クリス・ミッチャムが二重スパイ、かつ真の目的は南北どちらにもつかず金塊輸送車強盗という共通の敵を討伐するために共闘する、というなかなか面白くなりそうな設定。ウェイン以外スター俳優は一切いない地味なキャスティング。あとはホークスが本気をどこまで出すかが唯一の懸念材料ですが、『リオ・ブラボー』や『ハタリ!』では監督デビュー時から必ずやっていたホークス自身による脚本改稿を『エル・ドラド』では止めてしまったのではないか、と思わせるような演出が本作でも行われています。画面を観ていると脚本が見えてくるようで、これまでのホークスは脚本など意識させないか、意識させる箇所があってもいったい脚本はどうなっているんだ、と呆気に取られるような演出ゆえのことでした。しかし『エル・ドラド』と本作は設計図としての脚本に忠実たらん、映画としての出来はその上で、とでもいうような几帳面さなのです。かつてのホークスにそんな作品あっただろうか、と思い返すとホークスただ1作の太平洋戦争映画『空軍/エア・フォース』がそうでした。『空軍~』が本当に脚本の再現性の高い作品かはわかりませんが、アメリカ空軍の協力作品という性質上ホークスがフィルム上に本物の現実の戦況を再現しようとしたことは確かです。おそらく『エル・ドラド』『リオ・ロボ』は惰性の産物で、惰性とは比喩表現ではなく、物理的に映画監督ホークスの精神が引退を決めた1作に向かわずブレーキをかけても、または燃料切れでも、映画をつくる勢いだけは止められなかった現象を惰性だというだけのことです。ホークスは粋人ですから最後は軽いもので終わりたかったのではないか。『ハタリ!』の後の2作『男性の好きなスポーツ』『レッドライン7000』がそれですが評価も興行成績も低調でホークス自身も満足のいく作品にはならなかったのでしょう。引退作を宣言する性格ではなかったのはホークスの享年が『リオ・ロボ』から7年後で、生前同作を遺作と公言しなかったことでも推察されます。『エル・ドラド』ではかなり引退作を意識していたのではないか、と過去の自作のモチーフの流用、ウェインとミッチャムの共演、丁寧な作柄からもうかがえますし、監督デビュー40周年の区切りの良い年でもありました。しかし『エル・ドラド』でもホークスにはストップがかからず、ウェイン以外ノン・スター映画の『リオ・ロボ』がホークスのキャリアから押し出されるようにしてできあがります。ただし同じ几帳面でも『エル・ドラド』は有終の美を目指した几帳面さなのに『リオ・ロボ』はもうこうなったら几帳面であり続けるしかない几帳面さで、そこまでやってようやくホークスの中の惰性は消えて次の作品に向かう内的要請はなくなりました。思い切り明快なアクション映画にしたのも白鳥の歌にふさわしく、割り切った判断が功を奏して最後の閃きを見せました。こういう遺作に、アクション場面以外は淡々としすぎているとか派手な割に華に欠けるとかあげつらってもないものねだりでしょう。45年分の重みを感じつつ粛々として観る以外に何ができましょうか。ホークスは半世紀に渡ってアメリカ映画を支えてきましたが、本作でついに肩の荷を下ろしたのです。