集成版『夜ノアンパンマン』第八章(完)
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第八章。
今日もこれから降りかかってくるばいきんまんの策略などいざ知らず、アンパンマンはジャムおじさんのパン焼き場に入っていきました。ジャムおじさんおはようございます、やあアンパンマンおはよう。おはようアンパンマン、とバタコさん、わんわわおーん、とチーズ。パン焼き場はいつもの通り、あらゆる種類のパンの焼きたての入りまじった薫りでむせかえるようでした。この薫りの中で一日中働き、くつろいですらいられるジャムおじさんとバタコさんにはアルコールを含めた酵母に常人を超えた耐性があり、それを言えば人間の数万倍の嗅覚を持つはずのチーズは犬として超めいけんの域に達していると言っても過褒ではないでしょう。アンパンマンの正義の背後にはこうした超人集団(犬も含む)がついているのです。アンパンマンは焼きたてパンの盛り合わせをちらりと見ると、それではお願いします、と自分の頭を外しました。
大人が言葉を失い、幼児には何の疑問もないのがアンパンマンのこの特性です。頭が欠けたと言っては頭を取り替え、頭が濡れたと言っては頭を取り替え、頭が汚れた、カビた(ばいきんまんの手下のかびるんるんにたかられるとすぐカビます)と言っては頭を新しいあんパンに替えてもらわないと必殺技のアンパンチを繰り出すパワーが出ないどころか、全身の力が抜けてヘナヘナになってしまうのですが、とすれば全身の力そのものが頭のあんパンをエネルギー源にしているらしい。古くなったり味が落ちたりしただけでもパワーは低下するらしい。とすると、アンパンマンにとって真のアイディンティティは頭と身体のどちらにあるのか。そもそも簡単に交換可能なものを頭と呼べるものなのだろうか。
そうした疑問もやはりスルーして、アンパンマンはジャムおじさんの「ほら、新しい顔だよ」を待ちました。いつもならこのやり取りはあうんの呼吸で進みます。ところがアンパンマンの肩は頭の重みを感じず、いったいどうしたのかな、と一旦外した頭を小脇に抱えると、ジャムおじさんがエプロンの端をねじりながら何か言おうとしているのに気づきました。どうしたんですか、とアンパンマン。ふと見ると、バタコさんも何だか硬い表情です。チーズはといえばしょせん犬畜生ですから、いつものニヤニヤ笑いのままです。
アンパンマンや、とジャムおじさん、今日は新作をつけてみないかね。何ですかこれは?見ての通りさ、乳頭じゃよ。
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ジャムおじさんとバタコさんがいなくなった調理室の中は、喪の明けたような安らかさが漂っていました。やりかけのまま放り出してあるパン種はじっくり時間の流れのままに醗酵してゆき、やがて酵母それ自体がみずからを分解しつくして、さらさらの灰へとたどりついていくでしょう。窓から差しこんだ光は誰の手もとも照らさず、部屋に闇が満ちても明かりを灯すひともおらず、そうして日差しと闇を交互にくり返しながら日づけのない月日が流れていくはずです。もう誰もこの部屋を訪ねてくることはなく、世界のすべての空腹を支えてきたほどのパンを焼いてきたかまどには二度と火は入らず、いつかここがパン工場だったのも忘れ去られていくでしょう。このパン工場をみなもととしてきた命のかずかずが役目を終え、小川にそよぐ水もすっかり澄みわたって、なにごともなかったかのように世界が始まる前の光景に戻っていくのをくい止められる手段はもう残されていないのかもしれません。
