人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年5月16日・17日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(1)

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 映画界入り以前に異色の経歴を持つ俳優は多いですが監督となると俳優ほどではないとはいえ、アメリカの戦後監督バッド・ベティカー(1916-2001)は大学卒ながらメキシコでプロの闘牛士をしていたという人で、ルイス・マイルストン監督の『二十日鼠と人間』'39年で馬の世話係を勤めたのをきっかけにリタ・ヘイワースタイロン・パワーリンダ・ダーネル主演の20世紀フォックスの闘牛メロドラマ『血と砂』'41(監督=ルーベン・マムーリアン)の技術顧問で本格的に映画界入りして映画人になり、MGMの『カヴァーガール』'44ほか数本のメジャー作品で助監督を勤めるかたわらコロンビアのノンクレジットの中編戦争映画『Submarine Raider』'42とやはりコロンビアの中編戦争映画『U-Boat Prisoner』'44が後者はルー・ランダース監督とクレジットされるも実際はベティカーの監督作品と推定されており、正式にクレジットのある監督デビュー作は『ミステリアスな一夜』'44で、コロンビアでは『消えた陪審員』'45、『Youth on Trial』'45、『A Guy, a Gal and a Pal』'45、『霧の中の逃走』'45と5作のフィルム・ノワールB級映画を監督します。'46年には兵役に就いて映画班でドキュメンタリー映画を数本撮り、除隊後はコロンビアを離れインディー映画社のイーグル・ライオン社で『Assigned to Danger』'48と『閉ざされた扉の陰』'49を監督、次にやはりインディー映画社のモノグラム社でロディー・マクドウォール主演の『Black Midnight』'49と『Killer Shark』'50に『The Wolf Hunters』'49の同社の怪奇映画路線の作品を作りましたが(ここまで邦題表記した作品は日本劇場未公開ながら日本盤映像ソフト発売されています)、ベティカー最初の重要作となったのはジョン・ウェインのバトジャック・プロダクションに招かれて監督したベティカー自身が原案の『美女と闘牛士』'51(日本公開翌年)とされ、翌年メジャーのユニヴァーサル映画社の専属になって監督したユニヴァーサルでの第1作『シマロン・キッド』'52から'60年の『暗黒街の帝王 レッグス・ダイヤモンド』がベティカーが映画界で第一線に立っていた時期であり、'60年以降ベティカーはモノグラム~バトジャック時代から関わっていたテレビ界に移ってしまいます。'60年代末にインディー映画社でテレビ界のスタッフによりテレビ規模で撮った70分弱の小品『今は死ぬ時だ(A Time for Dying)』 (FIPCO'69)がベティカーの遺作となり、以降ベティカーは数作の原案、カメオ出演以外はほぼ引退状態のまま晩年の30年間を送りましたが、クリント・イーストウッドマーティン・スコセッシらの呼びかけによって再評価の声が高まり、ニコラス・レイサミュエル・フラーと並ぶ'50年代アメリカの最重要監督と目されつつあります。しかしベティカーの場合は'50年代作品のほとんどが西部劇ということもあり西部劇自体が今日の観客にはあまり親しみの持てないジャンルで、しかもベティカー作品の傑作佳作は西部劇に集中しており、プログラム・ピクチャーとインディー映画に足をかけながら多彩なジャンルに名作のあるレイやフラーよりあまり顧みられないのもその辺に大きな原因がある。またかつて日本公開されたベティカー作品は当時の日本の批評家からは非常に評判が悪く、戦前からの映画界のご意見番である双葉十三郎氏にはベティカーの映画は「"心"がない」と切り捨てられている。