人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年2月15日・16日/小林正樹(1916-1996)監督作品(8)

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 小林正樹の監督作品が初めて国際的な映画祭で受賞したのがこの『人間の条件』'59-'61で、1962年の完結後にヴェネツィア国際映画祭の審査員特別賞に相当するサン・ジョルジオ賞・イタリア批評家賞を受賞しました。世界最大の映画産出国はアメリカ合衆国ですが、20世紀半ば以来の世界三大国際映画祭といえばヴェネツィア(イタリア)、カンヌ(フランス)、ベルリン(ドイツ)なので、映画や蓄音機の発明に伴って音楽や舞台劇の伝統が古く、またヨーロッパの先進国でもあったこの三国ではアメリカ映画の成熟に先んじて国際的に輸出入される映画の発展がありました。それは映画以外の文化にもおよんでいたのでジャズやロックなどでもアメリカ、および言語を同じくするイギリスを別とすれば映画のみならずロックなども独伊仏がヨーロッパの三大国になっているので、「北欧の方が盛んでは……」と言っても北欧諸国数国を合わせても独伊仏の一国にも質量ともにおよばないので、日本のようなローカルな地勢の国の映画が戦後『羅生門』'50を境に急激に注目を集めたのは画期的なことでした。ヴェネツィア国際映画祭では本作前後には『用心棒』'61が主演男優賞(三船敏郎)受賞、『赤ひげ』'65では主演男優賞(三船敏郎)受賞の上サン・ジョルジオ賞・イタリア産業賞・国際カトリック事務局賞を受賞、小林作品『上意討ち 拝領妻始末』'67が国際批評家連盟賞を受賞しています。サン・ジョルジオ賞自体が実施されていた'56年~'68年の13年間の間『ビルマの竪琴』'56(第1回)、『人間の条件』(第5回)、『赤ひげ』'65(第10回)と日本映画が3作受賞しているので、アメリカ3作(『終身刑』'62など)、イタリア3作(『挑戦』'58など)、フランス2作(『バルタザールどこへ行く』'66など)、あとはソヴィエトとハンガリーが1回ずつですから、ヴェネツィア国際映画祭での日本映画への注目は目立ちます。カトリックの総本山イタリアのヴェネツィアではベルリンのような社会性やカンヌのような美的感覚以上に死生観を問う倫理的感覚の鋭敏な作品が表彰される印象もあり、ドライヤーの晩年3作や溝口健二の'52年~'54年までの3年連続受賞なども宗教的審美眼からかなったようにも思われる面があります。
 もとい『人間の条件』のような映画だとドイツや戦時にドイツ占領下にあったフランスでは評価されづらい面が当時まだあり、同じ敗戦国で戦後復興国であるイタリアでは共感を持って観られたというのは興味深い現象ですし、また'60年代には黒澤明小林正樹が『用心棒』『人間の条件』『相手』『上意討ち 拝領妻始末』と交互に受賞しているのが注目されます。小林正樹の映画は『人間の条件』と『上意討ち 拝領妻始末』の間の『切腹』'62、『怪談』'65が二作連続カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞する、と'60年代には国際的に大きな脚光を浴びており、キネマ旬報ベストテンでも『切腹』が3位、『怪談』が2位、『上意討ち 拝領妻始末』が1位と『人間の条件』完結後の'60年代作品は一作ごとに評価を高めていたのですが、寡作になり、さらにフリーになってますます寡作に拍車がかかる具合で、『人間の条件』以降の大作指向は必ずしも作品の充実のみならず、初期作品『まごころ』や『この広い空のどこかに』で見せた市民劇で示した成果への方向性を大作の部分的要素にしか取り入れなくなった、さりげない小品佳作の企画をほとんど一切手がけない特殊な映画監督にしてしまった観もあり、黒澤明木下惠介らはほんの数歳年長者なのに青年期の戦時中にすでに監督デビューしていたためまだしもプログラム・ピクチャーと言える作品もあるのに、小林正樹の場合は中編の監督デビュー作『息子の青春』と木下惠介のチーフ助監督時代の最後に撮った初長編『まごころ』しかプログラム・ピクチャー時代なしに中年期の始めにようやく監督昇進したためとかく力作感、ともすれば考えすぎて流露感を欠いた作品を作る監督というのが一貫してついて回ったのが、手応えのある力作を毎作送り出すが渋くて重くて娯楽性に乏しい、その上に生真面目で社会派と後年になるにつれて観客層を限定していってしまうことにもなったきらいがあります。