それは本来おれさまがやるべきことだったのだ、とばいきんまんはじたんだを踏みました、でなければ、これまでおれさまは何のために暴れまわり、お邪魔虫どもに妨害され、最後はいつも青空の彼方にバイバイキーン、とぶっ飛ばされてきたのかすら、ただの徒労にすぎなかったということになってしまうではないか。正義はいつも無責任だ、とばいきんまんは思いました。確かにばいきんまんには、そう思うだけの資格がありました。いつから自分がアンパンマンに勝ち目のない戦いを挑み続けてきたのかもばいきんまんにははっきりわからなくなっていましたが、毎週のように連敗記録を塗り替えてきたことは確実で、ばいきんまんはそのたびにアンパンマンとのきずなが深まっていき、もはや引き返せないほどの関係になっているのを感じていました。しかしそれも、もはや思い出のなかにしかありません。戦いは一方的に終わらされてしまったのです。
いまならこのいまいましいパン工場をぶち壊し、焼き払うこともできるのだ、とばいきんまんは思いました。そうすれば二度とアンパンマンは生まれ変わってこなくなる。だがジャムおじさんの野郎やバタコさんがが見捨てて行ったパン工場を今さら破壊したところで、おれさまには負け犬の遠吠えでしかないのは明らかだ。すべてはおれのひとり相撲だったとしても、おれはおれさまにしかできないことをしてきたのだ。もしそうでなければ……。
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第73回。予定通りなら夜ノアンパンマンは今回を入れてあと8回で終わります。このお話しももう終わりに近づいてきました。
ばいきんまんはドキンちゃんもいなければホラーマンもいないばいきん城の作戦会議室、それは居間でもあり食堂でもあり客間でもありトレーニングルームでもありかびるんるんたちの繁殖場でもあった場所ですが、今ではばいきんまんを出迎えてくれるのはあれほどこの部屋には似つかわしくなかった沈黙だけでした。えーいうるさい静かにしろ!とばいきんまんは何度怒鳴ってきたことでしょう。私に向かって何よその態度!とドキンちゃんが凄み返してくるのもいつものことでした。あーいや、ドキンちゃんは違うのよ、とばいきんまんはそのたび下手に出たものですが、甘やかしてるとつけあがりやがってこのアマ、という憤怒と痒いところに手の届く被虐感で、ばいきんまんにはドキンちゃんほど恰好の小悪魔はいませんでした。過去形です。いませんでした。
ホラーマンはばいきんまんの手下でアンパンマンの味方という変なやつでしたが、つねに困っている方の味方につくという点ではこれほど信念のぶれない、言行一致の骨格標本はないと言えました。いなくなってみれば、あれほどわずらわしかった同盟関係にも感傷的な美化が伴うものです。お前は来なくていいんだよ!そんなこと言わないでくださいよ~、私にも手伝わせてくださいよ、と、しぶしぶホラーマンを連れて行った作戦で、何度せっかく窮地に陥れたアンパンマン側にどたんばで寝返りされたことでしょう。ほとんど毎回です。あっ私用事思い出した、先に帰るわねー!ま、待ってよドキンちゃん!アンパーンチ!バイバイキーン、とお空の星になるのがいつものばいきんまんでした。バイバイキーン、とばいきんまんはつぶやいてみました。ひとりきりの部屋でばいきんまんがふと洩らしたひとり言といえば、他にはなかったからです。
だがそれではまるでおれさまもこの世からバイバイしてしまうみたいではないか。そんなわけはない。おれさまの生まれは人よりも古い。当然パンよりも古い。人は妖精を空想したが、その妖精よりも古く、神や悪魔よりも古いのだ。世界が存在する限りおれさまは存在し、おれさまが存在する限り世界は続く。それがおれさまをアンパンマンたちよりも優位に立たせる唯一絶対の根拠なのだ。
しかしおれさまだけが世界に取り残されたら、どうだろう?
