ついに今回でヒッチコック(ほぼ)全作品感想文も第20回、第38作『私は告白する』、第39作『ダイヤルMを廻せ!』までで長編映画38作、戦争プロパガンダ短編2作をご紹介することになります。「ほぼ」というのはヒッチコックには唯一のオムニバス映画の合作参加作『エルストリー・コーリング』'30や、ヒッチコック監修のテレビシリーズ「ヒッチコック劇場」'55~'62、「ヒッチコック・アワー」'62~'65とスペシャル番組で'55年~'62年の間にヒッチコック自身が監督したテレビ用短編(当時のテレビドラマは16mmフィルム撮影の「短編映画」でした)が20本(30分枠作品17本、60分枠作品3本)あるからですが、『エルストリー~』は監督4人合作の分担が分けられていない芸能ショー映画ですので割愛し、テレビ用中短編は(戦争プロパガンダ短編は特例としましたが)媒体の性質が異なることもあり、またの機会に見送りました。さて前作『見知らぬ乗客』'51で特大ヒットを飛ばし復活を印象づけたヒッチコックは、1925年の監督デビュー以来初めて2年のブランクを空け、慎重に次作に取り組みます。それがヒッチコック作品にはもっとも似つかわしくなさそうなモンゴメリー・クリフト主演作『私は告白する』であり、また次の『ダイヤルMを廻せ!』は当時話題の新技術だった3D映画として製作されましたが、3D映画は製作費がかかり上映の問題も多い上にそれに見合うだけの観客も動員できなかったのでブームは1年も持たず、ヒッチコック作品の公開時には一部の封切り館で3D上映されただけでほとんどのロードショー館では2D版で公開された作品です。『私は~』はクリフト、『ダイヤルM~』は3D、そしてヒッチコックの映画でグレース・ケリーが初主演した作品なのが一番の注目点になるでしょう。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一・蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。
●1月12日(金)
『私は告白する』I Confess (米WB'53)*95min, B/W; 日本公開昭和29年(1954年)4月15日
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「見知らぬ乗客」のアルフレッド・ヒッチコックの1953年監督作品で、ポール・アンセルムの戯曲の映画化。脚本はジョージ・タボリとウィリアム・アーチボルドの共同執筆。撮影は「見知らぬ乗客」のロバート・バークス、音楽の作曲指揮は「吹き荒ぶ風」のディミトリ・ティオムキン担当。主演は「終着駅」のモンゴメリー・クリフトと「人生模様」のアン・バクスターで、カール・マルデン(「欲望という名の電車」)、ブライアン・エイハーン(「大地は怒る」)、O・E・ハッセ、ロジャー・ダンらが助演する。
○あらすじ(同上) カナダの都市ケベックの教会。ここの神父館で働くオットー・ケラー(O・E・ハッセ)は、ある夜、神父マイケル・ローガン(モンゴメリー・クリフト)に重大な告白をした。ケラーは生活苦の末、強盗を働いて弁護士ヴィレット(オヴィラ・レガーレ)を殺害したのだ。この事件はラルー警視(カール・マルデン)が捜査に乗り出した。ケラーは犯行のとき僧衣をまとっていたので、マイケルに疑いがかかって来た。だが聖職にある彼は、告白の内容を洩らそうとはしなかった。そのうえ、兇行の夜、マイケルが国会議員グランドフォード(ロジャー・ダン)の妻ルース(アン・バクスター)と逢っていたこともわかって、彼への心証は益々悪くなった。ルースは無実を明かすために良人、検事、警視、マイケルらの前で、マイケルとの過ぎし日の恋を打ちあけた。2人の仲は大戦勃発で割かれ、出征したマイケルは、牧師志望の弟が戦死したので、その志をついで神父になる決心をした。そのためルースは恋をあきらめ、グランドフォードと結婚したのだが、想いはマイケルにあった。マイケルの帰還後、ルースと彼は郊外の小島へ遊びに出かけ、お互に2人の過去を清く水に流そうとしたが、折悪しく突然の嵐のため、空家で一夜を明かさねばならなくなった。