人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『夜ノアンパンマン』第三章

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 第三章。
 地獄と現実の地続きのような夢から目醒めると(アンパンマンはいつも現実的、または地獄の夢しかみません。かまどから生まれてきたからかもしれません)、しばらくしてアンパンマンは自分が乳頭になっているのに気づきました。それまではどこかからだの具合がおかしいな、しかしアンパンマンの場合は頭だって交換可能ですから、からだが変形することだってあるだろう、でなければからだに何か異常があって臨時に頭だけ別のからだに載せられているのかもしれない。どっちみちジャムおじさんが治してくれるだろう、とアンパンマンはもう少しうたた寝を決め込み、寝返りを打とうとしましたが、重心の移動がうまく行きません。アンパンマンは介護保健福祉士の資格を取得しているので(国際的には通用しませんが、それを言えば資格のほとんどがそうです)、寝たきりの病気やお年寄りのお世話をした経験もあり、リハビリテーションのお手伝いをしたこともありました。どうもぼくのからだは、今寝たきりの状態に近くなっているみたいだぞ、とアンパンマンは思いました。
 とにかく今、自分がどういう格好で寝たきりになっているか、とアンパンマンはからだのあちこちを部分的に力んでみて、どこを力んでも均等にしか力が入らず、どうも自分はうつ伏せでもあお向けでもない、ましてや横向きでもないのに気づいて事態がすでに尋常ではないのを知りました。それでもまだアンパンマンは、これは寝たきりだが、無意識な状態でのカタレプシーによるものではないか、と考えていました。カタレプシーとは、受動的にとらされた姿勢を保ち続け、自分の意思で変えようとしない状態をいいます。これは緊張病症候群の一つで、意欲障害に基づくものとされ、パーキンソン病てんかん統合失調症など、特定の神経障害または状態の症状であるとされています。アンパンマンジャムおじさんが寝ておれ、と命じればいつまでも寝ているでしょう。アンパンマン自身は単純なロボット的ヒューマノイドではありませんが、かえってアンパンマン自身の意思があるだけストレスが発生する可能性もあり、正義漢もつらいのです。
 それからアンパンマンは今、通常の視界はあり、音も聞こえ、声も出せるようなのに、どうやら自分には目も耳も口もないのに気づくのと、四肢すらもないのに気づくのがほぼ同時でした。あまりのことに、にわかにはとうてい信じられないことでした。


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 そこからただちに自分が一夜のうちに乳頭に変身した、とはさすがのアンパンマンにも思いつかず、四肢もない、目鼻も口もない、つまり頭がない(でも声は出せる、周囲も見えるし朝の空気の匂いもする)、というのは客観的には今、自分はどのような状態かを考えました。アンパンマンがまず案じたのは、これまで自分の生命維持は頭のすげ替えという新陳代謝によるもので、四肢もない、知覚のありかが頭ではなくいわばからだ全体で感知している様子から、おそらく頭と胴体は一体化しているものと思われました。アンパンマンはロールケーキを思い浮かべ、一応頭らしき一端と足先らしき一端はあるようだ、と寝たきりのままあちこちを力んでみて判断しました。うん、このへんが腰だから、その下がお尻のはずだ。
 もしお尻ならからだの前後の区別はあるわけです。また、お腹らしい場所はわかる。ではお尻を踏ん張って下肢(に相当する部分)を蹴り上げれば上体を起こせるはずですし、腹筋を締めれば上体が持ち上がるはずですが、お尻とかお腹というのも位置から見当がつくだけで、大臀筋も腹筋も反応がない。ひょっとしたら今、自分はうつぶせになっているかもしれない。だとしたら自分が見ているこの室内は、どうやって自分の知覚で観察しているのだろうか。だいたいアンパンマンは、自分の背中とお腹がどちら向きかもよくわからないのです。
 でも声は出せる。それはさっき、あーあと寝起きの声が出ましたから判明していました。ですがパン工場にいるのはジャムおじさんとバタコさんとめいけんチーズだけです。こんな風に起きたら寝たきりになっていた、という事態にどんな解決策があるでしょうか。あーこのアンパンマンは駄目だね、頭だけじゃなくて丸ごと、作り直そう。バタコや、こっちはゴミに出しといておくれ。