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特別回・夜ノジャムオジサン。
大河をさかのぼる地獄の観光船は突然の嵐にあっけなく転覆しました。ジャムおじさんは例によって客室でバタコさんを犯しながら船旅中の猥褻行為もオツだわいと悦に入っていましたが、扉が激しく開いたと思う間もなく船室中が浸水したので、さすがのジャムおじさんにもワケがわからず、ただ本能だけがジャムおじさんを必死で船室からの脱出に向かわせました。ジャムおじさんは左手でバタコさんの二の腕をつかんで離さなず、何とか岸に近づいて失神しているバタコさんの呼吸を確かめて肩を組み(溺死していたら助けるだけ無駄ですから)、振り向くと観光船は舳先だけ水面から出して完全に沈むのも時間の問題でした。そこでフッとジャムおじさんは意識を失いました。
目が醒めると、ジャムおじさんは上流の村落でゴザの上に寝かされていました。やあ、目を覚ましたぞ、と村人たちがジャムおじさんを取り巻いているのがわかりました。他にも生存者がいるのだろうか、と訊きたいことはありましたし、船を沈めたのは彼らの仕業だった疑惑もあります。しかし細かいことまでは会話は通じないので、ジャムおじさんは村人たちに導かれて村の中央広場に連れられていきました。村民たちは車座になってバーベキューや大釜のシチュー料理を取り分けていました。自然発生的コミューンなんだな、とジャムおじさんは食事の様子から推察しました。というよりも、いわゆるサヴェージという奴等にサルヴェージされる羽目になるとはな。
食事の後は歌と踊りの、ちょっとした宴会が始まりました。いつもの習慣なのか、ジャムおじさんをもてなしてのことなのかは、ジャムおじさんから見ても微妙な調子にうかがわれました。そして結局、この連中はいつもこんな風にしているに違いない、と憔悴しきった頭でジャムおじさんは考えました。大河の上流の岸に住むのは、まあ未開人というやつだ。それでも私が助かったからには、船の乗客全員が溺死したということもあるまい。
するとジャムおじさんは、焚き火の周りで踊っている男のひとりがバタコさんの調理帽をかぶっているのに気づきました。ジャムおじさんは男を呼び止めました。
その帽子はどうした、とジャムおじさんは訊きました。ああ、これは女の帽子、と男は身ぶり手ぶりで答えました。
それでその女はどこだ、とジャムおじさんは訊きました。さっき食ったじゃないか、あんたも、と男は答えました。
暗くて風の吹く夜でした。
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助けを求めに川を下ったバタコさんのカヌーは滝壺に沈みました。その頃……。
密林をさ迷っているうちジャムおじさんの意識は次第に朦朧としていきました。トード村長に外国人がいました、と報告が来たのは、ちょうど村長が本棚の前で腕組みをしていた時でした。ジャムおじさんを見つけたのはキノコ狩り人夫で、この密林はプロの人夫でさえも命がけの危険地帯なのです。
熱病から回復したジャムおじさんは村長に丁寧な礼をし、密林に迷い込んだいきさつを説明しました。そうですか、と村長は親切に、ではしばらく村でお休みされたらいかがでしょう、と申し出てくれました。
村長は村で唯一の外国人との混血で、この村が外国の植民地だった頃生まれたので、いわば世襲村長でした。ジャムおじさんは図書室に案内されました。あなたは本は読めますかな?と村長。ジャムおじさんがうなずくと村長は大喜びし、実は自分は文盲で村に唯一いた識字民は数年前に死んでしまいまして。はあ、とジャムおじさん。私は山本周五郎が好きでしてな、と村長、あなたがご滞在の間、良ければ本をご朗読願えませんでしょうか。
それから毎日ジャムおじさんが「ながい坂」「さぶ」「季節のない街」と読んでいく日が続きました。これは宿泊費みたいなものだからな、とジャムおじさんは「青べか物語」の朗読を聞きながらはらはらと涙を流すトード村長を見ながら思いました。
とっておきの名酒があります、と村長がご馳走を振る舞ってくれました。爆弾みたいな名酒とはこのことで、ジャムおじさんは泥酔して医療所へ運ばれました。それから村長は面会人を庁舎へ通しました。
この人が来ませんでしたか、とジャムおじさんの写真を出されて、こちらです、と村長は村の墓地にアンパンマンとしょくぱんまん、カレーパンマンを案内しました。アンパンマンたちは1輪ずつ花を捧げて、ジャムおじさんの調理帽を遺品に持って帰って行きました。
