『シマロン・キッド』The Cimarron Kid (ユニヴァーサル'52.Jan.13)*84min, Technicolor, Standard ; 日本公開昭和34年('59年)2月12日
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 実在した無法者シマロン・キッドの生涯に材をとる西部劇。ルイス・スティーヴンスとケイ・レナード共作の原作をレナードが自分で脚色、「平原の待伏せ」のバッド・ボーティカーが監督した。撮影は「幌馬車隊西へ!」のチャールズ・P・ボイル、音楽ジョセフ・ガーシェンソン。出演するのは「静かなアメリカ人」のオーディ・マーフィ。TV出身のビヴァリー・タイラー、新人イヴェット・デュゲイ、ノア・ビアリー・ジュニア、パルマー・リー、ランド・ブルックス等。製作テッド・リッチモンド。テクニカラー・スタンダードサイズ。1953年作品。
○あらすじ(同上) シマロン・キッドと呼ばれるビル・ドーリン(オーディ・マーフィ)は3年前、強盗団のドルトン(ノア・ビアリー・ジュニア)を友達のよしみでかくまい、入牢し、やっと仮出獄を許された。オクラホマへ帰る列車がドルトン強盗団に襲われた。ビルが強盗団を手引きしたと、鉄道公安官スワンソン(デヴィッド・ウォルフ)は、ビルの幼馴染みサットン警察署長(リーフ・エリクソン)に彼の逮捕を迫った。サットンは彼の無実を信じ、公平な尋問をする約束で出頭させた。スワンソンは、拷問にかけ、ドルトン一味の所在を白状させようとした。ビルはスキを見て逃げ、ドルトンの隠れ家に向かった。強盗団はコフィビルの銀行を襲撃する計画をたて、ビルも参加した。町民の反撃で、ドルトン3兄弟は死に、残りが昔の仲間の牧場主・パット(ロイ・ロバーツ)の家に集った。その娘キャリー(ビヴァリー・タイラー)は美しかった。首領がビルと決り、レッド(ヒュー・オブライエン)はビルに敵意を抱いた。ビルたちは牧場を去り、次々と列車や銀行を襲った。サットンの捜査網と、鉄道の探偵たちがビルの迫っていた。強盗たちは悪事に疲れ金をこさえて地道な生活に入りたいと思い始めた。最後の銀行襲撃が失敗し、そのドサクサにビルを射とうとしたレッドはかえり討ちにあった。山の隠れ家に、キャリーが訪ねてき、ビルに足を洗うように頼んだ。彼を愛し始めていたのだ。手下のダイナマイト(ジョン・ハドソン)が帰ってき、その義兄の鉄道輸送係の手引きで、列車輸送の金塊を強奪しようと持ちかけた。ビルは列車に乗りこみ、金塊を1つずつ落していった。が、待っていた仲間はスワンソンらに片はしから殺される。懸賞金ほしさの罠なのだ。レッドの情婦・シマロンのバラ(イヴェット・デュゲイ)の知らせで、ビルはダイナマイトを金塊と共につき落すと、パットの牧場に逃げ帰った。彼が眠っている間に、パットはサットンを呼び寄せた。彼と娘キャリーのためだと思ったからだ。サットンは公平に裁くと誓った。ビルはひかれていった。キャリーは彼の自由の日まで待つつもりだ。
――ベティカーを知る人にはよく言われることですが、一般的な西部劇のイメージよりもコテコテに西部劇らしい西部劇なのがベティカー西部劇で、物語が進むほど殺伐とした展開になるのがその常套手段です。のちの「ラナウン・サイクル」と呼ばれる7連作ではそれが極まっており、どれもランドルフ・スコットが主役ならば上映時間も70~80分とコンパクトなら、ストーリーの流れも大体同じです。まず平和な西部の情景に事件が勃発して始まり、訳あり美女(多くはオールドミスか人妻または未亡人)と出会い、いつの間にか悪党が一向に加わっており、そしてドロドロの死闘へと向かうのがベティカー作品の黄金パターンです。これでは何を観ても同じではないかと思いきや、意外と多彩かつ多種多様で作品ごとに見応えがあるのがこのマンネリ西部劇監督のあなどれないところで、「ラナウン・サイクル」7作を観てしまうと印象が重層化して実はとんでもない映画的実験の成功例なのではないか、という気になる。本作から遺作『今は死ぬ時だ』まで16本のベティカー映画を観直す予定ですが80分を超えるのは4本しかなく1本は80分ちょうどで90分台は1本のみ、11本は70分台であり遺作『今は死ぬ時だ』などは67分しかない。「ラナウン・サイクル」など78分、78分、77分、79分、73分、72分、73分とまるでかつてのピンク映画か日活ロマンポルノのようで、というよりアメリカのB級映画のシステムを真似たのはそれこそサイレント時代の日本映画からあるのですが、本作は西部劇第1作にまだ神妙な手つきが感じられ、先に述べたようなのち(と言ってもほんの数年後)のベティカーの大胆さはまだまだ片鱗程度です。