ジャッキー・マクリーン - プレゼンティング・ジャッキー・マクリーン (Ad lib, 1956)
ジャッキー・マクリーン Jackie McLean - プレゼンティング・ジャッキー・マクリーン Presenting…Jackie McLean (Ad lib, 1956) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PLEyxWPyoryRJjmUH0QJ1YPjL7vkpOhPTt
Recorded at New York, October 21, 1955
Released by Ad lib Records Ad lib 6601, 1956
Reissued by Jubilee Records Jubilee 1064 as The Jackie McLean Quintet, 1958
(Side A)
A1. It's You Or No One (Styne-Kahn) - 6:48
A2. Blue Doll (J.McLean) - 6:57
A3. Little Melonae (J.McLean) - 6:26
(Side B)
B1. The Way You Look Tonight (Kern-Fields) - 6:27
B2. Mood Melody (Mal Waldron) - 6:53
B3. Lover Man (Davis-Ramirez-Sherman) - 6:34
[ Personnel ]
Jackie Mclean - alto saxophone
Donald Byrd - trumpet expect B3
Mal Waldron - piano
Douglas Watkins - bass
Ronald Tucker - drums
*
(Original Ad lib "Presenting…Jackie McLean" LP Liner Cover & Side A Label)
ジャッキー・マクリーン(アルトサックス・1931-2006)は1950年代~60年代のモダン・ジャズにあってニューヨークの黒人ジャズの主流アルトサックス奏者では日本やヨーロッパ諸国では最高の人気を誇った人で、ロサンゼルスで活動していた白人ジャズのアルトサックス奏者のアート・ペッパー(1925-1982)に近い立場の人でした。つまりアメリカ本国ではキャノンボール・アダレイ(1928-1975)やフィル・ウッズ(パーカー派白人アルトサックス奏者・1931-2015)をA級アルトサックス奏者とすれば何となくB級扱いされていた人で、ペッパーの場合も同世代のリー・コニッツ(1927-)やポール・デスモンド(1924-1977)がA級白人モダン・アルト奏者とされていたのに50代までロサンゼルス以外には進出できなかったのと似ていました。ペッパーは黒人アルト・スタイルの祖チャーリー・パーカー(1920-1955)をパーカーの生前も歿後も敵視していましたが、パーカー派アルトとして割を食っていたソニー・スティット(1924-1982)やマクリーンには深い共感と戦友意識を持っていたのが晩年の自伝『ストレート・ライフ』には吐露されています。スティットとの共演のようには実現しませんでしたが、余命宣告されていた晩年の活動中にペッパーがもっとも強く望んでいたのが当時教職に専念していて半引退状態だったマクリーンとの共演だったのも、ペッパー自身がインタビューでくり返し発言していました。
マクリーンとペッパーが本国ではいまいちなのにもかかわらず日本とヨーロッパで大人気だったのは、青年時代の彼らのアルバム・ジャケットがいかにもジャズマン然としたかっこいいポートレイトが多かったのもありましたが、マクリーンやペッパーの演奏は直情的でストレートな表現で強く情感に訴えかけてくる作風だったのが決め手でしょう。コニッツやデスモンドも必ずしもクール一辺倒ではなく、演奏者の感情表現とは別の次元で一定のムードを表現していましたが、ペッパーの場合はペッパー自身の高揚感や陶酔感がむき出しになっています。それでもペッパーは演奏技術に隙のないすさまじいテクニシャンでしたからまだしもですが、キャノンボールやウッズの後にマクリーンを続けて聴くと、不安定なピッチや調子っぱずれなフレーズの連発に、本当はあまり上手くないだけなのではないのかと困ってしまうこともあります。音色や音程も良いとはいえないしフレーズもよれる、リズム感もどこかあやしく走ったりもたったりする、それでいて妙に切迫感があり、それはマクリーンの場合は存在感という形容に置きかえてもいいものでした。演奏の背後に断固とした個性を感じさせるにもかかわらず演奏家としては二流のレッテルを貼られてきましたし、事実上引退同様だった時期もありましたが、カムバック後にはようやくアメリカ本国でも巨匠として評価が定まったことでもマクリーンとペッパーのキャリアは似ていました。