翌朝、2人の前にあらわれたのは、その家の持主ヴィレット弁護士で、彼はこの逢曳き現場をネタに、以来2人を脅喝しつづけた。マイケルとルースは堪りかねて、丁度ヴィレットが殺害された晩に、その対策を相談していたのである。ーだがルースの真実の陳述も却ってマイケルを不利にした。死体を調べた結果、ヴィレット殺害の時刻は、マイケルがルースとわかれて30分後だった。マイケルは起訴され公判に附されたが、確証がないため無罪の判決を受けた。だが大衆は承知せず、マイケルにあらゆる罵声をあびせかけた。事件の真実を知るケラーの妻(ドリー・ハス)は、この様に堪りかねて、真相を曝露しようとしたが、ケラーに殺された。ラルー警視はケラーがこの事件に関係していることを悟り、マイケルらとともにケラーの逃げ込んだホテルへ向った。マイケルはケラーを説得しようとしたが、逆上したケラーは自らの罪をラルーの前でぶちまけ、マイケルに拳銃を射ちかけて来た。だが、ラルーの命令で、ケラーは包囲する警官の銃弾に倒れた。
モンゴメリー・クリフト(1920-1966)はマーロン・ブランドと並ぶメソッド派(日本流に言うと新派)演技の戦後新人俳優として『赤い河』'48、『山河遥かなり』'48で鮮烈なデビューを飾り、この『私は告白する』の前作がエリザベス・テーラーと共演したアカデミー賞6部門受賞作『陽のあたる場所』'51、本作の次がフランク・シナトラ、バート・ランカスター、デボラ・カーと共演したアカデミー賞作品賞を含む8部門受賞作『地上より永遠に』'53になり、製作規模からしても大作『地上より~』のプリプロダクションは『陽の~』直後には始まっていたでしょうから、本作への出演はほぼ『地上より~』の製作と重なっていたと思われます。『地上より~』はハワイ空襲前後のアメリカ軍基地のクリフトとシナトラの軍隊物語と、軍部の司令官であるランカスターと人妻デボラ・カーの不倫物語が平行して描かれ、この二つはハワイ空襲によってカタストロフを迎えますがクリフトとシナトラの物語、ランカスターとカーの物語は直接は交わりませんから、まずランカスターとカーのパートが撮影され、後にクリフトとシナトラのパートが撮影されて(またはその逆)、二つの物語を平行するように編集された後にリテイクや追加撮影を経て完成されたと思われるので、『地上より~』と少しずれて重なるかたちでクリフトのヒッチコック作品への出演が行われた(完成・公開は『私は~』『地上より~』の順)と推察してもいいのではないか。作品の規模からしても本作は渡米後のヒッチコック作品としては比較的小品の部類に入ります。まぎらわしいのはアン・バクスターがヒロインで出演していることで、バクスターとデボラ・カーって何だか印象がかぶりませんか?『地上より~』のカーがよろめき人妻、本作のバクスターもそうなのでそう思うだけで、デボラ・カーも『キング・ソロモン』'50みたいな冒険映画のヒロインはなかなかいいし、バクスターはもっと幅広く『熱砂の秘密』'42、『剃刀の刃』'46、『イヴの総て』'50、本作と同年にはフリッツ・ラングの佳作『青いガーディニア』'53と作品ごとに多彩なヒロインを演じていた女優でした。しかしこの二人、良家のお嬢様出身も納得で、映画スターらしいいかがわしさに欠けるんだよなあ。
クリフトとバクスター以外のキャストは地味です。しかし本作は地味なキャストの質実な演技が作品のムードになじんでいて、前作『見知らぬ乗客』はヒッチコックが渡米後10年、ようやくアメリカ市民の目線から社会を描けるようになったと思わせる足が地についた現実感のあるもので、それまでのヒッチコックは上流階級を描くか、例外的に『疑惑の影』があっても意図的にステロタイプ化された地方都市という作為のぬぐえないものでした。本作はカトリックの信徒が市民の大半を占める町、ということからカナダのケベック州の町を舞台にしていますが、ケベックがカトリックの都市なのはもともとフランス領だったからで本当は登場人物たちの日常語はフランス語のはずですが、そこらへんは目をつぶりましょう。ヒッチコックが『映画術』でしくじったと言っている通り(ヒッチコック自身もカトリックのアイルランド系イギリス人です。