人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『夜ノアンパンマン』第七章

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 第七章。
 不安な夢から目覚めると、ばいきんまんは自分が一個の巨大な乳頭になっているのに気づきました。普通起きると乳頭になっているなどということはほとんどありませんから、ばいきんまんもこれは悪夢の続きか、何かの冗談かと思いました。冗談だとしたら手がこんだものです。きっと顔面だけ出してポリウレタン製の着ぐるみでも着せられているのだろう、とばいきんまんは思いました。手足はまっすぐ伸ばしたまま動かすことができず、なんとか首を倒すようにしてからだを見ることができるだけです。ですがばいきんまんの部屋は機能的な作りだったので、身だしなみのためにベッドの隣りに全身鏡が立ててありました。
 筒のような乳頭になっていても寝返りくらいは打てましたから、ばいきんまんは全身鏡に映った自分の姿を見た時も、それまでの観察と感触でだいたい予想はついていたので、それほど慌てることはありませんでした。
 誰がやったのだろう、とばいきんまんはいかぶりましたが、こんな手のこんだことをできるのは、実行犯はともあれ、主犯はドキンちゃんアンパンマンしか考えられません。ドキンちゃんだとすれば嫌がらせでしょうし、アンパンマンならば悪い冗談です。ですがドキンちゃんならばこんなことは他愛ないいたずらにもならず、アンパンマンならばいきんまんとは実はなあなあの八百長試合の仲ですから、やはり大したことではありませんでした。
 ばいきんまんはベッドから床に落ち、部屋のいちばん隅まで転がっていくと、かあーッと全身のばいきん力をたぎらせました。これはばいきんまんの必殺技で、消耗も激しい究極の業なのですが、辺りかまわず周囲を汚染する大業です。当然距離が近いほど効果があるので接近戦で迎撃するのに向いており、乳頭の着ぐるみなどは、一瞬にしてばいきん効果で削ぎ落とされてしまいました。
 これでよし、と場所は全身鏡にいつもの姿が映るのを確認しました。ですがばいきんまんは勘違いしていたのです。乳頭の姿になっていたばいきんまんは着ぐるみではなく、実際に乳頭そのものでした。それがばいきんまんのばいきん力の発動で、本来の姿に戻ったということに過ぎなかったのです。
 その可能性に気づき、悪寒のような気味悪さを感じるとともに、ばいきんまんは悪夢から覚めました。何て夢だろう、しかしそう悪くも感じず、これは使えるかもしれないぞ、とひそかに企みすらしていました。


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 内容がきわどいので毎回びくびくものでお送りしている夜ノアンパンマンですが、この作文がリアリズムを尊び現実暴露を目的とするからにはそれも仕方がありません。その頃、朝の早いしょくぱんまんはいちごミルクちゃんとまだカーセックスをしていました。相手がいちごミルクちゃんに限らず、若い女の子なら誰でも車に乗ればしょくぱんまんの毒牙にかかるのですから、いっそしょくぱんまん号はカーセックス仕様にすれば良い、とも思われるほどですが、さすがにそれは公衆道徳上はばかられるとあっては、しょくぱんまんも今ある設備でがまんしなければいけません。しょくぱんまんしょくぱんまん号とセットで存在するからこそしょくぱんまんなのであり、それ以外にしょくぱんまんのあり方は考えられませんでした。たとえばカレーというものなしにカレーパンマンがあり得ないようなものです。
 しかし世界にはその逆の可能性もあり得たので、カレーパンはあってもカレーのない世界、をも想像できないことはありません。つまりカレーパンの具としてしかカレーの存在しない世界ですが、その場合なかなかカレーだけをパンから取り出して料理と供しようという発想にはいたらないのではないか。生理用品やコンドームを買うとどこのお店の店員もわざわざ中の見えない紙袋に入れてくれますが、カレーパンだけがありカレーだけでは存在しない世界とはこれと同じではないかと思われ、シールで結構ですとはいかないのではないか。
 一方、ティッシュペーパーのように汎用性の高いものは、性交時に大量消費されるにもかかわらずシールでよろしいですか?で済まされます。赤ん坊の紙おむつもシール。ですが介護用の紙おむつならばプライヴァシーと人間の尊厳がかかっていることも少なくないでしょう。もっともそれを言えば、婦人用化粧品ほどあられもないものはないわけで、男性が隠れて通信販売でアダルトグッズを購入するのと同等以上に隠蔽されるべきものでなければならないはずです。世界の性差の均衡には明らかな偏差があると言わざるを得ません。