そうした印象で記念碑的大作『人間の条件』もあまり親しまれない古典になりつつあるのは何とも残念なことで、破格の規模で製作され戦地における敗戦状況を克明に描いた本作は歴史的証言の映画的再現として類を見ない作品であり、今なお強烈な訴求力がある堅固で雄弁な大作映画です。感想文で本作から受ける感銘をどれだけお伝えできるか心もとないばかりですが、今回の『完結篇』で『人間の条件』は一旦終わるとは言え、本作のテーマは以降の小林正樹の映画すべて(ドキュメンタリー『東京裁判』含む)に引き継がれていくことになるのです。

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●2月15日(金)・2月16日(土)
人間の條件・完結篇 第五部死の脱出、第六部曠野の彷徨』(文芸プロ=にんじんくらぶ=松竹'61)*90min, B/W+90min, B/W・昭和36年1月28日公開

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 この『第五部死の脱出、第六部曠野の彷徨』で『人間の条件』は完結しますが、『第一部、第二部』が主人公の梶(仲代達矢)が召兵されるまでのソ連国境近くの満州における民間中国人俘虜の強制労働をめぐる主人公と組織との闘いだったのに継いで『第三部、第四部』は主人公が体験する苛酷で不条理な初年兵訓練の第三部、二年兵に上がって初年兵訓練係に任命され今度は組織や古参兵と闘いながら自己の信念で人間的な初年兵訓練を貫こうとする主人公とソ連軍の戦車隊の侵攻によるあっけない部隊全滅までを描いた第四部と軍隊の腐敗した実状が第三部、第四部を通しての背景になり、『人間の条件』の戦争映画としての軍隊映画の部分は第三部、第四部にあります。完結篇に当たる『第五部、第六部』はすでに日本軍も敗戦した状況から始まりますし、第三部で描かれたのは初年兵時代の1年間、冒頭すでにドイツの敗戦の報が伝わる第四部では一等兵になった二年兵になってからの1年間の前半であり、そこで部隊は全滅し、主人公を含め生き残った3人の放浪と日本難民たちとの合流を描いた第五部、軍人たちだけで難民部落を出てさまざまな邂逅があり結果的にソ連軍の捕虜になり、ここでも陰惨な事件に直面しながら遂に主人公が脱走し、ひたすら妻の待つ南満州に向かって中国人村落を抜けてひとり曠野を歩いていき、その時の主人公のモノローグに「美千子(妻)、二年間も離ればなれになってしまったがもうすぐだ」とありますから、第五部、第六部は主人公が徴兵されて2年目後半の比較的短い時期(数か月)にドラマが凝縮されています。今回は一旦正月に観直して、感想文のために一部ずつを毎日観直しましたが、映画としては毎回が前後篇に構成された『第一部、第二部』『第三部、第四部』『第五部、第六部』の各3時間強の三部作として二部ずつに分かれているまとまりがあるので、第一部と第二部、第三部と第四部は舞台背景も物語もそれぞれ連続していますし、第五部と第六部は舞台は頻繁に移りますが主人公の生き延びるための敗走と結末の曠野への彷徨まで物語は一直線につながっています。合計9時間31分というと観る前からものおじしてしまいますが、クレジット・タイトルが出るのも三部作公開された通り第一部、第三部、第五部の三部作構成の冒頭部だけなので現行DVDで松竹がわざわざ六部・6巻に分けているのはかえって鑑賞を煩雑にしており、本来『人間の条件』は公開時通りの二部ずつの全3巻の三部作としてDVD化された方がすっきりします。