アート・ペッパー - ザ・トリップ (Contemporary, 1977)
アート・ペッパー Art pepper - ザ・トリップ The Trip (Contemporary, 1977) : https://www.youtube.com/playlist?list=PLZ1dpBruamf1yrZ-gnsANmw4m7EFXdmcv
Recorded at Contemporary's studio in Los Angeles, September 15 & 16, 1976
Released by Contemporary Records, S7638, 1977
(Side 1)
A1. The Trip (Art Pepper) - 8:55
A2. A Song For Richard (Joe Gordon) - 6:17
A3. Sweet Love Of Mine (Woody Shaw) - 6:34
(Side 2)
B1. Junior Cat (Art Pepper) - 7:46
B2. The Summer Knows (Michel Legrand, Marilyn & Alan Bergman) - 7:09
B3. Red Car (Art Pepper) - 5:45
(Bonus Track)
7. The Trip (Art Pepper) (alternate take) - 12:58
[ Art Pepper Quartet ]
Art Pepper - alto saxophone
George Cables - piano
David Williams - bass
Elvin Jones - drums
*
(Original Contemporary "The Trip" LP Liner Cover & Side 1 Label)
カリフォルニア生まれで生涯、ロサンゼルスを活動拠点としていた白人アルトサックス奏者、アート・ペッパー(1925~1982)は戦後のモダン・ジャズでも何の流派にも属さない一人一派のジャズマンでした。地域的に1950年代のウェスト・コースト・ジャズの一員とされることが多いのですが、ウェスト・コースト・ジャズはマイルス・デイヴィス(1926-1991)の『クールの誕生(Birth of Cool)』1957(1949年・1950年録音・発売のSPを集成)に影響を受けた中規模編成のアンサンブルを典型とするので、ペッパーもセッションに引っ張りだこの実力と人気のあるミュージシャンでしたが、やはりロサンゼルス出身のチェット・ベイカー(トランペット・1929~1988)と資質が似て、自分のリーダー作では1ホーンによる個性的なアドリブ・プレイを本領としていました。
チェットとペッパーには共作アルバムもあり、主に麻薬禍によるトラブルから1960年代の半ば~1970年代前半に大きな楽歴のブランクがあるのも共通しています。チェットは事故で急逝するまでヨーロッパ諸国を単身放浪して楽旅する後半生を送りましたが、ペッパーは復帰してからロサンゼルス以外の日本公演やヨーロッパ公演、ニューヨーク公演にもようやく活動を広げた人です。ペッパーのニューヨーク・デビューは1977年・52歳で、シカゴ出身のサン・ラですら1961年・47歳でニューヨーク・デビューしているのを思うと、一流ジャズマンでこれだけ地元から出るのが遅かった人は珍しいでしょう。アメリカのジャズマンはニューヨークで成功しなければ一流ではない、という風潮が今でもあり、ペッパーはカムバック以前は頑にニューヨークの主流ジャズに背を向けていましたが、不遇な時期に晩年のジョン・コルトレーン(1926-1967)のアルバムを聴いて感動し、唯一信奉していたレスター・ヤング(1909-1959)以来初めて新たな音楽的指針を得たと発言しています。それまでペッパーはニューヨークのジャズはマイルスしか認めず、チャーリー・パーカー(1920-1955)のプレイは汚いと敬遠し、スタン・ゲッツ(1927-1991)は大嫌いでした。