それでも通常観客が感情移入すべきマーフィが演じる主人公通称シマロン・キッドのビリーは当初冤罪犯として現れますが映画が進むにつれ旧友兄弟の強盗団に大した躊躇や葛藤もなく加入するばかりか、実力行使してボスの座にのし上がる。主人公たちは追われて今はカタギになっている元無法者老人の牧場にかくまってもらいますが、主人公は改心するというより元無法者老人が主人公と娘の恋に気づいて主人公が裁判を受け更正するために娘ともども駆け落ち逃走と騙して保安官と自警団を待機させ主人公を堪忍させるので、主人公への共感や感情移入から生まれるストーリー展開へのサスペンスは稀薄というより話は冒頭の冤罪から通常考えられる冤罪の解決には向かわず、加入した旧友兄弟の強盗団内部でのぎすぎすした主導権争いに移るので、主人公に反感を抱く手下の一員の情婦のローズ(イヴェット・デュゲイ)と足を洗った元無法者老人牧場主の娘キャリー(ビヴァリー・タイラー)とWヒロインの対照もあまり効いておらず(この善悪Wヒロイン設定はのちの日活アクション映画にも多用されるクリシェです)、結局おとなしく逮捕される主人公はたまたま冤罪に怒ってエスカレートした根っからの無法者なのか、冤罪に怒って無法者の一味に身を投じた司法の犠牲者の善良な青年なのかはっきりしない。善良な青年にしては冤罪をかけられるきっかけ通り無法者の世界と元々つきあいが深すぎるし、冤罪に怒って強盗団に加入するや虎視眈々とボスの座を狙ってリーダーの座を奪うばかりか積極的に強盗稼業に精を出すので元々カタギの人間らしい人格とは思えないので、牧場主の娘との逃避行(実際は牧場主と娘によって保安官に引き渡すための罠ですが)も純愛というより逮捕の危機からの逃走が目的に見え、また保安官と自警団に包囲されて降参し、牧場主の娘「あなたのためなのよ」主人公「待っていてくれるかい?」娘「いつまでも待ってるわ」エンドシーンでは牽かれていく主人公を牧場主一家が見送りながら老牧場主の老妻(娘の母)が「私たちもあんなにきれいに出直しできていたなら……」と嗚咽して映画は終わりますが、あれ、これってそういう結論の映画なのかと大いに疑問が起こります。本作はまだ新人のロック・ハドソンが強盗団の手下の一人でのちのベティカー作品にも出演、また主人公マーフィを敵視する強盗団の古株役のヒュー・オブライエンはベティカー西部劇のレギュラー悪役になる具合に西部劇第1作でかなりの要素がそろい、西部の情景に事件が勃発~悪党一味との合流~訳あり美女との出会い~ドロドロの死闘(本作の場合内紛)、とのち「ラナウン・サイクル」第1作『七人の無頼漢』'56で確立されるベティカー黄金パターンの萌芽がそれなりに見られるのも同一監督の作品を系統的に観て浮かび上がってくるたのしみになっている。本作はまだまだおとなしくぎこちない作品ですが、翌月(ベティカーは'52年だけで4作の監督作があります)の『ロデオ・カントリー』では題材がベティカーの勝手知ったるロデオの世界だけにもっと娯楽映画として練れた作品が観られます。本作の生硬さが目立つ仕上がりは、のちにベティカー本流となる作風につながるだけに慎重な第1歩だったのかもしれません。
●5月17日(金)
『ロデオ・カントリー』Bronco Buster (ユニヴァーサル'52.Feb.?)*77min, Technicolor, Standard : 日本劇場未公開(テレビ放映・映像ソフト発売)
○(メーカー・インフォメーションより) 主演 : ジョン・ランド、スコット・ブラディ : (あらすじ)有名なロデオ騎手トム・ムーディ(ジョン・ランド)に弟子入りした新人のバート(スコット・ブラディ)。あっという間に賞金王を争うまでに上達し、スター気取りのバートだったが、ある大会でトムの年長の親友で婚約者ジュディ(ジョイス・ホールデン)の父、ピエロのダン(チル・ウィルス)に重傷を負わせてしまい……。
○内容(「キネマ旬報社」データベースより) 有名なマタドールに弟子入りし、若手闘牛士としてデビューした経験を持つバッド・ベティカー監督によるロデオ映画。若い見習いの指導を引き受けたベテランのロデオ騎手は、闘牛士への道を教授する。だが、遂には彼と対決することになり……。