 ですが均衡の崩れがまったくなければすべてのものは不動になり、朝になってもアンパンマンは起きてけないでしょう。正確には起きてこなかったのではなく、目は醒めていても起きられなかったのですが。
 こうしてる場合じゃないぞ、とばいきんまんは思いました。世界を救えるのはもうばいきんまんだけなのです。


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 一方その頃(この前置きを真に受けないでください)、めいけんチーズは犬小屋の中にいました。ばいきんまんの監視カメラがパン工場で唯一見逃しているのがこの犬小屋の中でした。めいけんチーズはパン工場じゅうに乱交がはびこっていてもペースを崩さない唯一のめいけんでした。それはチーズが偉いからというより、単に犬だから発情期以外にはその気にならないというだけです。チーズの彼女のレアチーズちゃんとも、発情期以外には顔をあわせても無関心な仲でした。それにひきかえ……
 もとよりパン工場の人たちにはなべてずぼらな面がありました。特に目立つのがジャムおじさんですが、このおやじはパン工場では神のごとき存在なのであげつらうことはできません。どの辺が神かというと、まず性欲からしてそうでした。生理中のバタコさんとの交接をなおさら好む、という困った性癖もあったのでバタコさんが音を上げた時にはしょくぱんまんアンパンマンカレーパンマン(順不同)を掘る、しゃぶらせるという悪趣味すらありました。しかし本題はジャムおじさんの性豪(!)ぶりではなく、パン工場の人たちがいかにずぼらであったかということなのです。
 まずトイレの後に水を流さないなどは基本中の基本で、追い炊き式のお風呂はもう何年も水替えしていないのはエコロジー的にも良しとすら思われていました。生肉をさばいた包丁をすすぎ洗いもせずあらゆる調理パンに使うので、ジャムおじさんのパンを主食としている町の人たちはサルモネラ菌リステリア菌ボツリヌス菌などにはすっかり耐性が出来ており、肝炎持ちなど当たり前というありさまでした。しかしこうしたことはすべて自然界の掟みたいなものですから、ジャムおじさんが原因でなくても多かれ少なかれ起こることなのです。天国では誰も病気にならず、歳も老いないというのが本当なら、この町の人たちは天国に住んでいて、それはジャムおじさんのずぼらな謎の不老不死パンのおかげでした。
 めいけんチーズは退屈のあまり伸びをしました。数代前のチーズが数代前のレアチーズちゃんと交尾中に腹上死して以来(二足歩行もできるので、正常位もするのです)、犬小屋は二匹がつるむのは無理なサイズに改築されたのでした。まあ犬小屋だけが縄張りではありません。しぶしぶ起き上がると、めいけんチーズはパン工場の要所要所に放尿してまわりました。マーキングはめいけんの証ですからね。


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 心が!叫びたがっているんだ、とばいきんまんは言いました。何を叫びたいんですかホラー?とホラーマン。かびるんるんたちも当惑して身を寄せ合いながらばいきんまんを遠巻きにしました。内心では彼らも大したことはないと舐めていましたが、ばいきんまん自体は大したことなくても、ばいきんまんが騒ぎ出すことで過剰反応して先攻防衛してくる正義が出てくると甚大な被害が出るのです。特にかびるんるんたちなどは個々の人格を持たない攻守両用兵器と見做されていましたから、早い話が使い切りの捨て駒扱いでした。捨て駒……
 心って何ですかホラー?だいたいそんなものばいきんまんさんはお持ちになっているんですか、とホラーマンは当たり前のように訊ねました。良い質問だ!とばいきんまん、そんなものあるわけないではないか。ただ言ってみただけだい!かびるんるんたちはホッと胸(比喩的な意味ですが。なにしろカビですからそんなものはありません)をなでおろしました。それでは何でそんなことをいうんですかホラー?それはだな、このおれさまには青春時代というものがなかったのだ。青春とはどんなものか、それらしいことを叫んでみたら少しは青春というものも理解できるかと思ったのだ。そうですかあ、とホラーマン、私にはたぶん青春時代というのもありましたよ、ガイコツになるまでそれ相応の人生があったはずですから。お前に青春?忘れちゃいましたけどねー、だってガイコツしか残ってませんからホラー。