というようなことがアート・ペッパー自伝『ストレート・ライフ』(スイング・ジャーナル社・原著/翻訳1981年刊)に本人の口から語られています。以前この自伝を詳しく紹介する文章をヤフーブログに載せようとしましたが、麻薬禍や麻薬代のための犯罪による逮捕、頻繁な入獄と麻薬更正所の往復など「掲載できない文字列が含まれています」と何度やばそうな単語や表現を改めても掲載できなませんでした。そのくらい壮絶な私生活上の問題を抱えていた、日本語で言ういわゆる「破滅型」ジャズマンだったのです。ですがカムバック後の晩年7、8年には充実した活動を送ったのは、活動不可能な期間に演奏への欲求が高まり、それが破滅に歯止めをかけて一途に音楽に向かわせたからでもあります。私生活上で一時破滅に瀕したのはチェットやゲッツ、マイルスやコルトレーンもそうでした。チェットとゲッツが親しく、ゲッツとコルトレーンが親しかったのに、ペッパーがチェットとは親しく、コルトレーンを敬愛し、ゲッツを憎悪していたのは近親憎悪めいていて面白い関係です。もっともチェットとゲッツ、ペッパーとチェットの共演は資質が似すぎて本人たちにも物足りない結果になったようで、ペッパーがコルトレーンに惹かれたのは抑制を超えた過剰な演奏と情感の過剰だったでしょう。
ビ・バップ以降のアルトサックスは黒人奏者はチャーリー・パーカー一色と言ってよいほどですが、白人奏者はパーカー派以外に、レニー・トリスターノ(ピアノ・1919-1978)に指導されてスタイルを確立したリー・コニッツ(1927-)の影響が大きな系譜をなしていました。トリスターノ~コニッツのスタイルはクール・ジャズと呼ばれましたが、同時期にマイルス・デイヴィスが白人アレンジャー、ギル・エヴァンス(1912-1988)の指導で中規模編成によるソフトなアンサンブル重視のサウンドのビ・バップを試みたもクール・ジャズと呼ばれました。マイルスはすぐにクインテット規模の編成に戻りましたが、このマイルスのクール・スタイルを1ホーン・カルテットで引き継いだと自負したのがスタン・ゲッツで、ここまではすべてニューヨークのジャズ・シーンの出来事です。マイルスの中規模編成アンサンブルはウェスト・コースト・ジャズの主流になりましたが、サンフランシスコのデイヴ・ブルーベック(1920-2012)とポール・デスモンド(1924-1977)のカルテットはトリスターノ~コニッツのコンビネーションをモデルによりポピュラーなスタイルを目指して全米一の人気ジャズ・バンドになり、マイルスよりスムーズな中規模編成アンサンブルを目指して全米的な人気を得たのがロサンゼルスのショーティ・ロジャース(1924-1994)&ヒズ・ジャイアンツで、これはウェスト・コースト・ジャズとも呼ばれ、以上すべてがクール・ジャズと呼ばれるから混乱を招きます。アート・ペッパーは17歳でベニー・カーター楽団に就職し、出征を挟んでスタン・ケントン楽団黄金時代の花形ソロイストになり、フリーランスとなってショーティ・ロジャースのレギュラー・メンバー兼ソロ活動を始めたアルトサックス奏者でした。ペッパーはブルーベック・カルテットのデスモンドとともに代表的なリー・コニッツ影響下の白人アルト奏者とされることが多いのですが、ケントン楽団でペッパーの後任者になったのがコニッツであり、レコードでコニッツの演奏を聴いていたとしてもヒント以上のものではないでしょう。非パーカー的モダン・アルトとしての類似点はありますが、相違点の方がはるかに多いのです。コニッツとデスモント、ペッパー3者の演奏を1コーラスでも聴かされて、混同することはまずありません。同世代の代表的黒人トランペット奏者、マイルスとケニー・ドーハム(1924-1972)、アート・ファーマー(1928-1999)の3人よりも、もっとサウンドそのものが違います。