――劇映画としては本作は最低限の主要人物しか出てこず、ランド演じるヴェテラン・ロデオ・チャンピオンの主人公はロデオ競技場近くのバーのオヤジのチル・ウィルスと昔からの親友で、ウィルスの娘役のジョイス・ホールデンとは婚約して長いのですが巡業生活が続いてヒロインは焦れている、という設定です。ランドのロデオ仲間にはドビー(ドン・ハガティ)やディック(ダン・プール)といったヴェテランのプロ・ロデオ騎手がいるのですが、巡業から帰ってくると新人ロデオ騎手のブロディが憧れのチャンピオンに弟子入りしたいと会いに来る。ブロディは子どもの頃からプロのロデオ・カウボーイになるため鍛えていて、低姿勢ですが自信満々で実際すぐプロ・デビューできる実力があり、チャンピオンのランドの弟子になったのは注目されてデビューしたい野望のためとすぐに見破られますが、実力は十分なのであとは場数だけとランドはブロディをデビューさせます。ブロディはランドが巡業から帰ってきて弟子入り志願する前にロデオ会場近くのバーのオヤジ兼ロデオ大会でピエロに扮して牛馬の世話係をするチル・ウィルスとその娘でバーの仕事を手伝っているジョイス・ホールデンと知りあいランドに紹介してもらうのですが、ホールデンをランドの婚約者と知らずすでに何度もデートしており、ランドに放っておかれているホールデンもブロディの誘いに乗っているのでブロディがランドとホールデンの婚約を知ったあとには、ロデオ大会で出世するほどブロディは強引にヒロインに迫るようになる。やがて新人スターになったブロディはランドの制止も聞かずブロディの経験や技量では無謀な難易度の高い競技にも出場するようになり、鞍をつけない暴れ裸馬に手を触れずどれだけ長時間振り落とされないかという最高難易度の競技のひとつに出て(ここで本物のプロ・ロデオ騎手たちのすごいパフォーマンスが続出します)、すぐ振り落とされて負傷したブロディは手当てを受けて再挑戦して成功し喝采を浴びますがランドはブロディの負傷は芝居で、わざとすぐ振り落とされて負傷したふりをして再挑戦して成功してアピールしたと見抜いて師弟の縁を切ります。ブロディのランドを追い落とそうという挑戦はヒロインへの誘惑ともども露骨になりますが、さらに暴れ牛を誘導し捕縛する最高難易度競技に出場したブロディは派手に見せようとランドの制止も聞かず牛を挑発しすぎて、ブロディに向かって暴走した牛はブロディが避けたため世話係のピエロのウィルスを突き飛ばし大怪我を負わせてしまう。ウィルスは救急搬送され、自分の番が来たランドはあっさり暴れ牛を誘導捕縛して、待機場に戻ると弁明しようとするブロディを「二度と俺に口を利くな!」と一撃で叩きのめします。意気消沈したブロディは病院へウィルスの見舞いに行き、父親ほども年長のウィルスから深い含蓄のこもった言葉をかけられます。さて、ニコラス・レイの映画ならここからクライマックスに向かって沈痛な悲劇的展開になるところですし、ジョン・フォードでも深い情感に持っていき、ラオール・ウォルシュなら急展開にドラマが収束していくでしょうが、本作のクライマックスへの展開と結末はハワード・ホークスを思わせるあっさりしたもので、これはRKO(レイ)やフォード(フォックス→RKO→ワーナー)、ウォルシュ(ワーナー)とは違うユニヴァーサルらしい結末とも言えます(ホークスもワーナーですが、製作はホークス自身のプロダクションで、ホークス映画はあっけらかんとした結末が特徴でした)。ユニヴァーサルは娯楽路線の会社で怪奇映画や冒険・SF映画も名物でしたが基本的にはハッピーエンドの映画を作る会社なので、本作のベティカーは会社の企画意図通りかベティカー自身の指向か、はたまた脚本由来かわかりませんが、同年10月公開のニコラス・レイのRKO作品の『不屈の男たち(死のロデオ)』と本作は脚本が小説家ホレス・マッコイ(ゴダールが『メイド・イン・USA』'68でオマージュを捧げたハードボイルド作家、代表作『彼らは廃馬を撃つ』'35は『ひとりぼっちの青春』'69の原作、『明日に別れの接吻を』'48も'50年に同名映画化)がどちらも共同脚本に加わっています(ベティカー作品は女性脚本家と共作、レイ作品は5人チーム)。レイ作品が必見の名作と言えるほど本作は際立った作品ではありませんが、題材がもろにかぶり脚本家が共通するだけに見事に対照的な映画になっているのは面白く、どちらか一方をご覧になったら『ロデオ・カントリー』と『不屈の男たち(死のロデオ)』は2本あわせてみてますますニコラス・レイの被虐的な繊細さ、ベティカーの丁寧な豪放さが楽しめます。丁寧な豪放さ、というのも変ですが、さすが元闘牛士、ロデオ競技場面の克明な描写がドラマはシンプルな本作を十分豊かなものにしています。