 そこに作戦会議室(であり、食堂であり、居間)のドアを蹴飛ばしてドキンちゃんがずかずかと入ってくると、タオルを巻きつけたバットでホラーマンの大腿骨を水平にスコーン!とかっ飛ばしました。ありゃー、と床に小山のように崩れ落ちたホラーマンの骨にいちべつをくれると、ドキンちゃんはフン!?と吐き捨てて出て行きました。ホラーマンは自動的に復元すると、何だったんでしょうかねホラー?女心はわからん、とばいきんまん。あら、じゃあドキンちゃんには心があるんですねえホラー。いンやそれは言葉のアヤというものだ、とばいきんまん、女心と心とは等価でも部分集合でもないものだ。まー言うならば、一種のキツネ憑きみたいなものだな。
 性差別的な発言はヤバいですよホラー、とホラーマンは慌てて取りつくろいました。ところでまだ、心が、叫びたがっているんでらっしゃるんですか?
 おれさまがか?冗談じゃないや!


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 クソったれ!とジャムおじさんは言いました。環状にジャムおじさんを取り囲んで追い詰めたかびるんるんたちは、意表を突かれもしましたし、さらには自分たちが敵対しているものが自分たち以上に下品な存在だったのにショックを受けないではいられませんでした。もっともジャムおじさんはかびるんるんたちの衆目を意識して悪態をついたのではありません。ジャムおじさん股間に当てていた左手の握りこぶしを胸元にゆっくり上げると、右手のライターに着火しました。左手の握りこぶしから一瞬、青い炎が破裂しました。握りっ屁に火をつけたのです。よしよし、とジャムおじさんはひとり言を言いました、うむうむ。
 かびるんるんたちはずっと不可視のままジャムおじさんを監視していましたが、便秘のジャムおじさんが奮闘しながら指でほじくり出す姿や、ついでに前立腺オナニーにふけるのやら、トイレの壁に貼ってある「水を流すのは寝る前だけ」というエコロジーな標語やら、ほじった指をわざわざ嗅いで恍惚の表情を浮かべるジャムおじさんをどこまでばいきんまんに報告すべきか、次第に暗鬱な気分になっていきました。かびるんるんたちの総帥たるばいきんまんも気まぐれなことは組織の長のご多分に洩れず、つまんないことばかり調べてきやがって、と逆切れされないとも限りません。ではばいきんまんはどんな報告を期待しているのかというと、バタコや新発明のパンが焼けたよ、食べると誰でもテストで100点がとれる天才パンだ、というような大ニュースなのでした。
 そんなパンを配られでは世の中の偏差値が発狂するではないか、おれさまがぶっつぶしに行くのだ、とばいきんまんは言うでしょう。しかしパンはつぶせても、ジャムおじさんが健在な限りいくらでも新しいパンは焼かれるわけで、根本の解決法はジャムおじさん暗殺計画でしかないことは、ホラーマンには無理でもかびるんるんたちでさえ理解できることでした。ですがそこで発生する問題は、ジャムおじさんを本当に抹殺してしまえば、ばいきんまんにもすることがなくなる、ということでしょう。
 つまりばいきんまんにとってジャムおじさんパン工場は必要悪のようなもので、ごめんで済んだら警察要らないみたいなものでした。それを知ってか知らずにか、ひたすらパン作りに励むジャムおじさんの側では、ばいきんまんの存在を必要とはしていなかったところに最大の不均衡があったのです。


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 スノークくんはご存知ないかもしれんが、とジャコウネズミ博士は言いました、ヘムレンさんと私は併せて69もの学位を取得しておるのだ。これはわれら二人でムーミン谷に国際大学を開校するに十分な資格があると意味する。
 なるほど、私はその唯一の生徒というわけですなはっはっは、とスノークは謙譲して答えましたが、どうやら今は社交辞令など問題ではない議題にさし掛っているのにすぐ気づきました。それで博士、おっしゃりたいことは…。
 まあこれから話すことは、すべて一種の比喩と考えてくれたまえ、とヘムレンさん。わしらは二人ともR.D.の学位を持っておる。つまり修辞学博士だな。修辞とは時として論理的思弁より真実に近づくことがあるということさ。
 たとえば真実には二種類ある、とジャコウネズミ博士がすかさず言いました、雨の日は雨降り、これは帰納的真実で、雨が降ると雨の日、これは演繹的真実。だがスノークくんが一日中部屋に閉じこもっていた場合はどうかね?