もっとも1952年にヒッチコック一家はアメリカ国籍を取得しましたから、本作の時点ではアメリカ人になっていました)、カトリックならば神父は絶対に懺悔の秘密を口外しない、と信じている。アメリカ人の大半のプロテスタントならば法と信仰を秤にかければ法を優先すべきこともある、と考える。その結果クリフトがなぜ真犯人の懺悔を暴露しないのか、この映画はクリフトが昔の恋人との秘密を守るために暴露できないのか、職業(信仰)のためにできないでいるのか観客のほとんどにはサスペンスの焦点がピンとこない作品になってしまった。つまりほとんどの観客にとっては追いつめられたクリフトが映画のタイトル通り(懺悔の秘密を)告白、いな告発する、という大カタルシスを期待するわけです。しかしヒッチコックは主人公が絶対に懺悔の秘密を口外しない、という前提の映画づくりをしたので、ヒッチコックの意図通りに疑念を抱いた犯人が自滅する結末まで主人公の黙秘は一貫していますが、観客にはこの主人公に感情移入できない結果になってしまった。『ロープ』以来ヒッチコックは独立プロダクション監督としてメジャー映画会社の配給網で映画を作ってきましたが、配給会社からのリクエストにも応えなければならないのでクリフト主演映画の企画を引き受けた、そうしたら映画会社からヒロインにアン・バクスターも指名されたのが裏事情だったようです。バクスターは同年の『青いガーディニア』では同僚の親友ふたりとシェアルームしている電話交換手のOL役で庶民的なお色気もあれば愛嬌もある楽しいヒロインを演じていますが、ガミガミ親父のドイツ人監督ラングの犯罪サスペンスの方が楽しくて、ラングより後輩で洒落っ気のあるイギリス人監督ヒッチコックの方が今回は重くて暗かったのはバクスターには損な役まわりだったかもしれません。
クリフトはこの頃徹底して演技プランを立ててくるタイプの俳優だったそうで、一方ヒッチコックも俳優の動きまでコンテにイメージして演出プランを立てる監督だったので、スター俳優クリフト主演は動かせないためヒッチコックはクリフト自身の演技プランによるテイクとヒッチコックの演出プランによるテイクの2通りを撮影したそうです。ロバート・ドーナットや悪役ですがピーター・ローレ、ハリウッド時代ではローレンス・オリヴィエ、ケーリー・グラントやジョゼフ・コットンらヒッチコック好みの俳優たちならともかく、クリフトとヒッチコックでは俳優が映画でするべき演技のイメージはまるで違ったものだったのは一連のクリフトの代表作からも明らかで、前作『見知らぬ乗客』があからさまなユーモアはなくても皮肉なシチュエーションがブラックな味わいを醸し出した成功例でしたから、本作では秘密の共有者、次作『ダイヤルMを廻せ!』では再び依頼殺人という『見知らぬ乗客』のヴァリエーションの一環として本作が作られ、『見知らぬ~』のファーリー・グレンジャーも『ロープ』では異常殺人者役だったようにクリフトも『陽のあたる場所』の青年殺人犯役で翳りのある演技に磨きをかけた俳優です。ヒッチコックは言及していませんが気づいているのが明らかなのは、本作の主人公は殺人犯の秘匿にも人妻との密会にもまったく弁明する必要を感じない、神の名において潔癖であると確信している人物として描かれています。しかしクリフトが演じると罪悪感と葛藤に苛まれた悩めるキャラクターのようになってしまって、物語上の強気な言動と懊悩しているようにしか見えないクリフトの演技が齟齬をきたしている。おかげでバクスターの告白がフラッシュバックの回想として描かれる演出もまた『舞台恐怖症』のように裏にトリックがある偽の回想シーンじゃなかろうな、それにしては長々としているから(この回想は冗長すぎて失敗しています)これがトリックだったら滅茶苦茶な展開になるぞ、と映画が設定しているリアリティの次元まで観客が信用できなくなる寸前まで説得力が破綻しそうになる。こう書いてくると良い所のほとんどない映画のように見えますが、その回想シーンを除けば本作は主人公がどっちに転んでも破戒僧になるか、本当に追いつめられて自滅的な行動をとってはしまわないか、それをいかに映画は回避してみせるか、何より『私は告白する』というタイトルが何も自分からは告白できない立場の主人公には痛烈な皮肉であり、主人公が「告白」(懺悔)するとすれば告白してしまうことが至上の罪になるわけです。そういう蛇の尻尾呑みのような、クラインの壺のようなジレンマはちょっと現代映画というよりもサイレント時代の矛盾に満ちた映画のようですし、ハリウッド進出後にヒッチコックが作ったイギリスが舞台のどの映画よりもイギリス時代の内容に制約のあった作品を思い出させる面があります。代表作にはなり得ないこその面白さ、というのもあるのです。
