人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

スーサイド Suicide (Red Star, 1977)

スーサイド Suicide (Red Star, 1977)

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スーサイド Suicide - スーサイド Suicide (Red Star, 1977) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PLEvr99j7ruPz6rLqMcIFM4wb-7hwK2f7C
Recorded at Ultima Sound, Blauvelt, New York, 1977
Released by Red Star Records Red Star RS1, December 28, 1977
Produced by Craig Leon & Marty Thau
All songs written by Alan Vega and Martin Rev.
(Side one)
A1. Ghost Rider - 2:34
A2. Rocket U.S.A. - 4:16
A3. Cheree - 3:42
A4. Johnny - 2:11
A5. Girl - 4:05
(Side two)
B1. Frankie Teardrop - 10:26
B2. Che - 4:53

[ Suicide ]

Alan Vega - vocals
Martin Rev - keyboards
Suicide - arrangement
with
Craig Leon and Marty Thau - producer
Larry Alexander - engineer
Timothy Jackson - artwork

(Original Red Star "Suicide" LP Liner Cover & Side 1 Label)

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[ スーサイド (Suicide) ]

スーサイド(Suicide, 正しい発音はスーァサイド)は、アメリカ合衆国のロックバンド。
○出身地=アメリカ合衆国, ニューヨーク州ニューヨーク
○ジャンル=ノー・ウェーブ, アート・パンク, アート・ロック, ニュー・ウェイヴ, インダストリアル, シンセパンク
○活動期間=1971年~2016年
○メンバー=アラン・ベガ, マーティン・レヴ

●概要

 アラン・ベガ(ボーカル)とマーティン・レヴ(シンセサイザー、ドラムマシン)の2人によって、1971年にニューヨークで結成された。マーティン・レヴの繰り出す無機質なシンセサイザーの音に、アラン・ベガの暴力的ともいえる過激なボーカルが絡み合う独特のサウンドを展開する。
 一般的に知名度は低いが、1977年に発表されたファースト・アルバム『スーサイド』は、現在のテクノミュージックやロックにとっても、革新的な音楽であるとされ、一部では評価が高い作品である。「ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・ベストアルバム500」に於いても、441位にランクイン。
 2016年、アラン・ベガが逝去したためバンドは解散となっている。

●アルバム

○Suicide (1977年)
○21½ minutes in Berlin/23 minutes in Brussels (1978年)
○Suicide (second album) (1980年)
○Half Alive (1981年)
○Ghost Riders (1986年)
○A Way of Life (1988年)
○Why Be Blue (1992年)
○Zero Hour (1997年)
○American Supreme (2002年)
○Attempted: Live at Max's Kansas City 1980 (2004年)
(以上、日本語版ウィキペディアより全文)

 スーサイドというロック・デュオの日本語版ウィキペディアでの扱いはあっさりしたものですが(これは2015年時点と現在の記載を合わせたもので、現在では概要のうち第1段落は削除されており、アラン・ヴェガ逝去の段落が追加されています)、このデビュー・アルバムに限って言えば、英米メディアでの評価は非常に高いものです。英語版ウィキペディアによれば、「Pitchfork. media」による1970年代ベスト・アルバム100選では39位、「Rolling Stone」誌による歴史的名盤500選(2012年)では441位、アラン・ヴェガの逝去を報じたニューヨークの週刊誌「Entertainment Weekly」(2016年7月17日号)では「エレクトロニック・ミュージックの金字塔(a landmark of electronic music)」と評され、総合音楽サイト「AllMusic」では「ポスト・パンク、シンセ・ポップ、そしてインダストリアル・ロックの青写真となった(provided the blueprints for post-punk, synth pop, and industrial rock.)」と位置づけられ、全米ベストセラー・ロングセラーになったロバート・ダイムリー編のCDガイドブック『死ぬまでに聴くべき1001枚のアルバム(1001 Albums You Must Hear Before You Die)』2005にも選出(同書には'60年代オルタナティヴ・ロックの元祖と言えるモンクス、ザ・シャッグスキャプテン・ビーフハートなども選出)されており、「Rolling Stone」誌では「計り知れない影響をインダストリアル・ダンス、ノイズ、テクノ、アンビエント、そして1980~1990年代のエレクトロニック・シーン全体に与えた(an unmeasurable influence on the industrial dance, noise, techno, ambient, and electronic scenes of the 1980s and 1990s)」とされています。主要な英米メディアでの評価を列挙すると、