 ゴミにされてはたまりません。たぶんこれは一時的なものなんだ、寝ている間にばいきんまんにスマキにされたとか、そんな風な、とアンパンマンは割と現状に近い認識に至りました。ばいきんまんとは夜間は戦わない協定を結んでいるから、犯人がいるとしたらぼくが味方と思っている誰かだ、とアンパンマンはスマキ説から出直すことにしました。どうやらぼくはスマキにされてしまった。声を出すと犯人にばれる可能性がある。何とか動いて、確実な味方を見つけて拘束を解いてもらわなけりゃならない。そして乳頭はウズウズと動き出しました。


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●決断疲れ
 (判断疲れ、決定疲れ)とは、意思決定と心理学の分野において、意思決定を長時間くり返した後に個人の決定の質が低下する現象を指します。これは、現在では不合理な意思決定の原因の一つとして理解され、職務中の裁判官を例にとると、午前中より午後に好意的な判決が少なくなることが明らかになっています。決断疲れは、消費者に本来必要でない物を購入させるなど、粗末な選択をさせることにもつながるでしょう。選択肢のない人々はそれを望み、そのために戦うこともよくあるはずですが、多くの決断を下すことに(心理学でいう)嫌悪感を覚えうることにパラドックスがあるのです。
 両立しないものの間の妥協、いわゆるトレードオフは高度でエネルギー消耗の激しい意思決定です。精神的にすりきれた人はトレードオフに対して億劫になったり、大変粗末な選択を行います。決断疲れがどのように人をセールに弱くし、またセールの時間の設定にどのようにマーケティング戦略がデザインされるべきかも、決断疲れによって説明できるのです。
 また、経済的なトレードオフを常に迫られることで生じる決断疲れが人々を貧困層に押し留める大きな要因であるとする根拠として、もし経済状況が貧者にとても多くのトレードオフを迫るとすれば、貧者は他の活動に使う精神的エネルギーがほとんどなくなってしまいます。スーパーへの外出が、各商品により多くの心的トレードオフを要することから、もし富裕層より貧困層の決断疲れをより早めるとすれば、レジに至るまでに貧困層はチョコバーとフルーツキャンディに抵抗する意志力をほとんど失っていることになります。これらの商品は衝動買いと呼ばれるに違いありません。
 さらに、決断疲れにより決断を全くしない状態に陥ることがあり、これを決断忌避と呼びます。より多くの選択肢がある人の方が何も買わない決断に消極的で、少数から選んだ場合より多数から選んだ場合のほうが最終的な満足度は低いという統計分析があり、これは選択という行為が、つねに選択肢の中から大きな意思決定を行うことを求める限り、重荷になり、ついには反生産的にもなりうることを示唆しているでしょう。トレードオフと意思決定の感情的コストを回避するために使われる決断忌避の方法には、可能なら既定のもの、または現状維持を選ぶ、などがあります。
 その頃、乳頭となったアンパンマンはまさに上記の状態にありました。


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 まだある、とばいきんまんは読んでいきました。こうなると、性感というのも面倒くさいものだな。
 決断疲れはスーパーマーケットでの理不尽な衝動買いに大きく影響します。スーパーへの外出中に値段と特売に関するトレードオフの決断が決断疲れを生むのです。こうして買い物客がレジにたどりつく頃にはキャンディーやスナックを衝動買いしたい欲求を抑える意志力はなくなっているのです。甘いおやつがよくレジに備え付けられていますが、これは多くの買い物客がそこに至る前に決断疲れを起こしているのを見込んでいるのです。最近の研究では衝動買いと低いグルコース濃度に直接の関連があることが指摘し、また、グルコースを補給することで良い決断を下す能力が復活することを示しました。これは、なぜ(教育の程度によらず)貧しい買い物客が、外出中にたやすく買い食いするかを解明することになりました。