●1月13日(土)
『ダイヤルMを廻せ!』Dial M for Murder (米WB'54)*105min, Technicolor; 日本公開昭和29年(1954年)10月6日/ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞受賞(グレース・ケリー)、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞助演男優賞受賞(ジョン・ウィリアムズ)、英国アカデミー賞最優秀外国女優賞ノミネート(グレース・ケリー)、全米監督協会賞監督賞ノミネート
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「私は告白する」に次いでアルフレッド・ヒッチコックが監督したミステリイ・ドラマ1954年作品。フレデリック・ノットの戯曲およびテレビ劇を作者のノット自身が脚色した。撮影のロバート・バークス、音楽のディミトリ・ティオムキンも「私は告白する」と同じスタフ。主演は「午後の喇叭」のレイ・ミランド、「モガンボ」のグレイス・ケリー、「逃走迷路」「恐怖時代」のロバート・カミングスで、ジョン・ウィリアムス、アンソニー・ドーソン(「鷲の谷」)らが助演する。ワーナーカラー作品、3D立体映画であるが、日本公開は平面版になる。
○あらすじ(同上) ロンドンの住宅地にあるアパート。その1階に部屋を借りているトニー(レイ・ミランド)とマーゴ(グレイス・ケリー)のウエンディス夫妻は表面平穏な生活を送っているように見えたが、夫婦の気持ちは全く離ればなれで、マーゴはアメリカの推理小説作家マーク・ホリデイ(ロバート・カミングス)と不倫な恋におちており、それを恨むトニーはひそかに妻の謀殺を企てていた。トニーはもとウィンブルドンのテニスのチャンピオンで、金持ち娘のマーゴはその名声にあこがれて彼と結婚したのだが、トニーが選手を引退してからは彼への愛情が次第にさめていったのである。トニーは大学時代の知人でやくざな暮らしをしているレスゲート(アンソニー・ドーソン)に、巧みに持ちかけて妻の殺人を依頼した。計画は綿密で、トニーはマークと一緒に夜のパーティーに出かけてアリバイをつくり、レスゲートにアパートへしのびこませる。約束の時間にトニーはアパートへ電話をかけ、マーゴが電話に出たとき、かくれていたレスゲートが後ろから絞殺するというてはずだった。しかし、実際には絞められたマーゴが必死にもがいて鋏でレスゲートを刺殺してしまった。トニーは、マーゴがマークとの不倫をレスゲートにゆすられていたので彼を殺したという印象を警察に与え、マーゴを罪におとし入れた。マーゴは死刑を宣告され、処刑前日までトニーの陰謀は発覚しそうにもなかった。だが、ひそかに調査を進めていたハバード警視(ジョン・ウィリアムス)は、レスゲートが使ったアパートの鍵のことから事件解決の緒口をつかみ、遂にトニーの犯罪をあばいた。