[ AllMusic.com (US) ] ★★★★☆
[ Christgau's Record Guide (US, 1981) ] C+
[ Encyclopedia of Popular Music. com (US) ] ★★★★
[ The List. com (UK) ] ★★★★
[ Pitchfork. media (US) ] 9.1/10
[ Q (UK. Magazine) ] ★★★★
[ The Rolling Stone Album Guide (US) ] ★★★
[ Punknews.org.com (UK) ] ★★★★★
[ Select (UK. Magazine) ] 4/5
[ Spin (US. Magazine) ] 10/10
[ Spin Alternative Record Guide (US) ] 9/10
[ New Musical Express (UK. Magazine) ] Positive
[ Time Out (UK. Magazine) ] Positive
[ Melody Maker (UK. Magazine) ] Positive
[ Sounds (UK. Magazine) ] Very Good

 と、ニューヨーク・パンクの先駆的バンド、ニューヨーク・ドールズのマネージャー(ドールズのイギリスでのマネジメントはセックス・ピストルズ仕掛人マルコム・マクラーレンでした)だったマーティ・タウ設立の「Red Star Records」第1作のインディー作品であり、商業的成功を収めたアルバムでもないにもかかわらず、ロングセラーを続けて非常に多くの批評の対象になっていることからも注目の高さがうかがえます(ニューヨークの「The Village Voice」紙のレコード時評をまとめた1981年の『Christgau's Record Guide』では「C+」と「期待外れ」「こけおどし」扱いの評価もされていますが)。同時期のアメリカのポストパンク・バンドのアルバムで言えば、DEVOやB-52'sのようにデビュー作で決定的な評価を受けたアーティストになりますが、スーサイドのアルバムはDEVOやB-52's(ジョン・レノンがB-52'sのデビュー作を聴いてカムバックを決意したのは有名です)のようにポップ・チャートには上がらない、当初はニューヨークのアンダーグラウンドなパンク・シーンでしか知られていませんバンドでした。しかもラモーンズやブロンディ(本作の共同プロデューサー、クレイグ・レオンのプロデュース作品です)、パティ・スミス・グループ、トーキング・ヘッズテレヴィジョン、ジョニー・サンダース&ハートブレイカーズリチャード・ヘル&ヴォイドイズらニューヨーク・パンクの中にあっても、スーサイドはハッタリめいたバンド名、そもそもバンドの体をなしていない編成とともに、何だかよくわからない存在だったのです。

 ヴォーカリストとトラックメイカーのデュオというのは1980年代半ばには珍しくなくなりましたが、ギター、ベース、ドラムスの標準的編成を踏襲していたニューヨーク・パンクの中で、シンセサイザーとリズムボックスのサウンド担当1名・ヴォーカリスト1名というスーサイドは、ロック畑で活動したフォーク・デュオを除けば、アメリカでは前例のない存在でした。ドイツには1970年代初頭からノイ!、クラスターなどの先駆的なエレクトロニック・デュオがいましたし、ノイ!のメンバー2人が在籍したクラフトワークも一時期デュオ形態でしたが、こうしたドイツの実験的ロックはヴォーカル担当とサウンド担当に分かれているのではなく、インストルメンタル主体のサウンド実験デュオだったのです。しかも精緻な音楽性を方法的に追求していたドイツの実験的ロックに対して、一見すると類似しているように見えながら、スーサイドの音楽やパフォーマンスは極度に素人くさく、直観的な思いつきに近いものでした。