配役クレジットもそれぞれの部を分けているのはがらりと登場人物たちが代わる『第三部・第四部』だけで、第一部・第二部、第五部・第六部ではキャストのクレジットを分けていません。観るだけならそれでもいいのですが感想文を書こうとすると配役クレジットがエピソード単位や物語順ではないので混乱してくる。当時の観客には顔なじみでも現在の観客にはクレジットで俳優を確かめなければどの俳優がどの役をやっているのかすぐわかる具合にはいかず、しかも描かれているのが極限状態なので普段他の現代映画で演じている役柄とも服装からして違い、軍人にいたってはみんな軍服ですし軍人役として極限的な状況での演技ですからなおのことです。原作小説があるといっても原作小説にキャスティングが書いてなどありませんから、本作にきちんと感想文を書くなら本当は映画を観直すだけでなく全編のシナリオを読んできちんとキャストを把握したシノプシスを立ててからにしたい。しかしそうしたものは刊行されていないので、なじみが薄い俳優も多くキャスティングを把握するのに不確かな状態で感想文を書くのは何とも心もとない。また『人間の条件』は登場人物が名前で呼びあう台詞や話題に人名が言及される会話が極端に少ないという特徴もあり、なおさら配役クレジットを見てすら誰がどういう役柄を勤めていたのか、映画は人名や役柄のクレジット抜きに観られてもシノプシスを起こす段になると各エピソードを担う人物を演じていた俳優を特定し難い、という困難が出てきます。映画『人間の条件』が観られている割にはあまり語られない、語られづらいのはそうした無名的な一大パノラマ的仕上がりにもあると思われ、映画の感想サイトなどでも比較的主要登場人物が限定されている『第一部・第二部』を対象にして『人間の条件』全編の感想を概括している例がほとんどで、『第三部・第四部』、『第五部・第六部』となるにつれてあまりに混みいったエピソードの累積からなるため細部まで言及しようとしてもしきれない、という映画自体の性格に由来するものと思われます。本作も公開時のキネマ旬報の紹介のあらすじを引いておきますが、このあらすじですらごっそり割愛されているエピソードやシークエンスも多く、実際の映画ははるかに紆余曲折を経て進んでいきます。引用後にそのあたりについては具体的に触れていくことにします。
[ スタッフ ] 監督 : 小林正樹 / 脚色 : 松山善三小林正樹・稲垣公一 / 原作 : 五味川純平 / 製作 : 若槻繁・小林正樹 / 撮影 : 宮島義勇 / 美術 : 平高主計 / 音楽 : 木下忠司 / 録音 : 西崎英雄 / 照明 : 青松明 / スチル : 梶原高男
[ 解説 ]「人間の条件」第五・第六部で、その完結篇。脚色者に稲垣公一が加わったほかは、いずれも前作と同様のスタッフ。
[ 配役 ] 仲代達矢 : 梶 / 新珠三千代 : 美千子 / 内藤武敏 : 丹下一等兵 / 諸角啓二郎 : 弘中伍長 / 川津祐介 : 寺田二等兵 / 高原駿雄 : 朝鮮へ行く兵長 / 清村耕次 : 匹田一等兵 / 広沢忠好 : 井出一等兵 / 岸田今日子 : 竜子 / 瞳麗子 : 梅子 / 上田吉二郎 : 石炭屋 / 石本倫子 : 妻 / 御橋公 : 老教師 / 南美江 : 妻 / 坊屋三郎 : 雑貨屋 / 中村美代子 : 妻 / 須賀不二男 : 永田大尉 / 陳東海 : 中国人老農夫 / 金子信雄 : 桐原伍長 / 平田守 : 福本上等兵 / 菊池勇一 : 氏家上等兵 / 菅井きん : 避難民中年の女 / 中村玉緒 : 避難民少女 / 真藤孝行 : 避難民少年 / 成瀬昌彦 : 朝鮮人 / 陶隆 : 小椋上等兵 / 石黒達也 : 洞窟隊長 / 垂水悟郎 : 北郷曹長 / 宇野重吉 : 避難民長老 / 高峰秀子 : 避難民中年の女 / 山内明 : 吉良上等兵 / 二本柳寛 : 捕虜隊長野毛少佐 / トニー・パークス : ソ連軍書記 / E・キーン : 輸送将校