しかしそのあたりもむしろ今観るとベティカーの映画がどう見えるか問われるところなので、西部劇第1作にして低予算製作の映画ながら興行収入125万ドルのなかなかのヒット作になった『シマロン・キッド』から遺作『今は死ぬ時だ』までDVDで観られる作品16作をまとめて順に観直してみることにしました。「ラナウン・サイクル(Ranown Cycle)」と呼ばれ西部劇の金字塔と一部のマニアには名高い『七人の無頼漢(Seven Men from Now)』'56から始まるランドルフ・スコット主演の7連作(~'60年)まで先は長いですが、この映画日記ではヘンリー・ハサウェイ監督&ランドルフ・スコット主演の「ゼイン・グレイ連作」'32-'34(全8作)も以前ご紹介しているので、西部劇どんと来いの覚悟で観直していこうと思います。

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●5月16日(木)
『シマロン・キッド』The Cimarron Kid (ユニヴァーサル'52.Jan.13)*84min, Technicolor, Standard ; 日本公開昭和34年('59年)2月12日

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 ベティカーの映画に長々しい前置きは不要と思いますが、それでもベティカーの記念すべき西部劇第1作である本作はオーディ・マーフィ(1924-1971)主演であることでも記憶される運命的作品なのは特記しておきましょう。第二次世界大戦では個人で最多の勲章を授勲された国民的英雄だったマーフィは戦後映画俳優・カントリー・ミュージック作曲家となり、出演映画はジョン・ヒューストンの傑作『勇者の赤いバッヂ』'51を筆頭に航空機事故で亡くなるまで45作あまりにおよびます。第一線を退いて10年近く経ったベティカーに遺作『今は死ぬ時だ』'69を作らせたプロデューサーでもあり、ノー・スター映画の同作ではマーフィはカメオ出演ながらジェシー・ジェームス役で出演もしています。ベティカー西部劇はマーフィで始まりマーフィで終わったとも言えるので、その意味でも本作はベティカー作品を一巡してなお興味を持って観られる映画です。ただしベティカー西部劇はアメリカ公開からだいぶ遅れて'58年(昭和33年)に旧作あつかいで日本公開されたので、日本においても最初からB級映画と目されていたと思われる。'50年代末新作映画はワイドスクリーンが常識化していたので、カラーでこそあれスタンダードサイズの本作はそれだけで数年遅れ(実際数年遅れでしたが)に見えたでしょう。ベティカー作品は日本劇場公開作と未公開作が半々なので、本作のように日本公開されたものは貴重な文献として初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 実在した無法者シマロン・キッドの生涯に材をとる西部劇。ルイス・スティーヴンスとケイ・レナード共作の原作をレナードが自分で脚色、「平原の待伏せ」のバッド・ボーティカーが監督した。撮影は「幌馬車隊西へ!」のチャールズ・P・ボイル、音楽ジョセフ・ガーシェンソン。出演するのは「静かなアメリカ人」のオーディ・マーフィ。TV出身のビヴァリー・タイラー、新人イヴェット・デュゲイ、ノア・ビアリー・ジュニア、パルマー・リー、ランド・ブルックス等。製作テッド・リッチモンドテクニカラー・スタンダードサイズ。1953年作品。