翌日、ジャムおじさんは二日酔いのまま起き出しました。見舞いに来た村長が、あなたのお知りあいが3人見えましたよ、今回は残念でしたがまたお見えになるでしょう、と言いました。今日はゆっくりお休みください、よければ次は「五瓣の椿」「天地静大」を、そして「樅ノ木は残った」と「赤ひげ診療譚」は最後のお楽しみにしたいものですね。なに、まだ時間はたっぷりあります。この村にはクリスマスもお正月の祝いもありませんのでね。
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さて今年もあと5日、われわれの話も残り5回というと、この先は毎日1話ずつ駆け抜けなければならないぞ、とジャムおじさんは言いました、あと5回で片がつくような不始末ならいいのだが、それにはみんなが心を一つにしてかからねばならん。だが肝心なアンパンマンの姿が見えないではないか、とジャムおじさんは憤怒に堪えないというポーズをしました。具体的には握りこぶしを胸の前に持ち上げ、殴れるものがあるなら殴りたいと言わんばかりにぶるぶる震わせるという実にガミガミ親父的なジェスチャーで、実際ジャムおじさんには自分が怒ればみんなが着いてくると思っているような単純バカというか、飯場の親方みたいなところがありました。てかパン工場のボスなんて飯場の親方以外の何者でもないじゃない、といつもニコニコした表情でいながら、愛人1号(他にいませんが)のバタコさんですら腹の中では肝に据えかねていたのです。
とにかく話はまた振り出しに戻ったというわけだ。アンパンマンはいったいどこへ行った、そしてアンパンマンの部屋にデンと出現したあのでかい乳頭みたいなものは何だ?ジャムおじさん、とバタコさんが口を挟みました、しょくぱんまんもまだ到着していませんけど。ああ、どうせ彼のことだから、食パンの配達中に拾った女の子とカーセックスでもしてるんだろうさ。しょくぱんまんは思わずくしゃみをすると、後背位で挿入していた逸物がニュルッと抜けて臀部に弾けました。どうしたの、といちごミルクちゃん。うん、たまにちょっとアレルギーっぽい時があってね。
ジャムおじさん、ぼくならここにいます、とアンパンマンは心の声をどれほど上げてきたでしょう。しかしその声は届かず、巨大な乳頭に変化した体を動かすすべもなく、アンパンマンは床ずれの痛みにすら無感覚になってきたのを感じました。ぼくは何か悪いことでもして、その報いがこれなんだろうか、と典型的な罪業妄想がアンパンマンに訪れました。この状態から先へ進むと話は「詩」のカテゴリーから「メンタルヘルス」のカテゴリーへ移動させなければならないのでアンパンマンの心の声は無視して話を進めると、その頃ばいきんまんの、たぶん最後の大作戦は、確認を済ませてスイッチを押すばかりの段階へ入っていました。ばいきんまんにとってはこれは真剣な戦争で、ばいきんまんなりの正義がそこにはあったのです。それは少なくとも真実ではありました。
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特別回・夜ノショクパンマン。
ふむ、とジャムおじさんはひげをひねりました、おまえさんの発明の才は前々から承知しておったが、ここまで手広くやっておったとはシャッポを脱ぐよ、と本当に調理帽を脱いで禿げ頭を出しました。そうなのだ、とばいきんまんは注射針を慎重にバタコさんの腕から抜き、この薬が効いている間は心肺停止状態が続き、脳波も停止して医学的には完全に死亡したのと同じになる。しかし薬の効き目が切れるとすぐに完全に蘇生して、薬物の痕跡も残らないから、一定時間注射した相手を実質的に剥製も同然にしておくことができるのだ。そういう発明だがどうだろう、商品化できるだろうか?つまり、売れるかだが。
売れると思うよ、とジャムおじさん、コスト、つまり原価次第でもあるが、こういう悪用しがいのあるものは闇で売る方が高く売れる。供給過剰では末端価格が下がるから、大量生産してコストを下げるにしてもちまちま売ってがめつく儲けるのが良かろう。おまえさんなら、どうせ原料はタダみたいなものだろう?ジャムおじさんとばいきんまんは顔を見合わせ、企むような笑いを交わしました。
