人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年5月20日・21日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(4)

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 '53年度のベティカー作品は5作品ありますが最初の『海底の大金塊』(2月公開)と最後の『East Of Sumatra』(11月公開)は海洋SFアドベンチャーなので西部劇は『最後の酋長』『平原の待伏せ』(前回紹介)と『黄金の大地』の3作で、ユニヴァーサル社とは2年契約だったらしいベティカーは翌'54年にはテレビの探偵ものの演出アルバイトを手がけ、'55年にはモーリーン・オハラアンソニー・クイン主演の闘牛ロマンス映画の大作『灼熱の勇者』を20世紀フォックス社で監督します。原案もメキシコに渡ってプロの闘牛士をやっていた経験を持つベティカーが手がけた同作は、やはりベティカー原案・監督の『美女と闘牛士』'51と同じメキシコを舞台にしたメキシコ・ロケの作品で、『美女と闘牛士』の原題が『Bullfighter and the Lady』なら『灼熱の勇者』は『The Magnificent Matador』と『The Brave and the Beautiful』の二種類のタイトルでアメリカ本国公開されているのもややこしいのですが、おそらくベティカーの映画で予算も最大規模かつもっともハリウッド映画らしい作品でしょう。クレジット上はモーリーン・オハラが先に来るもフェリーニの『道』'54で一躍世界的な大スターになった風格のあるクインのための企画と言える作品で、クインはメキシコ系の両親から生まれたメキシコ系アメリカ人俳優なのでメキシコの国民的スポーツの闘牛士(マタドール)チャンピオンを演じるのはメキシコの国民的英雄を演じることであり、それまでインディアンやメキシコ人の悪漢役で個性的な性格俳優だったクインの一枚看板映画になっています。ベティカー映画の真の画期作は翌'56年に『美女と闘牛士』以来再びジョン・ウェインのバトジャック・プロ製作(ワーナー配給)でランドルフ・スコット主演で監督した『七人の無頼漢』からですが、その直前に『平原の待伏せ』(前回紹介)、『黄金の大地』に『灼熱の勇者』とメキシコものが集中して作られているのはベティカー自身の意向が反映されたと見られるので、『黄金の大地』は西部劇というより歴史アドベンチャー、『灼熱の王者』は現代ロマンスですが、ともに作りたくて撮ったのが伝わってくるような熱意が伝わってくる作品になっています。ベティカーのキャリアがB級映画のプログラム・ピクチャー監督だったとしても来たるべき『七人の無頼漢』以降の力作群へのつゆ払いになったのがメキシコものの『平原の待伏せ』『黄金の大地』『灼熱の勇者』だったと見るのはあとづけですが、映画監督も創作家ならばやる気と熱意ははっきり表れるので、今回の2作は完成度や仕上がりはともあれベティカーがさらに次の段階に進もうとしているのが感じられる好作です。

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●5月22日(水)
『黄金の大地』Wings of the Hawk (ユニヴァーサル'53.Aug.26)*77min, Technicolor, Standard : 日本劇場未公開(テレビ放映・パブリック・ドメインDVD発売)

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 本作は'53~'54年にアメリカで流行した3D映画として製作されたようで、同年のラオール・ウォルシュの『決斗!三対一』や'54年のヒッチコックの『ダイヤルMを廻せ!』もそうですが、当時の3D映画は左右赤緑フィルムの簡易紙メガネをかけて観るというわずらわしいもので鑑賞の負担・邪魔と観客には歓迎されず、'53年中には早くも飽きられヒッチコック作品の公開時の'54年5月には流行遅れだったので3D版でない通常版も同時公開されその方が好評だったほどです。