○あらすじ(同上) シマロン・キッドと呼ばれるビル・ドーリン(オーディ・マーフィ)は3年前、強盗団のドルトン(ノア・ビアリー・ジュニア)を友達のよしみでかくまい、入牢し、やっと仮出獄を許された。オクラホマへ帰る列車がドルトン強盗団に襲われた。ビルが強盗団を手引きしたと、鉄道公安官スワンソン(デヴィッド・ウォルフ)は、ビルの幼馴染みサットン警察署長(リーフ・エリクソン)に彼の逮捕を迫った。サットンは彼の無実を信じ、公平な尋問をする約束で出頭させた。スワンソンは、拷問にかけ、ドルトン一味の所在を白状させようとした。ビルはスキを見て逃げ、ドルトンの隠れ家に向かった。強盗団はコフィビルの銀行を襲撃する計画をたて、ビルも参加した。町民の反撃で、ドルトン3兄弟は死に、残りが昔の仲間の牧場主・パット(ロイ・ロバーツ)の家に集った。その娘キャリー(ビヴァリー・タイラー)は美しかった。首領がビルと決り、レッド(ヒュー・オブライエン)はビルに敵意を抱いた。ビルたちは牧場を去り、次々と列車や銀行を襲った。サットンの捜査網と、鉄道の探偵たちがビルの迫っていた。強盗たちは悪事に疲れ金をこさえて地道な生活に入りたいと思い始めた。最後の銀行襲撃が失敗し、そのドサクサにビルを射とうとしたレッドはかえり討ちにあった。山の隠れ家に、キャリーが訪ねてき、ビルに足を洗うように頼んだ。彼を愛し始めていたのだ。手下のダイナマイト(ジョン・ハドソン)が帰ってき、その義兄の鉄道輸送係の手引きで、列車輸送の金塊を強奪しようと持ちかけた。ビルは列車に乗りこみ、金塊を1つずつ落していった。が、待っていた仲間はスワンソンらに片はしから殺される。懸賞金ほしさの罠なのだ。レッドの情婦・シマロンのバラ(イヴェット・デュゲイ)の知らせで、ビルはダイナマイトを金塊と共につき落すと、パットの牧場に逃げ帰った。彼が眠っている間に、パットはサットンを呼び寄せた。彼と娘キャリーのためだと思ったからだ。サットンは公平に裁くと誓った。ビルはひかれていった。キャリーは彼の自由の日まで待つつもりだ。
 ――ベティカーを知る人にはよく言われることですが、一般的な西部劇のイメージよりもコテコテに西部劇らしい西部劇なのがベティカー西部劇で、物語が進むほど殺伐とした展開になるのがその常套手段です。のちの「ラナウン・サイクル」と呼ばれる7連作ではそれが極まっており、どれもランドルフ・スコットが主役ならば上映時間も70~80分とコンパクトなら、ストーリーの流れも大体同じです。まず平和な西部の情景に事件が勃発して始まり、訳あり美女(多くはオールドミスか人妻または未亡人)と出会い、いつの間にか悪党が一向に加わっており、そしてドロドロの死闘へと向かうのがベティカー作品の黄金パターンです。これでは何を観ても同じではないかと思いきや、意外と多彩かつ多種多様で作品ごとに見応えがあるのがこのマンネリ西部劇監督のあなどれないところで、「ラナウン・サイクル」7作を観てしまうと印象が重層化して実はとんでもない映画的実験の成功例なのではないか、という気になる。本作から遺作『今は死ぬ時だ』まで16本のベティカー映画を観直す予定ですが80分を超えるのは4本しかなく1本は80分ちょうどで90分台は1本のみ、11本は70分台であり遺作『今は死ぬ時だ』などは67分しかない。「ラナウン・サイクル」など78分、78分、77分、79分、73分、72分、73分とまるでかつてのピンク映画か日活ロマンポルノのようで、というよりアメリカのB級映画のシステムを真似たのはそれこそサイレント時代の日本映画からあるのですが、本作は西部劇第1作にまだ神妙な手つきが感じられ、先に述べたようなのち(と言ってもほんの数年後)のベティカーの大胆さはまだまだ片鱗程度です。それでも通常観客が感情移入すべきマーフィが演じる主人公通称シマロン・キッドのビリーは当初冤罪犯として現れますが映画が進むにつれ旧友兄弟の強盗団に大した躊躇や葛藤もなく加入するばかりか、実力行使してボスの座にのし上がる。主人公たちは追われて今はカタギになっている元無法者老人の牧場にかくまってもらいますが、主人公は改心するというより元無法者老人が主人公と娘の恋に気づいて主人公が裁判を受け更正するために娘ともども駆け落ち逃走と騙して保安官と自警団を待機させ主人公を堪忍させるので、主人公への共感や感情移入から生まれるストーリー展開へのサスペンスは稀薄というより話は冒頭の冤罪から通常考えられる冤罪の解決には向かわず、加入した旧友兄弟の強盗団内部でのぎすぎすした主導権争いに移るので、主人公に反感を抱く手下の一員の情婦のローズ(イヴェット・デュゲイ)と足を洗った元無法者老人牧場主の娘キャリー(ビヴァリー・タイラー)とWヒロインの対照もあまり効いておらず(この善悪Wヒロイン設定はのちの日活アクション映画にも多用されるクリシェです)、結局おとなしく逮捕される主人公はたまたま冤罪に怒ってエスカレートした根っからの無法者なのか、冤罪に怒って無法者の一味に身を投じた司法の犠牲者の善良な青年なのかはっきりしない。