 博士、私だってインターネットくらいはしますよ。そしたら気象情報くらいは見ます。
 ではそのインターネットに流されている気象情報が偽情報だったらどうかね?
 当然違反申告します。とんでもない!
 それでは違反申告した先が必ずしも適切な対応をしてはくれず、そればかりか矛盾しあう情報のいずれも自己責任として放置しているような状態だったらどう判断するね?
 ええと、何を?
 天候!今日が雨降りかどうか。言っておくがきみは部屋の中にいるんだぞ。窓の外を見るのも駄目だ。
 テレビを観ます。
 テレビは広域気象情報しかやっとらんよ。
 じゃ、地方局。ムーミン谷TVを観ます。
 あそこは自社番組は天気予報やローカル・ニュースすらやらんぞ。島根県松江市や神奈川県座間市の天気を観てどうする?
 じゃあ117番に電話……
 駄目、ルール違反。そもそもきみは、質問の主旨がわかっているのかね?
 自分は何もせずに部屋にいながら天気を知る方法なんでしょう?あ、これはルール違反ではないですよね?……フローレンに訊く。
 ピンポーン、とヘムレンさんとジャコウネズミ博士は微笑みました。だがそれはきみがフローレンの兄だからだ。全世界がきみなら、きみにとってのフローレンに当る存在。それが世界とムーミンの関係なのだよ。つまり、真実を媒介する唯一の存在。
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 何このクソつまんない番組!?とドキンちゃんは激怒しました。


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 続きだ、とばいきんまんは言いました。たぶんこの古文書に謎の鍵があるのだ。
 ムーミン谷にレストランが出来たそうだよ、とムーミンパパが新聞から顔を上げると、言いました。今朝のムーミン家の居間には、
・今ここにいる人
・ここにいない人
 が共に集まっています。それ程広くもない居間に全員収まるのは、ムーミン谷の住民は人ではなくトロールで融通が利くからです。
 そうだ、我が家は食事のふりはずっとして来たが、それは家庭的雰囲気の演出の為であり実際に食事をした事はない。そうだねママ?
 そうですよ、とママはおっとりと答えます。
 私がパイプを燻らせ安楽椅子で新聞を読むのもそうだ。魁新報ムーミン谷版は半年に一度しか出ない。半年に一度の紙面を年中読むのを新聞と呼べるだろうか。ムーミン谷にはタウン誌という物もないのだ。
 ねえパパ、それで新聞にレストランが出来たって載ってたの?と偽ムーミンが無邪気を装って尋ねます。その頃ムーミンは全身を拘束され地下の穴蔵に幽閉されていました。
 かなり冷え込み、また拘束のストレスもあり恒温動物なら苦しむ環境ですが、トロールなのでただ動けないだけです。容貌は瓜二つなので、なにか弱みを握るたび偽ムーミンムーミンを脅して入れ違い遊びを強要しましたが、弱みを握られる側にも落ち度があると考え屈服してしまう卑屈さがムーミンにはありました。
 ねえレストラン行くの?と再び偽ムーミン。よく見ると頭部の旋毛の部分からアホ毛が三本生えている事でも偽物だと気づく筈ですが、ムーミン谷の人々は細かい事は気にしません。
 そこだよ問題は、とムーミンパパ。レストランに行くには予め幾つかの条件がある。まず正当な連れがいる事、これは問題はない。ムーミン一家だからな。正当な連れ?おかしな組み合わせでレストランに行くと変だという事だよ。例えばママがスナフキンとミイの三人でレストランに行ったらミイをアリバイにした不倫のように見えるだろう?