当時の3D映画は現行映像ソフトも3D版でないプリントから起こされるのが通例ですが、非3D版プリントでも元の映画に構図やアクションには3Dを意識した痕跡が残っていて、具体的には縦の構図やアクションを多用して3D効果をアピールした映像だったのがうかがえる。本作では主人公とヒロインの地下牢からの脱出時の戦闘が垂直の通路からの仰角・俯瞰を生かしたショットで、効いているけどベティカーにしてはかなりトリッキーな構図だな、と思ったら3D用の演出だったわけです。本作の日本盤DVDはコスミック出版の廉価版パブリック・ドメイン10枚組ボックス・シリーズ「西部劇パーフェクト・コレクション」の『ガンスモーク』の巻(2017年発売)収録でしかリリースされていませんが、オーディ・マーフィ主演作をタイトル作にした同セットにはヘンリー・ハサウェイ監督&ランドルフ・スコット主演のゼイン・グレイ連作最終作『最後の一人まで』'33やブロデリック・クロフォードとバーバラ・ヘイル主演&アンドレ・ド・トス監督『廃墟の守備隊』'53にベティカー作品が『ロデオ・カントリー』と本作の2本も入った10枚組で1,500円のお徳用廉価版なので、他社から出ている『ロデオ・カントリー』単品よりも安いくらいです。使用プリントの状態も良く字幕スーパーやチャプターも十分な品質の上、何より他に日本盤DVDリリースがないとあってはさりげない稀少作品なので、パブリック・ドメイン版の超廉価版といえどもあなどれない。本作でもちゃんとフィルターをかけていない2D版を原盤プリントに使っています。前回の『平原の待伏せ』でやや詳しく、今回も前書きで少々触れた通りアメリカとメキシコには複雑な歴史的確執があり、かつてスペイン領だった時代にメキシコはメキシコに進出しようとするアメリカ南部人とスペインの戦争の戦場でした(『平原の待伏せ』)。アメリカはスペイン(メキシコ)からカリフォルニアを譲渡されることで手を打ち、メキシコはやがてスペイン貴族系の独裁政権によって独立国となりましたがメキシコ原住民にとってはスペイン人による侵略国である状態が続いたので、本作では反独裁政権に協力するアメリカ人探検家が主人公です。19世紀初頭にはアメリカはメキシコへの侵略者でしたが20世紀初頭にはスペイン領時代からつづく利権独占者のスペイン貴族による独裁政権からの解放協力者になった(本作のメキシコ革命)という変化があるも、メキシコ民族自治国になった方がアメリカには都合がいいという事情もあるので、本作の主人公は個人的な信条によって行動しているのですがアメリカの国策上都合の良い線に沿っているには違いなく、現アメリカ政権の大統領が無茶な政策によって民意を得ようとしているのもそうした歴史的要因によってアメリカ・メキシコ間の密入国・密輸への南部・西部人の警戒感を政権支持率に利用しようとしている背景がある。観光国としてはメキシコは南部・西部人にとって身近で魅力的な国ですがメキシコへの密売が非合法組織の資金源になっているのも南北戦争直後が舞台の『征服されざる西部』に描かれたのが今なお容易に起こりうるので、国境に壁を築こうなどというとんでもないことをアメリカ大統領が言い出してまかり通っている国がアメリカで、そうした背景を知るにも、また知った上で観るにもベティカーの西部劇はメキシコとの関わりが大きく反映されており、ベティカーは大学卒業後メキシコに渡ってプロの闘牛士(マタドール)をやっていた、特異な経歴の映画監督です。主人公がアメリカ人でもメキシコ側の視点を理解して描く客観性があり、『平原の待伏せ』でも実際の市民虐殺はメキシコ人を装った火事場泥棒的な白人組織だったのをきちんと描いている。本作『黄金の大地』は本格的にメキシコが舞台ですが政治的にはいわゆる"South of Border"で、独裁政権と革命軍の抗争中のメキシコですから国家としては無法地帯化しており、そこでアメリカ人主人公の活躍が描かれるのでジャンルとしては異国冒険映画ではなく西部劇と見なされていますし、内容的にも冒険映画色が強いものの西部劇として作られている映画でしょう。本作はDVD記載の内容紹介と英語版ウィキペディアからのあらすじを引いておきましょう。
○解説(メーカー・インフォメーションより) 主演 : ヴァン・ヘフリン、ジュリー・アダムス (あらすじ) : メキシコに金鉱を持つアメリカ人のアイリッシュ。ついにある日、大量の金が出る。ちょうどその頃、メキシコでは革命が起き、政府軍と革命軍が対立。政府軍は戦争資金のため、アイリッシュの金鉱を奪い……。