善良な青年にしては冤罪をかけられるきっかけ通り無法者の世界と元々つきあいが深すぎるし、冤罪に怒って強盗団に加入するや虎視眈々とボスの座を狙ってリーダーの座を奪うばかりか積極的に強盗稼業に精を出すので元々カタギの人間らしい人格とは思えないので、牧場主の娘との逃避行(実際は牧場主と娘によって保安官に引き渡すための罠ですが)も純愛というより逮捕の危機からの逃走が目的に見え、また保安官と自警団に包囲されて降参し、牧場主の娘「あなたのためなのよ」主人公「待っていてくれるかい?」娘「いつまでも待ってるわ」エンドシーンでは牽かれていく主人公を牧場主一家が見送りながら老牧場主の老妻(娘の母)が「私たちもあんなにきれいに出直しできていたなら……」と嗚咽して映画は終わりますが、あれ、これってそういう結論の映画なのかと大いに疑問が起こります。本作はまだ新人のロック・ハドソンが強盗団の手下の一人でのちのベティカー作品にも出演、また主人公マーフィを敵視する強盗団の古株役のヒュー・オブライエンはベティカー西部劇のレギュラー悪役になる具合に西部劇第1作でかなりの要素がそろい、西部の情景に事件が勃発~悪党一味との合流~訳あり美女との出会い~ドロドロの死闘(本作の場合内紛)、とのち「ラナウン・サイクル」第1作『七人の無頼漢』'56で確立されるベティカー黄金パターンの萌芽がそれなりに見られるのも同一監督の作品を系統的に観て浮かび上がってくるたのしみになっている。本作はまだまだおとなしくぎこちない作品ですが、翌月(ベティカーは'52年だけで4作の監督作があります)の『ロデオ・カントリー』では題材がベティカーの勝手知ったるロデオの世界だけにもっと娯楽映画として練れた作品が観られます。本作の生硬さが目立つ仕上がりは、のちにベティカー本流となる作風につながるだけに慎重な第1歩だったのかもしれません。

●5月17日(金)
『ロデオ・カントリー』Bronco Buster (ユニヴァーサル'52.Feb.?)*77min, Technicolor, Standard : 日本劇場未公開(テレビ放映・映像ソフト発売)

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 ユニヴァーサル以前のベティカーは(全部は観ていませんが)フィルム・ノワールと怪奇映画のB級映画監督であり、唯一ユニヴァーサル入り前年にジョン・ウェインのバトジャック・プロダクションで作った『美女と闘牛士』が闘牛士経験のあるベティカー自身が原案の唯一の闘牛映画になるようですが、同作はセミドキュメンタリー調のメキシコ・ロケ作品なので闘牛映画・スポーツロマンス映画ではあっても西部劇とは見なされません。本作『ロデオ・カントリー』はドラマ部分は中西部ネブラスカ州オハマで、ロデオ場面はアリゾナ州フェニックスでロケーションされているため時代は現代('52年当時)ですが闘牛西部劇とされるので、勝手知ったる牛馬の世界とあって前作の『シマロン・キッド』より各段に練れた映画です。現在は知りませんがロデオは本作当時プロ・スポーツ競技だったこと、馬の柵飛びどころか暴れ牛と格闘して捕縛する技までロデオ競技の種類にあるのは本作の見もので、ロデオ競技の賞金で生計を立てているプロまで存在する世界ですから競技の多彩さたるやこれをスポーツとして喜ぶアメリカ人とその文化には驚嘆を通りこして唖然とさせるところがあり、20世紀中葉といえばまだ祖父母の世代には南北戦争の体験者がいてもおかしくなく、最西端のカリフォルニア州あたりはまだ開拓・植民されて半世紀ちょっとです。