[ あらすじ ] ソ連国境でソ連軍の攻撃を受けた梶の隊は、梶と弘中伍長と寺田二等兵を残して全滅した。三人はただ歩いた。やがて、川に出た。そこには避難民の老師教夫婦や、慰安婦の竜子と梅子、部隊から落伍した匹田一等兵たちがいた。彼らは梶の指揮に従って歩きはじめた。飢えから倒れていく者が多くなった。丘の麓に、永田大尉の率いる一個中隊が休息していた。女連れの梶たちをののしり、食糧すら与えなかった。しかし、かつて野戦病院で一緒だった丹下が隊にいて、乾麺包にありつくことができた。林のはずれに一軒の農家を見つけ、彼らは豚を煮て大休止をした。が、それも束の間、民兵が家を囲み、竜子は悲惨な殺され方をした。生き残った六人はやっと道路に出た。日本人の避難民が行き、赤軍のトラックが通る。倉庫のような建物に三十人ほどの避難民の女がいた。叔父の家から北湖頭の自分の家へ帰る姉弟と一緒になった。一緒に南満へ行こうと勧めたが、どうしても家へ帰るといい、匹田と桐原が送っていった。「あの娘は適当に扱ってやったよ」という桐原を、梶は怒って追い出した。平坦な地平線に開拓集落をみつけた。老人や女ばかりの避難民。日本兵はここにきては食糧を荒していき、女たちには黒パンをもってくるソ連兵の方がよかった。突如、ソ連兵が向ってきた。女の「やめて、ここで戦争をしないで」という叫び声に、梶は呆然として降伏した。梶はソ連陣地に連れられていった。収容所には桐原がいて、捕虜を管理していた。寺田が大豆を盗んだことが発覚して、桐原は寺田をなぐった。寺田は高熱に苦しんだ。梶は寺田のかわりに作業をサボって食糧をあさった。桐原はソ連将校に告口をし梶はサボタージュの罰として重労働を言いわたされた。森林軌道の撤去作業についた。収容所へ帰った梶は、寺田が桐原になぐり殺されたことを知った。その夜、梶は寺田の殺された便所の裏で桐原をなぐり殺した。梶は鉄条網を抜け出した。やがて、雪が降りだした。「美千子、僕は君のところへ帰るよ」とつぶやきながら梶は倒れた。その上に雪が降りしきった。
 ――本作の第五部は前作の結末でソ連軍の侵攻で舞台が全滅、主人公の梶(仲代達矢)と弘中伍長(諸角啓二郎)、寺田二等兵(川津祐介)が生き残り、地理に詳しい梶が率いて3人が生還を目指す放浪から始まります。伍長は他の部隊との合流を望んでおり、部下の梶に率いられて復帰するのは恥だと不承不承です。やがて梶らは石炭屋(上田吉二郎)や慰安婦の竜子(岸田今日子)と梅子(瞳麗子)ら十数人の避難民のグループと合流し、梅子が疲労死し、雑貨屋(坊屋三郎)が歩けなくなった妻(中村美代子)を縊死させるほど次々と飢えと疲労に苦しみ、洞窟で蝸牛を焼いて食い、脱落者を出しながらも放浪を続けますが、やがて朝鮮に向かう中隊に出会うもその兵長(高原駿雄)は梶ら3人を上官を含む部隊の全滅に生き残ってなぜ玉砕せんか、さては脱走兵だなと痛罵し、食糧を分けて欲しいという懇願も聞きません。梶は中隊に銃を向けて追い払い決別し、伍長にお前が戻りたがっている部隊はあんなもんだ、と吐き捨てます。かつて野戦病院入院中に親しくなった丹下一等兵(内藤武敏)が中隊から脱走してきて梶らに加わり、さらに満州部隊で現地人に横暴の沙汰をつくしてきたのを自慢する敗残兵の桐原伍長(金子信雄)らが加わります。寺田二等兵は主人公に以前に生き残るより名誉の戦死を選ぶと言い一蹴されたことを「あの時阿呆だと言われたのは本当にそうでした。僕は阿呆でした」と述懐します。一行はさらに落伍者を出しながら密林から脱出し、ようやく見つけた中国人の村落で豚を一頭殺ってありつくも、入りこんだ民家を中国人民兵に銃撃され放火されて竜子は逃げ遅れて焼死します。