 あなた止めてくださいよ、とムーミンママがおっとりたしなめます。
 なら簡単に言おう。ムーミン、きみはお腹が空いたことがあるか?
 うん。そうか。でも一家で食卓につくともう空腹ではなくなるだろ?私たちムーミントロールは食事のふりをするだけでいいのだ。だがレストランでは実際に料理を食べなければならないのだぞ。
 全然わかんないわよ!とドキンちゃん、これがいったい何だっていうの!


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 つねづねジャムおじさんは新しい刺激を求めてきましたが、それには相手を変えるのがいちばん手っ取り早いとわかっていながら面倒くさがりの性分なのとせっかちなのとで、もっとも身近なバタコさんを相手にことを済ますのがほとんどでした。バタコや、お前も女の子なんだから女友だちくらいパン工場に呼んでいいんだよ、おいしい菓子パンをふるまうからね、と食い気につられてパン工場にやってきた女の子たちはことごとくジャムおじさんのえじきになりました。催淫剤くらいならともかく、気に入った女の子にはジャムおじさんは特に効果が切れると禁断症状をきたす危険なスパイスすら調合したパンすら与えるほどでした。
 バタコや、とジャムおじさんの呼ぶ声にぶどうの実の種とりをしていたバタコさんがジャムおじさんの部屋に行くと、最近毎日、ともすれば朝晩のようにパン工場に立ち寄る友だちのズベコさんが意識を失って半裸で椅子に座らせられていました。口を開き、半眼になった目は飛び出しそうで、顔から首まで真っ赤に紅潮していました。どうしちゃったんだろうねえ、とジャムおじさん。ひょっとして、とバタコさんはテーブルの上のパンに目をとめると、少しちぎって味をみると吐き出し、これを食べさせたんですか?この子が欲しがるんだよ、とジャムおじさん、このパンを食べると元気が出るってね、それで今日はいつもよりも、もっと元気が出るパンを食べたいと言うのでね……。
 ジャムおじさんバイアグラの常用者でした。しかしバタコさんが味見したパンは、バイアグラどころではない効果をもたらす成分が高い純度かつ高濃度で含まれており、少し確かめてみただけでもバタコさんの舌を痺れさせるほどでした。とにかく横にして、それから胃を洗浄しなければ、とバタコさんは思いましたが、さすがのバタコさんも食事が不自由な人に食べさせてあげることは得意でも、吐かせるのは得意ではありません。
 血圧計で測ってみると、上は300を越えていました。お医者さんを呼ぶ?駄目、未必の故意とはいえジャムおじさんの不名誉になる。内々でどうにかしなくては、とバタコさんはアンパンマンたちを呼ぼうとしましたが、その時ヒッ!と大声を上げると、ズベコさんは椅子から転げ落ちていたのです。
 バタコさんは友だちに駆け寄りました。どうだね?とジャムおじさん。亡くなりました、とバタコさんは、自分ではなくて良かったと思いました。


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 夜ノアンパンマンは80回で終わることになる、とジャムおじさんは言いました、つまり今回を含めてあと12回だな、私たちがやってきたことは一種の我慢大会みたいなもので、いかに真実から目を逸らし続けるかを競っていたようなものかもしれないが……「ミートボール1つ」という歌を知っているかな?男がふらりとレストランに入った、所持金とメニューを見較べて、男はウェイターに向かって頼んだ、ミートボール1つ、ウェイターがキッチンに向かって怒鳴った、ミートボール1つ。われわれが口に出せないでいるのはそれだ、たかだかミートボール1つと言えずにいるようなものだ。
 でも、とカレーパンマンはのどもとまで出かかって、やめました。おいらの言いたいことくらい誰だって言わなくてもわかることだ。おいらの立場はいちばん辛い、なにしろ変な乳頭に縛りつけられて誰も来てくれない。誰も今朝は様子が変だと思わないのだろうか?アンパンマンがいない、身の丈ほどもある乳頭がアンパンマンの部屋にある、そのことを誰も気づいていないとしても、今朝はカレーパンマンはどうしたのだろう、と誰も心配している様子がないのはどういうことか。カレーパンマンはせっかちだからね、きっとひとりで先にパトロールに行ってるんだよ。おおかたそんな風に納得しているのだろうか?だとすれば普段のおいらのせっかちな態度が悪いのか?それにしても、とカレーパンマンは考えこみました。