東部や南部のアメリカ人は家族と牛馬を連れて西部を開拓したので、牛馬の乗りこなし・捕獲・調教術がプロ・スポーツ化したのはそういう下地のある文化だったからです。本作と同年のニコラス・レイ監督作『不屈の男たち(死のロデオ、ラスティ・メン)』もロバート・ミッチャム主演のハードボイルドなロデオ映画でしたが、レイ作品では曲乗りや高跳びは出てきてもロデオ=乗馬のイメージでしたが、本作のロデオはアメリカ版の闘牛(&馬)そのものです。競技自体は架空ではないでしょうからレイ作品とベティカー作品では地域によるロデオ競技の違いがあると思われ、レイ作品では乗馬の延長にある東部に近く、ベティカー作品では闘牛に由来した南部・西部に近いのではないかと思われるので、ちょっと文献だけ調べてもレイ作品の舞台がわからなかったので(一応ジャンルは現代西部劇とされています)、またレイ作品を観直す楽しみにもなります。出来は率直に言って『不屈の男たち(死のロデオ)』圧勝で、ロバート・ミッチャムスーザン・ヘイワード主演でニコラス・レイ監督なら何を撮っても名作にならないわけはありませんし、それに較べて本作のキャスティングはビリー・ワイルダーの『異国の出来事』'48のジョン・ランド、ニコラス・レイの『大砂塵』'54の敵役を勤めたスコット・ブラディ、本作以外には数作のヒロイン作がないジョイスホールデンと華がなく、ヒロインの父親で主人公の年長の親友役のチル・ウィルスがのちのベティカー作品の佳作『平原の待伏せ』'53で重要な助演を勤めたほかジョージ・スティーヴンスの『ジャイアンツ』'56、ジョン・ウェイン監督作『アラモ』'60、スタンリー・キューブリックの『スパルタカス』'60と助演俳優として重用されていますが、このメイン・キャストで観たくなる種類の作品でもないでしょう。ただし本作はほとんどぎりぎりまでスタントなしに主役のランドとブラディがロデオをこなしているのが実際の乗馬、落馬、投げ縄、補牛、捕縛、闘牛などサーカスの曲芸並みの競技内容全般に渡ってくり広げられるので、ドラマ自体は明快な実力派ヴェテラン・ロデオチャンピオンと野心的な新人ロデオスターのロデオと恋の二重のさやあてとシンプルかつ狙いのはっきりしたものながら、荒唐無稽なまでのロデオ競技の実技描写によってアクション映画としての面白さで見所満載の作品になっている。日本未公開でテレビ放映(「ロデオ・カントリー」はテレビ放映題に由来するようです)、映像ソフト発売のみなのは特殊な題材やキャストの知名度の低さからも仕方ないと思われますが、一応映像ソフト発売時のプレスを引いておきましょう。
○(メーカー・インフォメーションより) 主演 : ジョン・ランド、スコット・ブラディ : (あらすじ)有名なロデオ騎手トム・ムーディ(ジョン・ランド)に弟子入りした新人のバート(スコット・ブラディ)。あっという間に賞金王を争うまでに上達し、スター気取りのバートだったが、ある大会でトムの年長の親友で婚約者ジュディ(ジョイスホールデン)の父、ピエロのダン(チル・ウィルス)に重傷を負わせてしまい……。
○内容(「キネマ旬報社」データベースより) 有名なマタドールに弟子入りし、若手闘牛士としてデビューした経験を持つバッド・ベティカー監督によるロデオ映画。若い見習いの指導を引き受けたベテランのロデオ騎手は、闘牛士への道を教授する。だが、遂には彼と対決することになり……。
 ――劇映画としては本作は最低限の主要人物しか出てこず、ランド演じるヴェテラン・ロデオ・チャンピオンの主人公はロデオ競技場近くのバーのオヤジのチル・ウィルスと昔からの親友で、ウィルスの娘役のジョイスホールデンとは婚約して長いのですが巡業生活が続いてヒロインは焦れている、という設定です。ランドのロデオ仲間にはドビー(ドン・ハガティ)やディック(ダン・プール)といったヴェテランのプロ・ロデオ騎手がいるのですが、巡業から帰ってくると新人ロデオ騎手のブロディが憧れのチャンピオンに弟子入りしたいと会いに来る。