 当時はデイヴィッド・ボウイが1977年1月発売のドイツ録音作品『ロウ(Low)』(全英2位・全米11位)についてノイ!やクラフトワークからの影響を公言していましたから、アート系ロックを志向していたスーサイドの2人も当然これらのドイツの実験的エレクトロニック・ロックを聴いていたでしょう。ですがそこから、リズムボックスとシンセサイザー(実質的にはオルガン)を基本にデュオ形態でひと跳びにパンク・バンドをやってしまうという発想はスーサイドならではのものでした。スーサイドの登場によってバンド編成だったサンフランシスコ・パンクのクロームもデュオ形態で再デビューし、低価格のポリフォニック・シンセサイザーの普及やDTM技術の普及にともない、1980年代にはSPKからペット・ショップ・ボーイズ、ヒップホップやトランスにいたる無数のエレクトロニック・アーティストがインダストリアル・ノイズ系から歌謡ポップスまで雲霞のように登場し、音楽手段の安易化にともなって良くも悪しくも悪貨が良貨を駆逐するの喩えのように、世界中の音楽界が魑魅魍魎のにぎわいになります。韓国のポンチャックから、プロトゥールスの開発以降日本発で世界的に普及したヴォーカロイド音楽(これを「ボカロ」と略す自体が「ラノベ」と同様B発音とV発音の無遠慮な混同を示す日本語表記の粗略化現象です)までがその末流で、もはや歯止めの利かない膨張を続けています。
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 スーサイドはその元祖だったとも言えるアーティストでしたが、現在のようにスマートでスタイリッシュな指向が主流のエレクトロニック音楽とはまるで似ておらず、もっと野蛮でヤケクソなヤクザなパンクスだったのがデビュー当時の宣材写真、ステージ写真で確認できます。サングラスをかけたドラッグ密売人のようなキーボード奏者がマーティン・レヴ、ロックンローラー然とした出でたちで地面にひっくり返っているのがヴォーカリストのアラン・ヴェガさんです。ヴォーカルとキーボードのごく一部のパート以外はすべてカセットテープのカラオケでライヴをやっており、レヴさんはステージ上でラジカセのスイッチを押して腕組みをしているだけでキーボードはほとんど飾りだけだったようです。カラオケ歌唱も後年にはアイドルから演歌歌手まで当たり前になりましたが、スーサイドの時代にはロックのライヴとしては素人の学芸会じみた異常なステージで、営業ならともかくシリアスなパフォーマンスでは誰もやってはいないことでした。思いつけば誰でもできますが暗黙の了解で誰もがやらなかったことを堂々とやってしまったのがスーサイドで、楽曲もサウンドもほとんど曲の体をなしていないほどスカスカで最小限のサウンドすら入っていない素人くさいものばかりか、ヴェガさんの歌も何かの間違いのように下手も下手、しかもシラフとは思えないほど過剰なエコーがかかっています。曲にすらなっていないというのは普通のミュージシャンの神経ではできないので、スーサイドはその名の通りリスナーを生理的に不快にする音楽を目的とする点にエレクトロニック・パンクとしての面目をかけていたと言えるでしょう。ファースト・アルバム発表半年後のライヴ音源はスタジオ録音に輪をかけて壊滅的な、ステージ上でのスーサイドのパフォーマンスを伝えてくれます(ベルギー人主催者はバンド名を「スイサイド!」と発音して紹介しています)。
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Suicide - 23 Minutes Over Brussels (Red Star, 1978) : https://youtu.be/0rXJCl876Lk
Side 2 From Ltd. LP "21½ Minutes In Berlin / 23 Minutes In Brussels"
Recorded live at the Ancienne Belgique, Brussels, June 16, 1978
Released by Red Star Records FRANKIE 1, 1978
1. Ghost Rider
2. Rocket USA
3. Cheree
4. Dance
5. Frankie Teardrop