この感想文を書いている時点でヒッチコック(ほぼ)全作品は第49作『マーニー』'64まで観進めているのですが、本作から次作『裏窓』'54、その次の『泥棒成金』'55まで3作連続ヒロインに抜擢されたのがグレース・ケリー(1928-1982)です。ケリーは『泥棒成金』の翌年『上流社会』'56、『白鳥』'56の2本を最後にモナコ公国のレーニエ皇太子に嫁いできっぱり女優を引退してしまったので、ヒッチコックは『めまい』'58ではキム・ノヴァクをケリーの代役扱いで使い、『鳥』'63と『マーニー』'64のティッピ・ヘドレンをケリーに似せようとしてセクハラしまくったのがヒッチコックの没後に暴露されましたが、生前はヒッチコックは女優に手を出さない唯一の映画監督という潔癖なイメージで売っていたので、遺族がヒッチコック映画はエンタテインメントであって個人的性癖や嗜好の反映ではない、と主張するようになったのも没後のジャーナリズム的関心への反発かもしれません。とにかくヒッチコックはイングリッド・バーグマン以後グレース・ケリーを最高のブロンド美人と惚れ抜いていたそうで、ケリーはジンネマンの『真昼の決闘』'52やジョン・フォードの『モカンボ』'53で売り出していましたがフォードが続けて使いたがっていたのを盗んでやった、モーリン・オハラを盗られた仕返しだ、とヒッチコックは吹聴していたそうです。ケリーは『喝采』'54で早くもアカデミー賞主演女優賞を獲得し、ヒッチコック映画への主演3作も大ヒットさせ、実働5年足らずで皇族になって引退というすごい女優でしたが、ヒッチコック映画はどれも面白いしグレース・ケリーは極めつけの美人女優と決まっているので悪口くらい書いたっていいでしょう。ブロンドで美人だから何だっていうのでしょうか。『裏窓』がずばりファッション・モデルという設定の役ですが、ケリーはまったく真実味のない、演技するファッション・モデルのような女優でまったく魅力が感じられません。イギリス時代のイザベル・ジーンズやアニー・オンドラ、マデリーン・キャロル、ハリウッド進出後のジョーン・フォンテーン、何よりイングリッド・バーグマンに較べると感情をまったく欠いて見える。オードリー・ヘップバーンですらケリーに較べれば女優でしょう。ジェニファー・ジョーンズやエリザベス・テーラーも臭みはありますが演技に実はきっちり詰まっている。ケリーなど中味の何にもないただのブロンド美人で、ヒッチコックがケリーと対照的に「セックスがむき出しで何の魅力もない」と貶めるマリリン・モンロー(しかもトリュフォーまでジェーン・ラッセル、ソフィア・ローレン、ブリジッド・バルドー、マリリンを「大した映画に出てもいないのに人気が高い」と尻馬に乗る。『紳士は金髪がお好き』や『黒い蘭』、『軽蔑』を「大したことない」と言えるでしょうか!)が体現していた本質的な人間性と存在感のかけらもケリーにあるとは思えません。
というわけで、グレース・ケリーがヒロイン役という以外は本作はとても面白い、文句のつけどころのないスマートな倒叙形式のサスペンス映画で、残念ながらケリー殺害計画はしくじって殺人を依頼された男の方が返り討ちに遭ってしまう、という気の毒な展開になります。ケリーはこの世でもっとも卑しい職業と言うべき推理小説の作家(ロバート・カミングス)と不倫しており、この推理小説作家は後で不倫がバレても悪びれるどころか「君が殺人を依頼して彼女が正当防衛で殺したことにしろ」と主人公たる夫のレイ・ミランドに偽証を迫る破廉恥漢でもあります。姦夫姦婦のケリーとカミングスに鉄槌を下すべく大学で旧知だった詐欺師の男(アントニー・ドーソン)を長期調査して弱みを握り、ちまちま報酬金を貯めてドーソンに妻殺しを依頼するミランドの方がよっぽど観客の共感を誘うキャラクターになっている。ケリーがこの映画で最後に助けられる理由はブロンド美人の主演ヒロインは助からなければならない、というハリウッド映画暗黙の了解があるからだけで、「見知らぬ乗客」以来のテーマ変奏である依頼殺人計画が失敗したと知るやとっさにドーソンを脅迫者に仕立て上げ状況証拠で強請られた妻による故殺に偽装するミランドの機知には胸がすきます。ここまでで映画は50分、「Intermission(休憩)」表示が出ますが、3時間級の大作ならともかく2時間を切る映画で半分の位置に休憩とはどうしてかというと、3D映画は観客が疲れるという配慮だったそうです。しかし映画を前半後半に分けた構成がこの作品では成功しており、前半は殺人計画とその実行がとんでもない方向に着地するまで、後半はミランドの策略が効を奏してケリーが故殺で死刑判決まで受けるが、渋いジョン・ウィリアムズの警部がミランドの謀略を見破るまで、ときれいに対になるのが基本的にはミランドの書斎という一室だけでドラマが展開する本作を緊張感の途切れない作品にしています。