ブロディは子どもの頃からプロのロデオ・カウボーイになるため鍛えていて、低姿勢ですが自信満々で実際すぐプロ・デビューできる実力があり、チャンピオンのランドの弟子になったのは注目されてデビューしたい野望のためとすぐに見破られますが、実力は十分なのであとは場数だけとランドはブロディをデビューさせます。ブロディはランドが巡業から帰ってきて弟子入り志願する前にロデオ会場近くのバーのオヤジ兼ロデオ大会でピエロに扮して牛馬の世話係をするチル・ウィルスとその娘でバーの仕事を手伝っているジョイスホールデンと知りあいランドに紹介してもらうのですが、ホールデンをランドの婚約者と知らずすでに何度もデートしており、ランドに放っておかれているホールデンもブロディの誘いに乗っているのでブロディがランドとホールデンの婚約を知ったあとには、ロデオ大会で出世するほどブロディは強引にヒロインに迫るようになる。やがて新人スターになったブロディはランドの制止も聞かずブロディの経験や技量では無謀な難易度の高い競技にも出場するようになり、鞍をつけない暴れ裸馬に手を触れずどれだけ長時間振り落とされないかという最高難易度の競技のひとつに出て(ここで本物のプロ・ロデオ騎手たちのすごいパフォーマンスが続出します)、すぐ振り落とされて負傷したブロディは手当てを受けて再挑戦して成功し喝采を浴びますがランドはブロディの負傷は芝居で、わざとすぐ振り落とされて負傷したふりをして再挑戦して成功してアピールしたと見抜いて師弟の縁を切ります。ブロディのランドを追い落とそうという挑戦はヒロインへの誘惑ともども露骨になりますが、さらに暴れ牛を誘導し捕縛する最高難易度競技に出場したブロディは派手に見せようとランドの制止も聞かず牛を挑発しすぎて、ブロディに向かって暴走した牛はブロディが避けたため世話係のピエロのウィルスを突き飛ばし大怪我を負わせてしまう。ウィルスは救急搬送され、自分の番が来たランドはあっさり暴れ牛を誘導捕縛して、待機場に戻ると弁明しようとするブロディを「二度と俺に口を利くな!」と一撃で叩きのめします。意気消沈したブロディは病院へウィルスの見舞いに行き、父親ほども年長のウィルスから深い含蓄のこもった言葉をかけられます。さて、ニコラス・レイの映画ならここからクライマックスに向かって沈痛な悲劇的展開になるところですし、ジョン・フォードでも深い情感に持っていき、ラオール・ウォルシュなら急展開にドラマが収束していくでしょうが、本作のクライマックスへの展開と結末はハワード・ホークスを思わせるあっさりしたもので、これはRKO(レイ)やフォード(フォックス→RKO→ワーナー)、ウォルシュ(ワーナー)とは違うユニヴァーサルらしい結末とも言えます(ホークスもワーナーですが、製作はホークス自身のプロダクションで、ホークス映画はあっけらかんとした結末が特徴でした)。ユニヴァーサルは娯楽路線の会社で怪奇映画や冒険・SF映画も名物でしたが基本的にはハッピーエンドの映画を作る会社なので、本作のベティカーは会社の企画意図通りかベティカー自身の指向か、はたまた脚本由来かわかりませんが、同年10月公開のニコラス・レイRKO作品の『不屈の男たち(死のロデオ)』と本作は脚本が小説家ホレス・マッコイ(ゴダールが『メイド・イン・USA』'68でオマージュを捧げたハードボイルド作家、代表作『彼らは廃馬を撃つ』'35は『ひとりぼっちの青春』'69の原作、『明日に別れの接吻を』'48も'50年に同名映画化)がどちらも共同脚本に加わっています(ベティカー作品は女性脚本家と共作、レイ作品は5人チーム)。レイ作品が必見の名作と言えるほど本作は際立った作品ではありませんが、題材がもろにかぶり脚本家が共通するだけに見事に対照的な映画になっているのは面白く、どちらか一方をご覧になったら『ロデオ・カントリー』と『不屈の男たち(死のロデオ)』は2本あわせてみてますますニコラス・レイの被虐的な繊細さ、ベティカーの丁寧な豪放さが楽しめます。丁寧な豪放さ、というのも変ですが、さすが元闘牛士、ロデオ競技場面の克明な描写がドラマはシンプルな本作を十分豊かなものにしています。