 決断疲れに陥る人は、自分の決断力を低く考える傾向がある、という調査結果もあります。同程度の労力を伴う作業でも、意志には限度があると考えている人ほど疲労しやすい一方で、一部の例では、意志の力を信じる人ほど骨の折れる作業の後でさえ、より優れた結果を出したと報告されています。
 選択の過程自体がエネルギーの浪費となり、それにより実行機能が他の活動を実行する能力を低くしている場合もあります。決断疲れが自己調整を損ねてしまうのはそのためです。一部の自己調整の失敗が、ほとんどの大きな個人的・社会的な問題の原因となっています。例えば借金、仕事や学業の不振、運動不足、女難などがそうでしょう。また、衝動に対する自己管理能力が決断疲れに直面して低下していくような実験で、決断疲れと自己消耗は相互関係があると判明しています。
 権力者が私生活での衝動を抑えきれず破滅的な失敗をまねく理由は、日々の意思決定の重荷に由来する決断疲れによるものだと考えられています。同様に、権力者は(意思決定の続く長い一日の後に)破滅的な深夜の遊びに身を投じる傾向がある、とも指摘されています。
 司法関係者の自己調整について、裁判官の下す判決は最後にとった休憩時刻から判決時刻までの長さに強く影響される、という調査結果もあります。裁判官のほとんどは、決断を行う時間帯ごとに好意的な判決の割合が約65%から徐々にゼロ近くにまで下落し、休憩後あっけなく65%近くに戻ることが判明したのです。


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 誰もが気づかないふりをしていますが、アンパンマンのIQ、または偏差値なりで測定できる知性は、どのような尺度でも地を払うようなものでした。もっとわかりやすく言えば、そこ抜けのバカということです。その責任は多大に(歴代)ジャムおじさんにあり、歴代ジャムおじさんは(たぶん)初代のアンパンマンからずっとおんなじあんパンを焼き続けてきました。そもそも頭部交換式という作り自体に問題があったのです。知性とは経験の蓄積にあり、知識の適切な摂取にあります。アンパンマンは正義と引き換えにそれらを犠牲にして生まれてきたのです。今もなお、アンパンマンはまだ自分が何に姿を変えているかに気づきませんでした。
 そこで君に訊こう、と理事長は言いました、君は乳と尻のどちらが好きかね?キヨシはためらいましたが、理事長の趣味を察して尻です、と答えました。ほう、そうか、君とは趣味が合うようだ、と理事長。では、なぜ尻が好きなのかね?キヨシは無難に受け流そうとしましたが、待った、理由などないだとかそこに尻があるからだ、などというのは答えにならんよ、と釘を刺されました。隣のガクトが見るに見かねて、これはスフィンクスの問いのようなものでござるな、朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足なのはなあに、つまり人は生まれた時は四つん這い、そして二足歩行になり、歳をとれば杖をつく……。いいから黙っていてくれないか、とキヨシは言いましたが、四つん這いから二足歩行、待てよ、と閃きました。それは四足歩行の類人猿時代、男が最初に見たのが女性の尻だったからです、とキヨシは理事長にかぶりつくように訴えました、それから人類は二足歩行になったので、替わりに女性の乳が尻に代わって発達した。でもそれは尻の代用でオリジナルじゃない、コピーよりオリジナルの方がいいのは当然です!とキヨシは絶叫しました、だから尻が!……気がつくと理事長はキヨシの肩に手を置いていました。もういい、君はグレートだ、尻の好きな男に悪い人間はいない。
 アンパンマンは自分のからだに正面と背中の区別がないことに気づいた時点で、これはスマキどころではないことに気づくべきでした。また、全身が性感帯と化していることきも鈍感すぎたと言うべきですが、乳首の存在理由は性感帯だけではないので、いくらアンパンマンでもペニスやクリトリスに変態していたら感覚の異常にはもっと早く気づいたと思われます。