 ニューヨーク・パンクはヴェルヴェット・アンダーグラウンドに代表される1960年代末のニューヨークのアンダーグラウンド・ロックから地続きで発生したものですが、ブルックリンで生まれ育ち、美術を学んでいたアラン・ヴェガ(1938-2016)がバンドを始めたきっかけは、元ヴェルヴェットのジョン・ケイルのプロデュースで1969年にデビュー作を発表したデトロイト出身のストゥージズの同年8月のニューヨーク公演だったそうです。ストゥージズには当時では異様な、床をのた打ち回り、割ったビール瓶で血まみれになりながら歌い、客席にダイヴする反則パフォーマンスで有名なヴォーカリストがいました。そのほとんど歌わないで暴れまわるだけのヴォーカリストが言わずと知れたイギー・ストゥージこと後のイギー・ポップ(1947-)さんで、ヴェガさんのステージ・パフォーマンスやヴォーカル・スタイルもイギーさんに大きな影響を受けたものです。ヴェガさんは亡くなるまで生年不詳でしたが、プレスリーより3歳年下なだけ、かまやつひろしさんと同年生まれ、内田裕也さんより1歳年長、ジョン・レノンよりも2歳年長で、イギーさんよりも9歳年長と、何とスーサイドのデビュー・アルバム当時39歳のパンク・ロッカーだったのです。相棒のマーティン・レヴ(1947-)と知り合っていたのは1966年だったそうですから、ロカビリー時代にデビューしていてもおかしくない戦前生まれのヴェガさんはビート・グループやブルース・ロック、サイケデリック・ロックの時代にもすでに出遅れていた、遅咲きもきわまりないロックンローラーでした。

 普通これほど素人くさく歌が下手にもほどがある39歳の新人が、しかもこんなに素人丸出しのスカスカのサウンドをバックに、安いカラオケ機材のようなエコーを最大に効かせて人前で歌う度胸はないでしょう。日本が世界に誇る最大のロック・バンドは裸のラリーズですが、ラリーズ水谷孝氏が肩を並べる英米ロックのヴォーカルはスーサイドのアラン・ヴェガさんくらいのものです。ラリーズもヴェルヴェットの系譜を引き継いだバンドですが、ラリーズとスーサイドのヴォーカルの類似は絶句するほど近いものです。それほど極端な、稀少なスタイルを誇っていたバンドが裸のラリーズであり、スーサイドでした。しかし2ギターにベース、ドラムスと標準的編成だったロック・バンドのラリーズに較べても、カラオケでパンク・ロックのライヴをやってしまうスーサイドの異様さは度を越したものです。ラリーズは客を一切無視したステージとレコード発売を一切拒否した活動で超越的な存在でしたが、スーサイドのステージはヤジやブーイングを飛ばす客とアラン・ヴェガの乱闘が日常茶版の喧嘩上等状態だったと伝えられます。スーサイド結成の1971年からアルバム・デビューの1977年末までそんな調子だったそうですから、すでにヴェガさんが30代のアマチュア・ロッカーだったのを思いあわせるとそんなバンドがよくまあ続き、レコード・デビューできたなと驚嘆すら覚えます。