マクリーンのレコーディング・デビューはマイルス・デイヴィスの『Dig』(プレスティッジ・レコーズ、1951年10月録音)で、幼なじみの親友ソニー・ロリンズ(テナーサックス・1930-)とともに起用されましたが、当時のマクリーンとロリンズとの力量の差は歴然としていました。大器ロリンズはすぐに独立したので、マクリーンは引き続きマイルスの『Young Man with a Horn (Miles Davis Vol.1)』(ブルーノート・レコーズ、1952年5月録音)のメンバーになり、空白の3年後『Miles Davis and Milt Jackson』(プレスティッジ、1955年8月録音)のセッションに呼ばれます。『Dig』と『Young Man with a Horn』を較べると、同じ曲がタイトルを変えてマイルス作だったりマクリーン作になっていたりしています。これはどうやらプレスティッジ・レコーズがマクリーン作の曲でも便宜上リーダーのマイルス作にクレジットしてしまったようで、いかにも杜撰な当時のジャズ界らしい話です。ステージ上でもマクリーンはいじられ役だった、とマイルス自身が晩年の自伝で白状しているくらいで、3年ぶりの『Miles Davis and Milt Jackson』でも録音予定の全4曲のうち2曲録音して駄目出しされたマクリーンがキレて帰ってしまい、残りの2曲はマクリーン抜きで録音を済ませていますから、マイルスの強引さもあったのでしょう。パーカーが急逝したのは1955年3月でしたが、晩年ほとんど仕事に恵まれず窮状に陥っていたパーカーのために、最晩年の弟子だったマクリーンがパーカーの一番弟子だったマイルスに助力を訴えるも、知ったことかとすげなくされて以来の因縁もあったようです。『Miles Davis and Milt Jackson』の翌月には名盤の誉れ高い新鋭白人バップ・ピアニストのライヴ盤『ジョージ・ウォーリントン・クインテット・アット・カフェ・ボヘミア』(1955年9月録音)に参加、メンバーはリーダー以外は黒人で、ドナルド・バード(トランペット)、ポール・チェンバース(ベース)の2人はデトロイトから出てきたばかり、ドラムスのアート・テイラーはロリンズ同様ニューヨークの下町ジャズ仲間でした。そして翌月の1955年10月、早くもマクリーン名義の初のリーダー・デビュー作であるこの『プレゼンティング・ジャッキー・マクリーン』、通称「猫のマクリーン」(別ジャケットによる再発盤も猫のイラスト)が録音されます。翌1956年1月にはプレスティッジ移籍第1作『Lights Out !』、チャールズ・ミンガス・ジャズ・ワークショップの新メンバーとして大傑作『直立猿人(Pithecanthropus Erectus)』に参加し、プレスティッジでの第2作『4, 5 and 6』(1955年7月録音)は輸入盤が話題を呼び、即座に日本盤も発売されて、日本のジャズマンにも大学生中心のジャズ・リスナーにも一躍人気アーティストとなりました。
……と追っていくと一見順風満帆のようですが、1952年と1955年の間のブランクは兄貴分のマイルス同様ドラッグ絡みで活動もままならず、またミンガスのバンドもミンガスからのシゴキがきつすぎて『直立猿人』1枚で辞め(その後も助っ人参加しますが)、プレスティッジには1956年と1957年の2年で9枚のリーダー作(1957年にはジュビリーにも1作)、サイドマン参加で9枚、さらにアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズのメンバーとして6枚に参加していますから、1956年~1957年の2年間だけで26枚のアルバムに携わったことになります。