○あらすじ(英語版ウィキペディアより) 1911年、革命最中のメキシコ、「アイルランド人」として知られるアメリカ人ギャラガー(ヴァン・ヘフリン)はメキシコの革命家と協力し、パートナーのマルコ(マリオ・シレッティ)とともに金鉱を発見し所有権の金メダルを打ちますが、すぐに独裁者パコ・ルイス大佐(ジョージ・ドレンツ)に気づかれ押収されたのを分け前を要求しに来ていたゴメス大尉(リコ・アナニス)から聞きます。マルコはルイス大佐の部下に殺されました。反逆者の一団がギャラガーを危機一髪から救い、特に勇敢な女、ラケル・ノリエガ(ジュリー・アダムス)が流れ弾で負傷します。反政府勢力はギャラガーの身元に確証がないので、リーダーのアルトゥーロ・トレス(ロドルフォ・アコスタ)に会わせます。ラケルが負傷から意識不明と知ったギャラガーは銃弾の摘出を申し出ます。ラケルはアルトゥーロと結婚するために仕えていますが、彼女の妹エレナ(アビー・レイン)は誘拐され行方不明になります。中立派のペレス神父(アントニオ・モレノ)に相談しながらエレナを捜索していたラケルギャラガーは、ルイス大佐によって捕虜にされて、独房に閉じ込められます。アルトゥーロの部下カルロス(ポール・フィエロ)に救出されて三人はルイス大佐の部下の典獄の屈強なオロスコ(ノア・ビアリー・ジュニア)に阻まれ、一方エレナは捕虜ではなく、ルイスと結婚するつもりで仕えています。アルトゥーロの忠実な反逆者グループの一員、トーマス(ペドロ・ゴンザレス)の母親コンチャ(ローザ・チューリッヒ)を冷たく処刑するルイス大佐の悪魔的行為すら、エレナは秩序を守るための為政的判断として信頼しています。アルトゥーロはギャラガーとラケルの釈放を要求しますが典獄のオロスコは多額の銃器代を要求し、革命軍は金鉱を襲って釈放代を調達しルイス大佐は激怒します。ギャラガーとラケルはペレス神父から状況を知り、ラケルはエレナを説得に面会しますがエレナは権力者には逆らえないとラケルを拒みます。ギャラガーとラケルはアルトゥーロ率いる反逆者たちによって刑務所から救出されましたが、アルトゥーロは殺されます。ギャラガーはルイス大佐の金鉱への執着に気づき、ダイナマイトの罠を金鉱のあちこちに仕掛けて爆発を起こしてルイス大佐の軍団を混乱させ、トーマスは処刑された母の復讐にルイス大佐を殺します。硝煙がおさまり、なぜ自分の金鉱をわざと破壊したのかラケルから尋ねられて、ギャラガーはもっと貴重なものがあるとラケルを抱きよせ、二人はキスをします。
 ――本作の快調な展開やまとまりの良さは西部劇的構図としても秘密の金鉱をめぐる敵味方のはっきりしたアドベンチャー映画色の強さにあるので、その点ではキャラクターに『征服されざる西部』『最後の酋長』『平原の待伏せ』のような陰陽に飛んだ深みが欠けるきらいがあります。ユニヴァーサル時代の'52年~'53年にベティカーが監督した6本の西部劇では『征服されざる西部』が破滅の道を歩むロバート・ライアンの鮮明なキャラクターで突出していて、次いで『平原の待伏せ』がグレン・フォードの配役で活き演出も冴えるも大団円型の結末にややあっけなさがあり、『最後の酋長』はロック・ハドソンアンソニー・クインの苦渋の友情劇がクイン殺害の西部劇ミステリーにすり替わってしまう主題の一貫性に欠ける難があり、逆に『黄金の大地』はヴァン・ヘフリンの主人公のヒーロー冒険譚にきれいにまとまっているのが気楽に楽しめるけれど物足りないということになる。『シマロン・キッド』は『征服されざる西部』の原型といえる内容ですがまだ未熟ですし『ロデオ・カントリー』はバディ・ムーヴィーの変型なのでまとまりは良いもののベティカー西部劇の本流ではないでしょう。『征服されざる西部』1位、『平原の待伏せ』2位としても破綻の大きい『最後の酋長』とこぢんまりした完成度の高い『黄金の大地』は同点3位と思え、『最後の酋長』は途中で木に竹を継いだような脚本で破綻してしまっているものの前半は意欲的な小傑作を予感させるキャラクター造型があり、それに較べると設定・プロット・ストーリーに無理がなく一定の完成度をクリアした作品ではあるものの本作のヴァン・ヘフリンは映画冒頭と結末でも死線をさまようドラマを経てきたようには見えない。