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 腕や脚も使えない状態に慣れてきて、ようやくアンパンマンは重心の移動によってからだを少しずつ動かす要領をつかめてきました。ベッドといえども完全な平面ではなく、床面と平行ではないので、重心を移すにつれクッション部には均等ではない、傾斜した凹みができます。最初のうちアンパンマンのからだは左右に小さく揺れているだけでしたが、そのうち揺れも大きくなり、アンパンマンは左右に揺れるリズムを振り子をイメージしながらとらえることに集中しました。揺れ幅が最大の時に可能な限り弾みをつけて全体重の重心を移せば、ベッドの端まで転がることもでき、うまく転がり落ちることができるならばベッドの脇にすとん、と立てるかもしれない。横転したならしたで、ベッドよりは堅い木の床の方が転がるには容易でしょう。万が一、本来頭部だった方を下にして落ちてしまった場合ですが、頭部を認識できないのは自分が袋詰めのような状態でスマキになっている、と考えられます。幸か不幸か念入りな拘束のおかげで、直接頭部をぶつけたり、首を痛めたりする事態は避けられるだろう、とアンパンマンは踏んでいました。
 ハヒー、とんでもないことに鳴っているゾ、とばいきんまんは監視カメラ映像のモニターに釘づけになっていました。なになーに、とドキンちゃんが割り込んでくると、モニターを一瞥するやばいきんまんをぶっ飛ばしました。何ヒワイな物を見てんのよ!違うのだドキンちゃん、これはアンパンマンの部屋なのだ。
 アンパンマンもあんなもので遊ぶヘンタイだったわけね。いや、そうじゃなくて、あれがアンパンマンの現在の姿なのだ。えーっ?だってあれって……。そうなのだ、乳頭、平たく言えば乳首だが、どっちにしてもあまり変わらんな。とにかくあの巨大な乳頭はアンパンマンが変身したものなのだ。
 セミは幼虫から直接成虫に成長しますので不完全変態、一方蝶をはじめほとんどの昆虫は幼虫からサナギを経て成虫になりますので、これを完全変態と呼びます。しかしアンパンマンは虫ではなく、菓子パンから突然の巨大乳頭に変化するのは昆虫の成長と同日の談では語れないことなのも明らかです。アンパンマンばいきんまんは一種のギヴ・アンド・テイクの関係でした。ところがアンパンマンが一個の巨大な乳頭と化した現在(なぜ乳頭、という疑問は後のことでした)、ばいきんまんは何を指標にして悪事を働けばいいのでしょうか?


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 やれやれ、とジャムおじさんは言いました、これからは専用の巨大オーブンを用意しなければならないねえ。これだけの大きさの乳頭を焼くとなると、今までアンパンマンの顔を焼いてきたオーブンでは入りきらないよ。新しい顔を焼くだけでは駄目ということなんですよねえ、とバタコさん、じゃあどうやって新しいアンパンマンと入れ替えてあげたらいいんでしょうか?うむ、そもそも今やこれをアンパンマンと呼べるのかも疑問だが、とジャムおじさんアンパンマンの顔を投げるのは今までずっとバタコの役目だったしね。ばいきんまんの攻撃で使いものにならなくなったアンパンマンの様子を見たら、私の焼いた新しい乳頭をこれまで通り投げつければ良いのじゃないかね?そうすれば、古い乳頭から新しい乳頭がパワーを回復したアンパンマンになるに違いない……この乳頭をアンパンマンと呼べるとすればだが。
 そうジャムおじさんは言いながら、バタコさんやめいけんチーズと床に転がった人体大の乳頭を堪忍した様子で眺めました。チーズが不安そうにくくーん、と鳴きました。今朝のアンパンマンは遅いねえ、とジャムおじさんとバタコさんが首をひねっていた時、アンパンマンの部屋で何かがばたん、と倒れるような音を聴きつけたのがめいけんチーズで、チーズは何度も床に倒れる仕草をしてはアンパンマンの部屋を指してわわーん、と鳴いて異変を知らせたのです。バタコさんはパン生地をこねるための麺棒を持ったままチーズの先導でジャムおじさんアンパンマンの部屋に向かいましたが、ドアを開けたとたん床に転がった巨大な肉塊に、ぎゃッと麺棒を力まかせに投げつけました。痛ッ!と悲鳴を上げた肉塊に、ジャムおじさんは弾んで床に落ちた麺棒を手に取ると、バタコや、こうした方がいいよ、と棒を振り上げて何度も肉塊を打撲しました。苦痛の声が肉塊から上がり、どうやらこれはまったく無力のようだね、ところでアンパンマンは……そうジャムおじさんとバタコさんが顔を見合わせると、チーズがまだ苦痛に呻いている肉塊に近づいて、くくーん、と訴えかけました。チーズには犬の嗅覚と聴覚でわかるのです。チーズや、これがアンパンマンだというのかい?