これはジョン・コルトレーンの1957年~1958年の2年間で40枚には及ばずとも、当時売れかけの下っ端ジャズマンがどれだけ過酷な仕事量を科せられたかを物語るもので、マクリーン自身がこの時期のアルバムを「シチューを作るように録音していた」と嫌った一因でもあります。ちなみにマイルスのバンドとミンガスのバンド、アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズはモダン・ジャズの三大名門バンドですが、そのうち二つは参加したジャズマンは多くても(ビル・エヴァンスですらマイルスとミンガスの両方に参加しています)、三つとも在籍経験があるのはマクリーン以外にはいないのも記憶されていいことでしょう。
マクリーンの日本やヨーロッパでの人気はペッパー同様、短調の曲のレパートリーで切々と訴えかけてくる持ち味にあり、このソロ・デビュー・アルバムではビリー・ホリデイに書き下ろされた曲でパーカーゆかりのレパートリーになる「Lover Man」がそれに当たります。この曲ではドナルド・バードのトランペットを休ませて、アルトサックスのワンホーンだけで6分半の長丁場を聴かせますが感情表現にやりすぎが目立ち、しかも他のメンバーまで巻きこんで乗せてしまうのもマクリーンらしい愛嬌です。ミンガスのバンドでの同僚でもあったマル・ウォルドロン(1925-2002)はビリーの1957年~歿年(1959年)までお抱えピアニストになりますが、こんなピアノを歌の伴奏で弾いたらビリーが怒ったでしょう(ソロはなかなか良いのですが)。ウォルドロンはA1を筆頭にギターのように軽やかで淀みない単音のピアノ・ソロで意外な実力を見せますが、ホーンのバックでは重くなりがちで単調に聴こえるのが難点です。ミンガスやエリック・ドルフィーとではその鈍重さがプラスに働きましたが、マクリーンとウォルドロンのコンビは後には「Left Alone」も作るので、あれほどではありませんが全体的にはあまりプラスに働いているとは言えない重さが気になります。ベースのダグ・ワトキンス(ポール・チェンバースの従兄弟)、ドラムスのベン・タッカーは好演で、特にタッカーのドラムスの等間隔のバスドラやスネアを排した非可遡的なシンバル・ワークは1955年では先進的で、このスタイルならフリー・ジャズにもいけます。ですがこのアルバムの影の主役はドナルド・バード(1932-2013)で、アルトとトランペットが交差するテーマ処理やソロ・オーダーなど全体的なアレンジはバードによるものでしょう。この前月のジョージ・ウォーリントン・クインテットのライヴ盤でもオリジナル曲の提供とアレンジはバードで、今回はAB面のトップにスウィンギーなスタンダード、A2・A3はマクリーンのオリジナルでA2は本作唯一のブルース、A3はすでにライヴではマクリーンの代表曲と定評あったもの(後にマイルスやコルトレーンも取り上げます)、B2はウォルドロン提供曲、そしてB3はトランペットの抜けたアルトサックスのワンホーンによる「Lover Man」になりますが、マクリーン自身の演奏はまだ未熟でもこのアルバム構成の巧さやまとまりは次のプレスティッジからのアルバム9枚には見られないもので、あえて自分が抜ける曲を配置するところまでアレンジャー・タイプのプレイヤーだったバードの腕前でしょう。バードさんはアレンジと作曲(元ネタのある曲が多いですが)の才人で、演奏もスタンダードのテーマを吹くとさり気なくうまかったりするので粋な人なのですが、アドリブもスムーズでそつないのでスタイリッシュにまとまっているものの創造力の飛躍には欠けるきらいがあります。それが破れかぶれのマクリーンと良いバランスになっているかというと、白人ピアニストのウォーリントンのバンドでは成功していましたが、全員同世代の黒人メンバーの本作ではアルバムのまとまりと引き換えに相殺しあっているように聴こえます。マクリーンのプレイヤーとしての開花は次作のプレスティッジのアルバムから、真のリーダー・デビューは1959年のブルー・ノート移籍以降という評価がマクリーン自身も欧米諸国でも有力なのも根拠がなくはありませんが、24歳の初アルバムでこの出来なら、多少危なっかしい勢い任せの演奏も含めて輝かしくも瑞々しいデビュー作ではありませんか。
(旧稿を改題・手直ししました)