敵を罠にかけるために占拠された自分の金鉱を爆破する、金鉱より大切なものがあるとヒロインを抱きよせるのももともとの英雄的性格と見えるので、アイルランドアメリカ人(ギャラガーは典型的なアイルランド系姓名ですし、「アイリッシュ(アイルランド人)」というのが主人公の愛称です)に設定しているのはアイルランド自体が内紛をくり返している政情不安な国ですので主人公に革命的政治感覚があるのを暗示している(これがスペイン系・フランス系南部・西部人だったら侵略的ニュアンスになってしまいます)のでしょうが、革命軍リーダーのアルトゥーロが殺害されてしまう前に、行方不明のヒロインの妹を捜索しているうちに早くも主人公とアルトゥーロの婚約者のヒロインは恋に落ちてしまうので、この主人公は革命軍の協力者なのに革命と恋なら恋を選ぶ頼りない主人公で、何に信念を置いているのか疑わしくなってくる。主人公とヒロインが監禁されてからの脱出劇で映画はがぜん冒険映画色を増しますが、むしろ活躍するのは主人公たちを救出しようとするアルトゥーロたち革命軍のメンバーなので、アルトゥーロが殺されたあと主人公はようやくクライマックスの罠を仕掛けますが、主人公を視点人物として見てこそ(実際映画はそうなっていますが)ストーリーは首尾一貫して快調に進み大団円を迎えますが、退治された独裁者たちはともかくとして革命軍まで組織崩壊に近い多大な犠牲を出している。しかも主人公(とヒロイン)を救うためにです。映画を観ている最中は気にならず話に乗せられて観ていられるのに振り返ってみると本作にはそうした調子の良さがあり、主人公(とヒロイン)だけに都合良く運ぶ映画になっている観は否めません。メキシコ人役のキャストも生き生きと描かれているだけにいっそうあとからそれが気になるので、本作は冒険映画タイプのメキシコ西部劇とベティカー自身も割り切った作品と見るのが順当でしょう。

●5月23日(木)
『灼熱の勇者』The Magnificent Matador (20世紀フォックス'55.May.24)*94min, Technicolor, Standard : 日本公開昭和32年('57年)2月18日

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 本作は日本で公開された初のベティカー作品『美女と闘牛士』'51(昭和27年='52年)に次ぐ二番目に紹介された作品で、その5年間の間のベティカーのユニヴァーサル時代の作品は本作以降の日本公開です。20世紀フォックス製作のモーリーン・オハラアンソニー・クインの2大スター競演のテクニカラーシネマスコープ大作として封切られた割には本国アメリカでもあまりヒットしなかったらしく興行収入非公表ですが、一応話題性はあると1年半あまり経って日本公開が実現したようで、『美女と闘牛士』と本作だけが紹介された時点ではベティカーはメキシコ・ロケの闘牛ロマンス映画の監督、と特殊な監督に見えたでしょう。本作はなぜか'96年と早い時期にアダルト・ビデオ・メーカーの印象の強いシネマ・サプライから日本盤のDVD発売がされていますが、明らかにテレビ放映(ハイビジョン化前)用かホーム・ビデオ用、または民生上映用の16mmデュープ・プリントを原盤にしており、左右を切ったスタンダード・サイズかつ褪色の進んだプリントで、十分発色を保っているユニヴァーサル時代の諸作の原盤プリントより数等落ちる保存状態ばかりかスタンダード・サイズへのトリミングによって台無しになっており、こんなヴァージョンでしか観られないのは残念極まりない限りですが、古典・旧作映画の丁寧な市販ソフト用のレストア作業はまだ映像ソフト会社全般に定着しているとも言えないので、ましてやDVD初期のものとなるとこんなビデオテープからのストレート・コピーみたいな画質のものが出回っていた実例で、しかもまだDVD再生機器もDVD再生ソフトが使えるパソコンも普及していない時期になんでベティカー作品なんか出したんだろうと逆に不思議になってくる。