このアルバムはペッパーの本格的カムバック第2作で、復帰第1作『Living Legend』1976(1975年録音)の出来にペッパー本人も、'50年代からペッパーを公私ともに支えてきたコンテンポラリー・レコーズ社主のレス・ケーニッヒも満足していたため、ペッパーにとっては今回も上手くいくか不安だったと述べています。『Living Legend』はハンプトン・ホウズ(ピアノ・1928-1977)、チャーリー・ヘイデン(ベース・)、シェリー・マン(ドラムス・1920-1984)と全員リーダー格のオールスター・カルテットでした。今回はニューヨーク出身の新進黒人ピアニスト、ジョージ・ケイブルス(1944-)、またジョン・コルトレーン・カルテットを支えた超大物ドラマーのエルヴィン・ジョーンズ(1927-2004)がペッパーとの初顔合わせとなり、ケイブルスのモーダルなピアノと、エルヴィンとのコルトレーン・カルテットの演奏を意識せずにはいられないインタープレイがペッパーを鼓舞させ、結果は前作をしのぐアルバムを制作した手応えから、1977年にケイブルスとエルヴィンとの共演でペッパー初のニューヨーク公演を行うきっかけにもなりました。ジャズ・クラブ、ヴィレッジ・ヴァンガードでの公演は7月28日~30日の録音が『Thursday Night at the Village Vanguard』『Friday Night~』『Saturday Night~』『More for Les: at the Village Vanguard Vol. 4』の4枚に分けて発売されており、本作のライヴ拡大版といえます。
アルバムのタイトル曲は1963年の作で、1964年に4年ぶりに一時的に演奏活動可能になった時にテレビ出演で初演されており、同年のライヴは発掘盤『Art Pepper Quartet '64』(Fresh Sound, 1988)に収録されています。ですがペッパーは同年末には再び休業を止むなくされました。音声だけではなく、その貴重なテレビ出演映像が残っています。
Art Pepper Quartet - Jazz Casual, May 8, 1964 (TV Broadcast) : https://youtu.be/jn8VzO-KbfQ
1. Trip
2. D. Section
3. Untitled
[ Art Pepper Quartet ]
Art Pepper - alto saxophone, Frank Strazzcri - piano, Hersh Hamel - bass, Bill Goodwin - drums
2013年に逝去した大御所ジャズ・ライターの岩浪良三氏は多くの来日ジャズマンを親日家にした貢献者でしたが、日本では'50年代のアルバムで絶大な伝説的人気(世界的にそうだったのはカムバック・アルバムのタイトルからでもわかります)があったペッパーが1977年の初来日以来79年、80年、81年と来日し、1982年6月、脳溢血から享年56歳で逝去するまで30枚もの新作が制作・発売された晩年に、もっともペッパーの新作を推挙した人でした。ペッパーの活動再開は絶大に歓迎されましたが、アルバムの出来は'50年代の作品には及ばない、というのが大半の世評でしたが、岩浪氏はカムバック後のペッパーの方が良いと譲らず、結果ペッパーの新作の日本盤ライナーノーツは毎回岩浪氏になり、岩浪さんが褒めてるんじゃ当てにならないぞ、とレッド・ツェッペリンの日本盤ライナーのようなことになりました。その岩浪氏がペッパー逝去後に、カムバック後の作品から必ず最高傑作と絶讃したのがこの『The Trip』でした。
岩浪氏の絶讃もこのアルバムには妥当で、ペッパーの'50年代のアルバムと比較するより、70年代のメインストリーム・ジャズがあるべき姿として、ジャッキー・マクリーン(1931-2006)やソニー・ロリンズ(1930-)より5歳、コニッツより2歳、マイルスやコルトレーンより1歳年上のペッパーがこれほど若々しく瑞々しい演奏をしているのは、ジャズのクロスオーヴァー化がめざましかった当時ではアナクロニズムですらありました。ペッパーにそれが可能で、リスナーがペッパーにはそれを許したのは、'50年代に3年間、'60年代に7年間もの活動休止期間があったからとも言えます。ペッパーが演奏しているのは、本来なら1964年の段階で演奏したかったことが持ち越されたことでした。それから12年も経った『The Trip』は本来ならコルトレーンやロリンズ、マクリーンらの'60年代の諸作に相当するような作品でした。