 スーサイドはプレ・ニューヨーク・パンクの先駆的バンド、ニューヨーク・ドールズのマネージャー、マーティ・タウに見出されて新レーベル、レッド・スターの第1弾アーティストとなり、パティ・スミス・グループ、ラモーンズ、ブロンディ、トーキング・ヘッズテレヴィジョンら初期のニューヨーク・パンクに分類されたのですが、ロックン・ロールのクリシェの歪曲による破壊性によって、基本的にはギター・バンド形態だった他のパンク・バンドとは一線を画していたのは一聴してすぐわかります。チープなVox社製電気オルガンの使用はやはりVox社製電気オルガンを使っていたドアーズを連想させますが、ドアーズのようにVox社のオルガンの音色を逆手に取った巧妙な音楽的洗練や華麗さは一切なく、オスティナート(リフ)しかオルガンを弾かない上に、リズムトラックをなすテープ・ループはぐちゃぐちゃかつスカスカにノイジーな音響処理をされ、リズムの輪郭が崩れるほどエコーのかかったヴォーカルがもともと不鮮明なリズム・ループに乗せて呻いたりわめいたりしているのがスーサイドで、大都市の産業廃棄物を連想させるような、もはやロックどころか音楽と呼ぶにも限界の、異形のサウンドを出していました。これもアナログ時代の限界のあったDTM的手法によるテープ式リヴァーブによるものなのですが、同期不可能な機材条件による複数トラックのリズムの乱れは目にあまるほどです。それもスーサイドでは異形のサウンドの達成に不可欠な要素でした。制御しきれない機材によって素材としては貧弱きわまりない要素しかないサウンドの異化感覚がいや増しているのです。これはスーサイドの意図したものか、アイディアと機材と演奏力不足の偶然の相乗効果か、にわかには断じがたいものがあります。

 1977年には本格的なドラム・マシーンやライヴに対応できる同期システムのプログラミング機材も開発途上だったので、スーサイドの場合はチープなリズムボックスを用いてアナログ機材による多重録音のテープ・ループをリズムトラックにし、手弾きのオルガンでライヴをこなすのが精一杯でした。アラン・ヴェガのヴォーカル・スタイルはジーン・ヴィンセントを引き合いに出されることもありますが、ヴィンセントのエルヴィスのパロディのような喘ぎ声(ヒーカップ)唱法とエコー過剰な「ビバップ・ア・ルーラ(Be-Bop-A-Lula)」1956のヴォーカル処理は確かにスーサイドの先例をなすものです。決定的な違いはヴィンセントの手法はエンターテインメントの追求だったのに対し、スーサイドのそれは慣習化したロックへの悪意に満ちたアンチテーゼだったことです。客との乱闘もスーサイド流のパフォーマンスだったとすれば、ラジカセで延々カラオケを流しているだけのスーサイドのサウンドもそれに見合った殺気立ち荒廃した、およそ曲にもなっていないようなものなのもスタンスとしては一貫していたと言えるでしょう。それが音楽だけを定着させたレコードというメディアにやっと結実させたのがスーサイドのデビュー作だったので、アルバム・デビューまで7年かかったスーサイドのスタジオ盤第2作が3年かかったのはむしろ奇跡的とも言えます。スーサイドのデビュー作は本来なら村八分の『村八分ライヴ!』1973のように解散記念アルバムになる条件の方が大きかったので、ヴェガの逝去まで続いたスーサイドの活動はむしろアラン・ヴェガとマーティン・レヴそれぞれのソロ活動の資金繰りのためだったと思えます。

 セカンド・アルバム(カーズのリック・オケイセックがプロデュース)以降スーサイドはリズムの整理された音楽らしい音楽になりますが、このデビュー作だけは音楽的突然変異として伝説的アルバムになり、ブルース・スプリングスティーンのギター弾き語りによる大ヒット作『ネブラスカ(Nebraska)』1982収録曲「ステイト・トゥルーパー(State Trooper)」はスプリングスティーン自身がスーサイドの「Frankie Teardrop」からの影響と公言したことから、ロックのメインストリームにまで徐々に影響力のある規模に浸透したアルバムとされるようにになりました。アメリカの1970年代パンクはイギリスのように階級闘争的アティテュード(クラッシュは早くから高く評価されましたが、あくまでイギリス特有の現象とされました)よりも、ロックン・ロール・リヴァイヴァルとしてメディア解釈されていました。パンク・ロックの闘争性がアメリカでも理解されるのは1980年代末のグランジの登場までかかります。ですが、スーサイドのロック感覚はそうしたロック基準からもあまりに逸脱しているのです。本来スーサイドが1作きりで終わるコンセプトのバンドだったのは、ヴェガとレヴが以降はスーサイドよりソロ活動に重点をおいて、スーサイドとは異なる個人的な音楽性にシフトしたことからも推察できます。それほどこのデビュー作は極端に一回性の強いアルバムで、本人たちにもここから発展させるのが不可能なほどの表現に全力をかけたものでした。スーサイドそのものが一回性のコンセプトだったと思えば、これが通常のバンド作品ではないのも納得がいきます。