本作は『美女と闘牛士』以来のベティカー原案だけあってメキシコ・ロケで撮りたい映画を撮る企画が実現できたベティカーの意欲がはっきり言って空振りしている出来損ないの人情ドラマで、しかも着想が古くさい素性を隠した親子の生き別れ再会もので、国民的英雄のチャンピオン闘牛士(マタドール)の愛弟子の新進青年マタドールが実は産褥で死んだチャンピオン闘牛士の内妻との一粒種なのを闘牛士という職業の危険を息子の将来に抱く不安感と、親子の名乗りを息子に打ち明けられずに苦しむ葛藤を抱いたチャンピオン闘牛士役がアンソニー・クインで、クインの陰のある様子に貴婦人のモーリーン・オハラが想いを寄せるというロマンス絡みで、クインが教会で息子のために祈るシーンも実際のメキシコのカトリック教会が舞台で本物の神父さまが映画出演に協力しているのがエンド・クレジットで1枚タイトルでメキシコのカトリック教会総本部に協力の感謝を捧げています。実際にメキシコ在住していたベティカーとしてはこのクレジットは外せない、とメキシコ人側の立場に立って謝辞をクレジットしたのでしょう。そういう意味では、見過ごしてしまうような箇所でもすみずみまでメキシコに失礼にならないような配慮がされた映画だろうと想像されます。先に『黄金の大地』で冒険映画と割り切った作品ではないか、と書きましたが、スペイン貴族の末裔の独裁者が残忍に描かれているとはいえその死に恋人がとりすがって泣く、また先立つ革命軍リーダーも威厳と誇りを持った人物と行動が描かれている具合にメキシコ人を蔑視するような描き方は律儀に避けていて、その割には革命軍リーダーの恋人と主人公があっさり相思相愛になってしまうではないかと都合の良いところもあるのですが、主人公はアイルランドアメリカ人でも親メキシコ革命軍派だからメキシコ民族の味方に描かれているので良しとしたのでしょう。『平原の待伏せ』でメキシコ人の孤児カルロス少年を純真で疑心暗鬼な市民たちと主人公の媒介になる存在に描き、メキシコ人に偽装した火事場泥棒的白人組織の悪事を描いたのと同様『黄金の大地』でもベティカーの立場はメキシコ民衆に寄り添ったものであり、そういう意味で『黄金の大地』はベティカーが撮りたくて撮ることができた映画になっている。ただし映画の仕上がりはご都合主義的な冒険映画に近いものになってしまったので、『平原の待伏せ』や本作『灼熱の勇者』と並べないとベティカーのメキシコへの思いが伝わらないきらいがある。メキシコ人登場人物をカルロス少年しか登場させず民衆レベルでのメキシコとアメリカとの関係を暗示してみせた『平原の待伏せ』はなかなか大した手腕だったと言えますが、そのものすばりアメリカ人ベティカーがハリウッド映画として撮ったメキシコ映画の『灼熱の勇者』がベタな人情メロドラマ(エンド・クレジットでエンディング主題歌が流れる文字通りの「メロドラマ」)になったのもベティカーのメキシコ愛、闘牛士讃美が強すぎて通俗メロドラマを本気でやってしまったので、スペイン人のルイス・ブニュエルがメキシコの映画界でメキシコ人好みの通俗娯楽映画のフォーマットを借りながら巧みにブニュエル好みのひねった趣向を折衷していました。しかし本作ではベティカーは『最後の酋長』を含む'53年度作品ではまだ大スターではなかったアンソニー・クインの『道』'54での国際的スターへの大出世こみで(クインはメキシコ系アメリカ人二世の俳優です)直球勝負のメキシコ・メロドラマに挑んだので、ベタだろうとメロドラマだろうとこれが本気でやりたい企画を撮った結果が本作でしょう。本作も日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 「美女と闘牛士」のバッド・ボーティカーが原案を書き監督した闘牛をめぐる親子の愛情物語。脚本担当はチャールズ・ラング、「誇り高き男」のルシエン・バラードが撮影を受持った。音楽はラオール・クロウシャー。主な出演者は「リスボン」のモーリン・オハラ、「ノートルダムのむせし男(1957)」のアンソニー・クイン、チリー生まれの新人マヌエル・ロハス、「空中ぶらんこ」のトーマス・ゴメス、「チャンピオン」のローラ・オルブライ。ほかにメキシコの闘牛士が特別出演。