 おいらが来た時に部屋にいたジャムおじさんとバタコさんはばいきんまんドキンちゃんの変装だった。ばいきんまんはおいらを縛り上げて、この部屋の様子を観たから来た、というようなことを言ったのだ。ばいきんまんが言っているのは監視カメラで観て飛んで来た、ということで、この乳頭の化け物を指しているとしか思えない。ばいきんまんだけが24時間モニターでこの部屋で夜ノアンパンマンに何が起こったかを知っている。それはミートボールのように誰もが知っているものとは違う。
 その頃しょくぱんまんは最近朝寝坊ばかりだ、やっべえと思いながらしょくぱんまん号でパン工場に向かっていました。道を渡ろうとしていた女の子がびっくりして転び、バスケットを道に落としてしまいました。
 ごめんなさいお嬢さん、としょくぱんまんは車を停めてバスケットを拾い上げました。はじめまして、きみの名前は?いちごミルクちゃんです、と女の子は答えました。


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 ここはどこですか、とアンパンマンは訊きました。どこだと思うかい、と人ほどの身の丈があるウサギが訊き返しました。そうですねえ、とアンパンマンは辺りを見回すと、どうやら幸せそうとはとても見えない人や動物たちが、自分以外にはまるで誰もいないかのように足もとにうつむきながらうろうろしていました。かつては何かしら目的や理由があったのに今はそれをなくしてしまい、失ったものに代わる何かを探しているとも、探すこと自体が目的であり、理由になってしまって、もうそのことにも疲れ果てているとも見えました。
 ぼくはここで何をすればよいのだろう、とアンパンマンはふと考えると、自分も今、ここにいる人たちと同じように目的を見失いかけているのに気づいて慄然としました。この人たちはどう見えるかね、とまたメガネのウサギは訊いてきました。不幸せに見えます、とアンパンマン。なら不幸せなのも喜ばなくてはいけない、とウサギは腰の後ろで手を組んで、ふい、と横向きになりました。こんなに痩せたウサギだったのか、とアンパンマンが唖然とするくらい、横を向いたウサギのからだはうすっぺらでした。それはまるで印刷物の紙面から抜け出てきたようでした。
 そのページをめくると、次に出てくるのは無人になったしょくぱんまん号でした。ついさっきまでしょくぱんまんがいちごミルクちゃんを同乗させ、ついでにカーセックスにはげんでいたしょくぱんまん号は、今は事故や故障の様子があるわけでもないのに、狭い2車線道路の中央をさえぎるように真横にふさいでいました。悪事の最中に止めに来るアンパンマンたちに来たな、お邪魔虫!とかんしゃくを起こすのはばいきんまんの習性ですが、しょくぱんまん号が今、日中の公道のど真ん中に駐車中なのは、ばいきんまんが逆切れするまでもなく公衆のお邪魔虫そのものでした。しょくぱんまんはカーセックスは着衣のままするのを好みましたが(通行人が通ってもごまかせる利点もありますし)、今しょくぱんまん号には、いちごミルクちゃんの摘んでいたいちごのカゴだけでなく、しょくぱんまんといちごミルクちゃんの着衣も座席に落ちていました。
 ジャムおじさんはふと、バタコや、お前もいつでもお嫁に行ってもいいんだよ、と言いました。私は死ぬ前に冗談は言わんよ。
 わかりました、とアンパンマンは言いました。ここは地獄です。
 地獄じゃない場所なんてあるかね?
 第七章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第四部・初出2015年8月~12月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)