 ぼくです、とアンパンマンはようやくのことで返答しました。不意打ちを食らってそれまでまともにしゃべれなかったのです。ぼくはどんな姿になってしまったのでしょうか?
 乳頭、それが答えでした。


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 アンパンマンはどっこいしょ、とジャムおじさんとバタコさんに抱えられ、鏡台の前までひきずっていかれました。アンパンマンがぼくです、と答えた声は、アンパンマンが自分で思っているようには普通の声に響かず、野生動物のうなり声のようでしかありませんでしたが、状況からしてこの物体がアンパンマンの替わりに出現している以上これがアンパンマンの変化した姿だ、と受け入れるだけの柔軟さはジャムおじさんたちにもありました。
 麺棒でぼこぼこにして外から鍵をかけ飢え死にするのを待つ、というのも手っ取り早い手段で、もっとグロテスクな、例えばゴキブリのような姿であればジャムおじさんたちですらそうしたかもしれず、むしろ積極的に殺虫剤を噴霧して閉じ込めたに違いありません。しかし実際にベッドから転げ落ちた痕跡があるこのかつてのアンパンマンと等身大のものは、あろうことか見事に勃起した乳頭そのものでした。脱力した状態ならばそれはもっと張りのないものだったかもしれません。ですがこの乳頭は散々の努力となんとか自力でベッドから転げ落ちた刺激に反応してすっかり硬く勃起しており、仮にこれがアンパンマンのなれの果てではなくてもジャムおじさんとバタコさんの興味をそそってやまないものでした。ただチーズだけが、めいけんの知覚でこれを変化したアンパンマンだと見抜いていたのです。
 いったいこれは、見たり聞いたりする能力をもっているのかね?とジャムおじさんはひとりごちました。もしこれがアンパンマンのなれの果てならば、どちらかの一端が頭、もう一端が足にあたるのだろう。チーズや、わかるかい?めいけんチーズの嗅覚は人の数万倍ですから、粘膜の密度が発する匂いからこの辺が顔です、と判別してジャムおじさんに教えました。なるほど。これでは、自分がどうなってしまったのかは当然わかるまいな。そしてバタコや、おいで、とバタコさんを引き寄せると、乱暴かつ手慣れた様子で乳首を露出させ、勃起するまでつまみ上げました。バタコさんの乳首は長く、指の第2関節くらいあるのです。見えるか?そして鏡台の前にアンパンマンを抱え上げ、どうだい同じだろう。アンパンマン、きみは乳頭になってしまったのだぞ、と宣告しました。
 アンパンマンはそこでようやく目覚めからの違和感の正体を知るとともに、乳頭になってしまったことの当惑よりも、乳頭として正義を貫く困難へと思いを馳せたのです。


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 アンパンマンは、まだジャムおじさんから乱暴に麺棒でめった打ちにされているうちにも、必死でぼくですジャムおじさん、どうしてそんなことをするんですか、ぼくはいったいどうなってしまっているんでしょうか、と訴えていましたが、まだジャムおじさんたちが来る前にひとり言を試して、どうやらしゃべるのは大丈夫みたいだぞ、と考えていたのは楽天的にすぎたことを思い知ることになりました。メタモルフォーゼというのはそんなお手柔らかなものではなく、しゃべられる、という機能さえもすでに乳頭の姿に変わってしまった異常感覚で認知しているのにすぎなかったのです。ジャムおじさんとバタコさんにとってそれは、得体の知れない人体大の乳頭が発するおぞましいうめき声でしかありませんでした。ただめいけんチーズの聴覚だけが、アンパンマンのかつての声紋がかすかに倍音の中に拡散しているのを聴きとるにとどまりました。もし犬がしゃべれたら!しかししゃべれる動物など(物真似ならともかく)誰がペットにするでしょうか。それではプライヴァシーの危機にしかなりません。