人類の歴史は毒薬の歴史とはよく言ったものだ、とジャムおじさんは注射器を手に取ると、これは要するにジュリエットが使ったという、アレだろ?そうそう、とばいきんまん、実はばいきん家先祖代々秘伝のやつをちょっとアレンジしてみたものなのだ。ほお、とジャムおじさんは感心した様子で、当時私の先祖もそこにおったよ、つまりわれわれは先祖代々からの縁があったのだな。
では手を組むか、つまり見逃してくれるか?もちろんだとも、上前次第だが。再び両者は哄笑するといそいそと変装して、町の盛り場に飲みに行きました。
誰もいませんね?入っていいよ、としょくぱんまんはいちごミルクちゃんと調理室に入ってきました。今日はパン工場はみんな出かけているみたいだな。しょくぱんまんも調理室でジャムおじさんがバタコさんとやっているようなことをやりたいと思っていたのです。これはきっといいものだぞ、としょくぱんまんはいちごミルクちゃんに置いてあった注射器を打ち込みました。いちごミルクちゃんは声も上げずにぐにゃりとなりました。
しょくぱんまんは冷静な性格でしたから、すぐに事態の深刻さを理解しました。これは効きすぎちゃったってことだな、としょくぱんまんは判断すると本人の手に注射器を握らせ、素早く現場を立ち去りました。
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われわれにも盆も正月もない、とジャムおじさんは吐き捨てるように言いました、人はパンのみにて生きるにあらず、さりとてパンなしに生きられずだからだ。私としては盆などは店屋物で済ませ、正月には餅でも食っていれば良いと思うのだが、人間50年も生きれば全歯義歯という老人もおかしくない。餅は危険だから法律で禁止すべきだというのも一部の人にとっては正論だろう。パンがないならケーキを食べればいいじゃない、という正論もある。ケーキが常食の家ではそれも通るだろう。年越しそばは毎年緑のたぬきしか食べられないといって、年末だけスーパーの海老天が暴騰価格になるのを恨むのは用意が足りない。安い時に買って冷凍しておけば1か月くらいは持つものだ。私が言いたいのは、ネズミが逃げた船やカナリアが死んだ炭坑に居残る馬鹿はいないし、子どもを懐柔するには食い物を食わせるのがいちばんということだ。私の言いたいことが何だかよくわからない?そんなの私にだってわかるものか!はぁはぁ、いつまで私にばかりしゃべらせるのだ?誰か意見のある者はおらんのか。
くうーん、とめいけんチーズは困惑した鳴き声を上げました。それはパン工場全員の意見を代弁したものでしたし、言葉で言うと角が立つのでめいけんチーズが鳴き声で表すのがひとまず穏便だからです。ジャムおじさんは同意以外を他人に求めませんし、めいけんとはいえ犬の鳴き声などいくらでも解釈、または曲解することができます。仮にジャムおじさんが自分への反抗を鳴き声から聞きとったとしても、めいけんとはいえたかが犬ですから蹴っ飛ばして気を晴らせば良い。少なくとも誰彼かまわず怒りまくって目につくものはみんなぶち壊し、挙げ句に全員がボコボコにされる、もちろんチーズもそれに含まれるならば、先手を打って平身低頭しておいてジャムおじさんの暴発を防げるなら犬の謝罪など安いものでしょう。
相変わらず馬鹿なことをやってやがる、とばいきんまんは監視カメラのモニターでパン工場の様子を観察しながら嘲りました。一方、乳頭に変貌したアンパンマンは、全身拘束同然による極度の無感覚状態から精神に異常をきたしつつありました。もはやアンパンマンは自分の肉体的存在に実体感を持てなくなり、精神だけがエーテルのように浮遊している感覚に陥り始めていたのです。
その頃しょくぱんまんは、まだいちごミルクちゃんとカーセックスしていました。
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ついに何もかもがなかったことにするしかなくなったな、とジャムおじさんは言いました。まずまだ来ていないしょくぱんまんを消そう、知らないうちに消されてしまうのは一種の慈悲みたいなものだからな。そしてジャムおじさんは宣言通りしょくぱんまんの存在を消し去りました。それとともにしょくぱん山も食パン工場も、しょくぱんまんのパン配達車も消滅しました。われわれの記憶にはまだしょくぱんまんの思い出がある、だが全員がこれから思い出もろとも消えていくのだから、どのみち同じようなことだからな。