 アメリカのアーティストは、文学、美術、音楽、どのジャンルでもデビュー作で燃焼し尽くしてしまうタイプが多いのが特徴です。才能を応用して熟達していくより、デビュー作で才能のすべてを使い切ってしまう例が他国よりも際立って多く見られます。特に小説家には、記念碑的な処女作の後は一気に凡庸化するか、完全な沈黙にすら陥ってしまう作家が多数を占めるほどで、ヘンリー・ロスの『眠りと呼ばん』1934、J.H.バーンズの『画廊』1947、ラルフ・エリソンの『見えない人間』1952は生涯ただ1作の渾身の処女作でした。ジョセフ・ヘラーの『キャッチ-22』1961、ケン・キージーの『郭公の巣』1962も1冊だけの例に入ります。アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)でさえ連作短編集『われらの時代に』1925、処女長編『日はまた昇る』1926で終わっていたくらいで、没後発見された未定稿の方が生前発表作品より膨大だった、という例もありました。

 ニューヨーク・パンクで言えばテレヴィジョン=トム・ヴァーレインは1977年の『マーキー・ムーン(Marquee Moon)』1作が生涯のベスト・アルバムになる運命でした。スーサイドはトム・ヴァーレインとは比較にならないほどのアマチュア・アーティストでしたから、デビュー作と第2作以降の落差は素人から比較的プロのミュージシャンらしくなった例ですし、デビュー作で極端なインダストリアル・パンクをやってのけた路線を第2作以降には引きずらなかったのは、スーサイドのデビューと入れ替わるようにして出てきたクロームの悪戦苦闘よりも幸せだったかもしれません。しかし本作を幸福なデビュー作というには音楽自体があまりにも病的で荒廃の限りをつくしており、最大の聴きものであるB1「Frankie Teardrop」(この11分あまりの大曲はスーサイド流のドアーズ「ジ・エンド」やヴェルヴェット・アンダーグラウンド「シスター・レイ」への挑戦でしょう)などは4分台以降はノイズとシャウトだけの応酬になります。ヴェガの逝去までスーサイドの二人はスーサイドに平行してソロ・アルバムも多数発表していますが、スーサイドのデビュー作よりも音楽の体裁をなしたものでした。本作のA面は夢遊病者の鼻歌みたいなとりとめもないトラックが並びますが、「Ghost Rider」や「Rocket USA」「Johnny」などは一応8ビートのロカビリー=ロックンロールのスーサイド的解釈です。「Girl」はスーサイド流ミディアム・ファンクでしょうし下降音階リフの「Che」はスーサイド流ゴスペル、問題の大作「Frankie Teardrop」はドアーズやヴェルヴェットの演劇性・ドラマ性とともにドイツのアンビエント系実験的ロックへのスーサイド流回答とも取れます。また数年前に日本のコスメ用品のテレビCMに使われて知る人を仰天させたキャッチー(?)な「Cheree」はビートルズ登場以前のティーニー・ポップのスーサイド流再現と考えられます。しかしスーサイドのサウンドはまったく発想源の原型をとどめていない、壊滅的に楽曲の体をなさないものなので、過去のポピュラー音楽全体を見渡してスーサイドの位置づけができるまで40年あまりもかかったというのが現在の再評価の背景にあるでしょう。これは単に「リスペクト」や「金字塔」で済まされるような事態ではない、何か非常にやばいものの封印が解かれたような現象です。スーサイドが化粧品のテレビCMに使われて違和感のない時勢など誰が予測できたでしょうか。

(旧稿を改題・手直ししました)