○あらすじ(同上) メキシコきっての闘牛士サントス(アンソニー・クイン)は、自らの芸に行き詰まりを感じ、18歳の愛弟子レイエス(マヌエル・ロハス)に闘牛士最高の階級マタドールを名のらせることにした。サントスは一夜、神の前にレイエスの前途を祈った。たまたま、その姿を見た社交界の女王カレン(モーリン・オハラ)はなぜか心が妖しくふるえた。翌日、サントスは再び祈りを捧げたが不吉な予感にレイエスの身を案じ、その出場を取り消した。騒然となった観衆に、報道陣に追い回されるサントスに逃げ場所を提供したのがカレンであった。2人はカレンの農園に人目を避けた。しかしカレンの愛人マーク(リチャード・デニング)によって、この隠れ家は人々に知れたため、2人はさらにサントスの友人ダヴィド(トーマス・ゴメス)の牧場へ行く。やがて2人は互いの愛情をはっきりと知り、サントスは彼女に、秘められた自分の過去を語った。サントスは18年前、愛人を失ったが、その死因は、出産の床でサントスが死んだという誤報を聞き、そのショックからであった。その時生まれたのがレイエスで、それがダヴィドの手で育てられてきたのである。この秘密を聞いたカレンは、レイエスの将来のために打ち明けようとサントスを説得する。しかしレイエスは既にダヴィドから、これを聞いていた。サントスは我が子の栄達のためと引退を決意した。次の日曜日、サントスとレイエスの妙技に大観衆は沸き、2人も晴れて親子の名乗りをあげた。
 ――自身がプロ闘牛士だった経歴を持つベティカーにとって本作は心底からの闘牛士(マタドール)とメキシコ人讃美だったに違いなく、それは社交界の席上で心因性の体調不安を起こしてうつむいたクインを酔っぱらいか、と近づいた給仕長がクインの顔を見て「……マタドール」といずまいを正す場面があるようにチャンピオン闘牛士というのは国民的英雄というメキシコ人の心情にかつてのメキシコ在住・闘牛士経験から通じているからであって、また本作のようなベタな父子人情メロドラマがメキシコ人の琴線に触れるとも信じていて(実際は筆者などのとうてい知り得ないところですが)、こういう映画になっているがベティカー自身は意図通りに仕上げられた満足のいく自信作なのではないかと思われます。ベティカーの場合ヒロインを描くと門切り型の域を出ない欠点が成功した作品でもあり、本作はクレジット上はモーリーン・オハラの方が主演なのですがだとしたら「テクニカラーの女王」オハラのもっとも魅力に乏しい主演作ではないかという難もあり、はっきり言って主人公のクインを心配して母性的に慕うようになる貴婦人の役にはまるなら別にオハラでなくてもいい役です。クインの方はさすがの存在感で、体躯の威容を誇りながら知的でデリカシーのある役をこなしてクインでなければできない役柄ですし、他のキャストも適切にメロドラマの役柄にはまっている。しかしそこが企画と題材以外に取り柄のない松竹メロドラマの標準的仕上がりみたいになっているので、メキシコ・ロケのオールメキシコ人設定のメロドラマを松竹メロドラマみたいというのも変ですが、粗悪なプリント原盤のDVDでも本格的なメキシコ・ロケの鮮やかさは伝わってくるというか屋外の自然光ロケでも平均的なハリウッド映画より陽射しの質感が一段と鮮やかなのはわかる。本物の現役スター闘牛士を半ダースばかり出演させて本物の観客をエキストラにいれた闘牛場のシーンも迫力はありますが、闘牛ドキュメンタリーを映画規模の予算で組みこんだ効果はあっても肝心の親子の名乗りが実は息子の方は育ての親から聞いていてとうの昔から知らされていた、とあっさりかたづいてしまう。満席の観衆に愛弟子を自分の息子と明かしチャンピオンを襲名させるラストはそれはそれで決まっているのですが、舞台劇の人情劇みたいな決まり方なのでこれは原作にひねりがないだろと言えばベティカー本人が原作者なので、シナリオは脚本家が起こしていますがフォックス社もベティカーもこれでよしとした上での人情劇なので、クインの苦悩は結局親子の名乗りを切り出せず息子を愛弟子に育て上げたクインひとりの取り越し苦労だったことになる。観客の眼が涙で曇る前に監督・原作のベティカー自身が涙で滑ってしまったので、直球勝負の力作が何だか間の抜けたメロドラマに終わった作品で、これだったらクインがイヌイット(エスキモー)の勇者を演じた『バレン(The Savage Innocents)』'60(監督=ニコラス・レイ)の方が印象的で、同作はゴダールの『勝手にしやがれ』'60の主人公が上映館の前を通りかかり、ボブ・ディランにノヴェルティ(コミック)曲「クイン・ザ・エスキモー(ザ・マイティ・クイン)」'67を書かせた佳作です。しかし次作『七人の無頼漢』'56に始まる西部劇7連作こそがベティカーの名を映画史に輝かせることになるので、本作で『美女と闘牛士』、いや映画界入りのきっかけになった『血と砂』'41(監督=ルーベン・マムーリアン)以来のメキシコへの借りは返したのが、ベティカーを西部劇専心に吹っ切らせる役目を果たしたのかもしれません。