依頼殺人のアリバイでミランドが社交クラブに出席するシーンは社交クラブとドーソンが殺人の実行に待機する書斎、寝室のケリーのカットバックになりますが、ケリーの裁判などはカラーのホリゾント背景にケリーのアップに裁判進行から判決までの声がかぶるだけと大胆な省略法が行われており、本作は様式化の徹底した人工的作品なのでこれもありですが、ケリーの容貌のせいで非常にチープな印象を残します。ケリーは白人女性なりの富士額というべき額の目立つ顔立ちですが、面長すぎてクローズアップにするとスクリーンの横長と不調和を生じる。これも映画女優よりファッション・モデルの顔だからです。何より知性や人間性をまったく感じさせないのがクローズアップに耐えません。
推理ものが非人間的で不愉快なのは切実な事情を背景に持つ犯罪者を猫が鼠をもてあそぶように法や倫理や世論の権力のもとに一方的に裁断処罰する発想が基本になっているからですが、読者なり観客なりを自然に勧善懲悪の図式で優越感に浸れるような権利者側の立場に誘導する極めてファッショ的な構造になっている。それが人間性への侮辱に他ならないのですが、ヒッチコック自身が原点と認める『下宿人』は決してそんなものではなかった。しかしミステリーものはいつもそこらへんに落とし穴があるので、本作のケリーはヒッチコックのトーキー第1作『恐喝(ゆすり)』のヒロインのように正当防衛の殺人を犯してしまうのですが、同作のアニー・オンドラほども同情を誘わないのはケリーは殺されたって仕方ないような上流階級の有閑マダムですし、また本作の結末も警察の偽証による誘導によるもので依頼殺人の物的証拠にはなり得ず、しかも実際は未遂に終わっていますからミランドとケリーの夫婦関係の破滅にはなってもミランドの罪状を告訴するのは困難です。すっぱり爽快に観終えて内容を振り返ると本作にあるのは犯罪ゲームのサスペンスだけになりますが、その次元で展開されているからこそ純粋に話法と技巧のみに興味の向く映画でもあって、ケリーに背中を刺されたドーソンが仰向けに倒れる、床にぶつかって鋏がさらにグッと深く刺さるカットなど一瞬の1カットのために床を掘ってカメラを床の位置まで潜らせた超ロー・アングルにしていたり、また書斎の中で行われるドラマが仰角、俯瞰など人の目線の高さに縛られずあらゆるアングルから撮影されているのには驚嘆します。3D以上に室内劇でどのような映像手法が可能か極限まで実験し成功した点で本作は『ロープ』の全編1リール1カットの手法に匹敵し、『ロープ』の制限を通常のモンタージュ技法に置き換えて鮮やかな手腕を見せています。それを支えているのはミランド、ドーソン、ウィリアムズの確かな演技力と存在感で、グレース・ケリーとロバート・カミングス(かつての『逃走迷路』'42では主役を勤めましたが)は別に他の俳優で代役がきく程度の役柄でしかありません。続く『裏窓』が大傑作、『泥棒成金』が余裕の快作になったのも別にケリーが名女優だったのではなく、ヒッチコックや他のキャスト、スタッフ皆がブロンド美人のケリーに良い所を見せようと張り切ったからでしょう。ただしヒッチコックのケリー三部作は他の女優だったらこれほど華のある出来にならなかっただろうし、バーグマンのようにすごい演技力で映画を支える以外の女優のあり方もある、とこの三部作を観ると渋々ながら認めずにはいられません。結局それはアイドル映画と大差ないわけですが、アイドル映画で最上ならば結果オーライなのでしょうか。ケリー三部作についてはケリーでも良かった、しかし3作きりでケリーが引退してヒッチコック作品出演打ち止めになって良かった、とも思わせるのが本作からの3作でもあります。グレース・ケリーなんか差しになっても会話が10分も持たないキャバ嬢みたいなもんじゃないか、とヒッチコックのケリー主演作を観るとつくづく感じ、『真昼の決闘』や『モカンボ』などでは普通に美人女優のまっとうな好演に見えるケリーだけに、ヒッチコックとケリーの相性は新鮮なうちだけで3作きりが限度だったと思えてなりません。