実際にカムバック後のペッパーはインタビューのたびにマクリーンとの競演を熱望する発言をしており、A3ではマクリーン1967年録音のブルー・ノート盤『Demon's Dance』からトランペット参加のウディ・ショウ(1944-1989)の書き下ろし曲を取り上げています。ペッパーはマクリーンとは面識はなく、敵視していたチャーリー・パーカーの愛弟子だったマクリーンへの共感は意外な気もしますし、ペッパーの晩年にはマクリーンは教職に専念していて共演はかないませんでしたが、やはりパーカー派黒人アルト奏者のソニー・スティット(1924-1982)とはアルバム2枚を競演し、ライヴでもステージを共にしています(自伝『ストレート・ライフ』エピローグはスティットと競演した時の感慨で終わっています)。奇しくもペッパーとスティットは同年に、最後まで病苦を押して活動して急逝します。マクリーンもパーカー派アルトながら、爆発的にエモーショナルな演奏はパーカー派から逸脱しており、やはりパーカーの影響から苦心して抜け出したスティット同様、ペッパーには自分のキャリアの曲折と重ねていました。このマクリーンのアルバムからの曲を始めとして『The Trip』は選曲も抜群なアルバムで、A1、B1、B3はペッパー自作曲で3曲とも変型ブルースですがリズムに工夫があり、A1は6/8のワルツ・タイム、B1はアーシーなミドル・テンポ、B3は'60年代風の8ビートのジャズ・ロックとなっています。
A2はペッパーの旧友だったトランペット奏者、ジョー・ゴードン(1928-1963)オリジナルの名曲(2作しかないゴードンの第2作『Lookin' Good!』1961年に収録)で、ゴードンはシェリー・マンのバンド・メンバーでツアー中に宿泊先のホテル火災で焼死しましたが、パーカー晩年の共演やセロニアス・モンクのライヴ盤『At the Blackhawk』1960で知る人ぞ知る名手でした。B2は1971年のアメリカ映画『おもいでの夏(Summer of '42)』の主題曲で、ベタなアメリカ歌謡曲ながら才人ミシェル・ルグランの名曲です。ですがペッパーはA2やB2のような短調の曲をやらせると絶妙で、この2曲のムードは50年代のペッパーのプレイから遠くありません。同じ短調でもウディ・ショウ(やはり地下鉄事故が原因で不運な死を遂げたトランペット奏者です)の名曲A3は、8ビートを基準としたラテン・リズムをエルヴィンがつい得意のポリリズム解釈でシンコペーションを多用してしまい、カルテット全体のリズムが不安定で、ペッパーもソロの出だしは良いフレーズから入っていますが、ペッパー本人も含めてピアノのケイブルス以外のメンバーのリズムに難があります。この曲の演奏は没テイク水準なのですが、マクリーンのアルバムを先に知らないで聴く人なら曲の良さで聴いてしまうだけの名曲です。マクリーン盤のテンポはペッパーより速く、作者のショウは良いがマクリーンのソロはいまいち切れが悪いものでした。するとあまり良くないペッパー盤のアルトサックス・ソロもそれなりに健闘した結果に思えます。ただしマルチトラック録音のポップスやロックならドラムスとベースは差し替え物でしょう。明らかにフィルで外して拍の頭が裏返えりそうなのを無理矢理小節に押し込んでいます。
先に述べた通り、このアルバムのスタイルは'60年代のメインストリーム・ジャズのもので、'70年代には微妙に古いものでした。ですが、'60年代をほとんど私生活の問題で棒に振った'50年代ジャズマンのペッパーにとっては失ったキャリアの懸命の取り返しの意味があり、このアルバムの瑞々しい若々しさや切迫感、訴求力もそこから生まれてきたものです。それはペッパー本人にはどうあれ、同世代のゲッツやベイカーと共通し、早逝したデスモンドには訪れず、リー・コニッツには上手くいかなかった課題でした。そしてペッパーには余命は5年半もなかったのですから、カムバック後の7年間に残した30枚あまりのアルバムは1枚1枚が遺作になる覚悟があったと思えます。
(旧稿を改題、手直ししました)