次にほとんどこの物語には関わりがなかったが、メロンパンナちゃんとクリームパンダちゃんに消えてもらおう。メロンパンナちゃんはアンパンマンの妹、さらにクリームパンダちゃんは末っ子としてパン工場のアイドルキャラクターを目的に作られた非戦闘用員で、いわばいてもいなくてもいいパン工場のお飾りでした。メロンパンナちゃんとクリームパンダちゃんもまたジャムおじさんによってその存在を消し去られました。これでよし、なかったことになった、とジャムおじさんは静かに、なにごともなかったようにひとりごちました。
つぎにバタコや、お前ももう思い残すことはないはずだ。私がもう何十代目のジャムおじさんなのかわからないのと同じく、お前もいったい何十代目のバタコなのかは私にもわからない。だがその連鎖も今のお前の代で終わる。もうお前はバタコである必要はなく、そればかりかどのようにもお前の存在そのものがこれ以上の存続を必要としていないのだから。それはお前自身もその日が近いとうすうす感づいていたはすだ。ジャムおじさんが宣告するまでもなく、バタコさんの姿は時空のすべてから、あとかたもなく消滅しました。
カレーパンマンはアンパンマンの寝室で巨大な乳頭に縛られていました。当然カレーパンマンはジャムおじさんの目的を知りませんでしたから、ようなくジャムおじさんがにっちもさっちもいかない現状をどうにかしてくれるものと思い、疑いのかけらもない喜色満面なおももちで口を開きかけました。ジャムおじさんは無造作にぶら下げていた散弾銃をカレーパンマンに向けると、次の瞬間カレーパンマンの首はあとかたもなく吹き飛んでいました。
次はお前だぞアンパンマン!とジャムおじさんは叫びましたが、その声は静まり返ったパン工場に響くだけでした。アンパンマン、隠れていないで出てこい!
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バタコさんはいつ目的地に着くとも知れない岩山を登っていました。休憩するたびに次に休むべき岩棚を視界ぎりぎりまで探しては、再び岩石がごろごろする危険な急斜面を這い上がり目的の岩棚にたどり着くのでした。それは直線距離にすれば十数メートルでしかありませんでしたが、家屋に置き換えれば数階建ての高低差をよじ登るのですからアンパンマンたちのような飛行能力や跳躍力、何より人間離れした不死身の肉体の持ち主ならぬバタコさんには身のほど知らずな大冒険とすら言えました。アンパンマンやしょくぱんまん、カレーパンマンなら雑作もなくなし得ることがバタコさんには命がけの決意であり、この役目がバタコさんにしかできない由縁もそこにありました。バタコさんの使命は山頂にただ石を積んでくるというだけのものであり、ただそれだけの行為が世界に再び奇跡をもたらす糸口だったからです。
ばいきんまんですらすでに意を決したバタコさんには対抗するすべがありませんでした。アンパンマン、そしてジャムおじさんはばいきんまんにとってはっきり敵対勢力として存在していましたが、ドキンちゃんやホラーマンがそうであるように、バタコさんは直接にはばいきんまんとの敵対関係はない中立的立場だったからです。そしてバタコさんが今ごろになってしゃしゃり出てきた以上、ばいきんまんが準備を進めてきたアンパンマンたちとの最終決戦も実行に移されないまま全80回が終了してしまうのは目に見えていました。
それではこれまでばいきんまんがやってきたことは何のためだったのでしょう。たぶんこうして水の泡になる皮肉のためです。ぼくにしてもそうだ、とアンパンマンは思いました。誰もがぼくを巨大な乳頭のような肉塊としか思っていない。実際のぼくがその通りだからで、ぼくが乳頭から元のアンパンマンに戻っとみせないことには話は終わらないはずだったのだが、もうその機会すらないままに夜ノアンパンマンは終わってしまうのだ。
ジャムおじさんはバタコさんがいなくなったことにすら気がついていませんでした。
そしてそれらのすべてがバタコさんには預かり知れず、知ったところでどうしようもないことでした。ですから、バタコさんは時間をかけて一人きりの険しい山登りを続けていたのでした。その時巨大な肉食鳥が急降下してくると、怪力で押さえつけたバタコさんの心臓をくちばしのひと突きでえぐり出したのです。
完。
(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第四部・初出2015年8月~12月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)