生き延びた一行はロシア兵からの民間人避難民の女性や(菅井きん)や十代の姉弟(中村玉緒、真藤孝行)と出会って保護しますが、両親のいる地区に戻りたいという姉弟の同行から戻ってきた桐原伍長とその部下らが弟を置き去りにし姉を強姦してきたと知った梶は怒りを爆発させ、銃剣を取り上げて桐原伍長らを追放するところで第五部は終わります。 第六部で梶らは残留軍隊の洞窟隊長(石黒達也)の部隊と出会い、ソ連軍に邂逅したらソ連軍に着くし中国軍に邂逅したら中国軍に着けばよい、という残留部隊の日和見主義を蹴って放浪を続けます。やがて一行は長老(笠智衆)が村長を勤める避難民の開拓村にたどり着き、女性たちは訪ねてくるロシア兵の慰安婦になって一応の平和を得ているという開拓村の実態を夫と生き別れてこの村に住む女(高峰秀子)から知った梶は女から誘惑を受けて一瞬、生き別れている妻・美千子(新珠三千代)の面影を見て動揺しますが退けます。翌朝寺田二等兵が女の誘惑で同衾したと知った梶は寺田に「あの女が初めてだろう、お前は若いから難民で通る。ここに残れ」と勧めますが、「あの女は梶さんに振られたから来たんです」と寺田は従いません。第五部以来敗残兵たちの隊長になっていた主人公はここで部隊は解散しよう、各自好きにすれば良いと宣言します。しかしついに村にソ連兵の討伐隊が着き、銃撃に応戦した梶たちは、走り出た村の女(高峰秀子)の「ここで戦争は止めて!」の叫び声に銃を捨て投降し、梶は軍服ではない寺田に「お前はそこに残れ!」と言いますが、寺田も投降する敗残兵の列に加わります。ソ連軍の捕虜収容所では日本人通訳の皆川(林孝一)が捕虜たちを見下し、捕虜でも野毛少佐(二本柳寛)のように要領よくソ連軍に取り入っている一派もおり、共産主義に理想を抱いていた主人公や丹下はかえってソ連軍の実態に希望を抱けなくなります。かつて中国人捕虜労働管理官だった主人公は尋問官の疑念をソ連軍の誤解だと返答したのを「ロシア人は愚かだ」と適当に意訳され(スーパーインポーズ)、激怒した尋問官からファシストの日本人め、と怒号されます。捕虜収容所で主人公は第五部の結末で避難民少女の強姦で追放していたため、先に捕虜になり捕虜の強制労働管理官になっていた桐原伍長に再会し、桐原伍長から「今度は俺が復讐する番だ」とほくそ笑まれます。桐原は日本人捕虜の強制労働にソ連兵の制止が入るほど暴虐を働きます。粗末な食事で飢える仲間のために梶と寺田は作業中抜け出してソ連兵の残飯を集めるようになりますが、それも作業のサボタージュとして懲罰の原因になります。梶は脱走しても飢え死にするだけの曠野のレール敷きの強制労働部署に移されます。寺田は病気になるも入院の空きはなく、何とか梶はソ連兵からアスピリンをもらって寺田に飲ませますが、翌日梶は寺田が熱が下がった際に残飯集めを桐原に見つかり、鞭打ちの懲罰の末に堆肥汲みの重労働を課して死に追いやったのを知ります。脱獄を決意した主人公は鎖を用意して桐原を堆肥の溝に殴り倒して殺し、鉄条網を分けて曠野へと脱走します。食糧も持たずひたすら歩いていく主人公は中国人村落を通り抜け、通りの饅頭屋の饅頭を手にしますが、饅頭屋(ヘンリー・バン)から殴り倒され中国人たちに袋叩きにあいます。梶はなおも曠野を進み、雪の降る曠野で妻の声を聞き、2年間も離れていてお前への土産はこの饅頭だけだ、とつぶやきます。倒れた主人公は5分だけ休ませてくれ、とつぶやき起きあがりますが、最後に数歩歩いて前のめりに倒れ、倒れたままもう動くこともできなくなった主人公を大ロングでとらえたショットを最後に、この長大な『人間の条件』は終わります。