 しかしチーズの渾身のミミックでどうやらアンパンマンがベッドから落ちた、それが部屋の床に転がる巨大乳頭だというのが判明すると(なにしろチーズの知能は人間をしのぐものでしたから)、ジャムおじさんとバタコさんにもだんだんうめき声からアンパンマンの言おうとしていることが、逐語的にはわかりませんがニュアンスからは通じてくるような気がしました。それにアンパンマンが自分たちに黙って朝からいなくなっているのはよほどのことで、なるほど乳頭になっていては仕方ない、とかえって納得がいくようでした。
 ジャムおじさんはベッドに近づき、何やら考え深げでした。どうしたんです、とバタコさん。バタコや……いや、これは後でカレーパンマンしょくぱんまんにでも頼もう。何か思い当たることがあるんですか?うむ、チーズによるとアンパンマンはベッドに寝ていた、転がり落ちた、それがこの姿だという。だとすれば、アンパンマンはいつ乳頭になったのだろうか。ベッドから転落すると乳頭に変化してしまう現象がこの部屋では起きるのだろうか?
 違うんですジャムおじさん、目が醒めたら、とアンパンマンはうめきましたが、さすがにそんな細かい伝達まではチーズにすらも伝わったかどうか怪しく、ジャムおじさんたちもますます首をひねるばかりでした。


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 あー、しょくぱんまんさまぁ、とドキンちゃんがモニターにがぶり寄りしました。監視カメラはちょうどアンパンマンの部屋に入ってきたしょくぱんまんカレーパンマンの姿をとらえ、その顔を交互にパンニングしていました。ばいきんまんの科学技術は世界的に抜きん出たもので、監視カメラには人工知能が搭載してあり、この知能は自己学習能力もあって状況に応じた適切な被写体を選択し、アップもロングの構図も判断して臨機応変に撮影するのです。おなじみばいきんUFOのエネルギー消費ゼロの反重力飛行回路といい、ばいきんまんの科学技術をもってしてこの世に実現不可能なことなど数える方が難しかったでしょう。ですがばいきんまんはそれをばいきんまんにとっての「悪いこと」にしか使わない、という確固たるポリシーを持っていましたし、仮に宿敵アンパンマンを倒す手助けの見かえりに一部でも技術提供を、と申し入れがあったとしても、やなもんだい、べべべのべー、と門前払いにしたことでしょう。アンパンマンはおれさまがひとりで倒すもんねー。でも倒せないのはなぜでしょう?
 それでこの倒れているものは何ですか?としょくぱんまんは顔色ひとつ変えずに尋ねました。しょくぱんまんはクールではありませんが、スマートな色白なのです。カレーパンマンは同じことを訊こうとしていましたが、しょくぱんまんに先を越されてしまったのでしゃがみこんでそれに近づくと、指先でツンツン、と突ついてみました。ひッ、と変な声をもらしてその物体が転がったままのけぞったので、カレーパンマンは反射的に(さすがに必殺技のカレーパンチとカレーキックは自制しましたが)少量のカレービューをくらわせました。カレービューとは目くらましや牽制、威嚇に口からカレーを飛ばして相手に吹きかける攻撃です。
 本来軽い牽制にしかならないはずの攻撃ですが、効果はすさまじいものでした。それは床から飛び跳ねんばかりにのたうち、カレー汁まみれの半身をくねらせながら汁を飛び散らせ、何度も引きつったかのように痙攣するとあッ、あッと息を詰まらせ、横たわった紡錘形の細い方の先端から白く濁った汁をにじみ出しているのがわかりました。
 何なんですか、ジャムおじさん、とカレーパンマンは混乱して、問い詰めるような調子で尋ねました。ああ、あれは乳汁だろうな。第二次性徴期の始めによく起きることだよ。
 第二次性徴期?
 ……うむ。
 第三章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第四部・初出2015年8月~12月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)