 と、キネマ旬報のあらすじを補うように書いてきましたが、第六部はかつて民間人中国人捕虜の強制労働管理官だった主人公が逆にソ連軍尋問官から「お前が従事していたのは強制労働搾取ではないか」と問われるので、主人公が誤解だと言っても、それが今はソ連軍が正義だという側についた日本人通訳の悪意に近い誤訳で通訳されたとしても、侵略者のファシスト日本人呼ばわりされても仕方ないので、もともと社会主義者で理解者の同僚にすら「ヒューマニスト」と揶揄されるくらいだった主人公にとっては中国人捕虜の側に立った組織との闘いであったとしても言い逃れようもありません。主人公は中国人民兵ソ連兵を殺害するたびに深い後悔に襲われますが、日本軍の同胞の死にはほとんど心を動かされないので、第六部の最後にいたって「人殺しで強姦常習犯」の桐原を明確な私怨によって殺害しますが、第四部結末のソ連軍の戦車隊との戦闘で160名の部隊が自分を含めて3人しか生き残らず全滅した時もソ連軍の歩兵を射殺してしまった方に悔恨を抱いている。また第六部ではソ連兵をなるべく悪く描かないようにしているきらいがあり、桐原という人物は横暴なソ連兵を描けない代わりに役割が与えられている気配もあります。避難民村落をソ連兵が慰安婦施設代わりに使っているのも伝聞で済ませ「数多いソ連兵にはそういう兵士もいるだろう」という具合で、第六部の結末も饅頭を盗んで袋叩きにあったらこの敗戦状況ではそこで殺されてしまっても仕方ないのですが、原作も映画もまだ日本軍がその通りだったろう堕落と頽廃は批判的に描けても、時代的に中国やソ連の側を理想化して描かざるを得なかった観もあります。第一部・第二部に関して言えば戦争という立場を超えて「悪意ある中国人」を描くことはできず、第四部以降のソ連軍、中国人についてもそういった描き方はできなかった歴史的限界はあるでしょう。第一部・第二部でも民衆の理想を担うのは中国人捕虜たちですし、第六部では好意的なソ連軍将校が「いつかは君たちの国でも民主化が進むだろう」と主人公をいたわり、アスピリンを分けてくれます。日本人では主人公と主人公の理解者、また一部の虐げられた女性にしか同情は捧げられないので、避難民との敗走に日本軍戦死者同様に、脱落者は生存競争の敗者としか描かれない。それがこの映画ならではの非情さにもなっていますし、比較していいものか躊躇もありますがロッセリーニの『無防備都市』や『戦火のかなた』にも他人の死は他人の死でしかない非情さがある。本作の主人公・梶は最後の彷徨の最中に妻の声を聞きながら「お前のもとに帰るために、俺は何人殺してきたのだろう」とつぶやきますが、主人公の過失や無力で死ぬことなってしまった、殺されてしまった人物については「殺してきた」数に入っていないような印象を受けるのです。妻への執着はそれなりに理解できるのですがこの主人公ほどの目にあったら「生き残れるのならば妻とは会えなくてもよい」くらいに思うのではないか。第一部・第二部以降は妻の美千子は主人公が思い描く声だけしか出番がありませんし、主人公はおそらく別れてきた妻にはまったく理解できない経験と人格の人間になっている。そういった、視点人物である主人公の主観の中でドラマと観客が受ける印象がどうも一致しないもどかしさがついて回ります。本作はそういったことが瑕瑾と思われるほど完成度や些末な芸術性を越えて圧倒的な訴求力を持った作品ですが、良くも悪しくも規格外な巨大さを消化不消化込みで抱えこんでしまっているために日本映画の名作ベスト投票などには迂闊に上げられないような面が多分にある。大を取って小を捨てたとまでは言いませんが、巨大な戦争を巨大なまま一個人の視点から描き切った限界がさまざまな無理を生じさせており、その無理まで映画の中にねじ伏せた強引さが魅力でもあれば細かな破綻も免れ得なかったような印象も残ります。この三部作は三部作という通り三回は頭から観直さなければ玩味しきれない作品かもしれませんし、それだけの手応えを与えてくれる映画ですが、「戦で負けた国の女ほどみじめなものはないわ!」という台詞はあっても女性人物たちがことごとく受動的であり、受動的な、または受動的ではない女性からの視点が入る余地がない、男から見た女性像(しかも幅が狭い)点も物足りなく、戦争映画だからとは言えない面もあるように思えます。日本映画の中で本作の存在が風化しているとは言えませんが、観られてしかるべき層まで今日十分に届いていないと思われるのはそうした特徴が本作にあまりに佶屈な印象を与えてしまっているからではないかと惜しまれてなりません。