John Coltrane - Coltrane (Prestige, 1957) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PL4ypuAMic-Gi22Fn4_Gk98sHWEToANLIV
Recorded at Van Gelder Studio, Hackensack, May 31, 1957
Released by Prestige Records Prestige 7105, late 1957
(Side one)
A1. Bakai (Calvin Massey) - 8:44
A2. Violets for Your Furs ( Tom Adair, Matt Dennis) - 6:18
A3. Time Was (Gabriel Luna de la Fuente, Paz Miguel Prado, Bob Russell) - 7:31
(Side two)
B1. Straight Street (John Coltrane ) - 6:21
B2. While My Lady Sleeps (Gus Kahn, Bronislau Kaper) - 4:44
B3. Chronic Blues (John Coltrane) - 8:12
[ Personnel ]
John Coltrane - tenor saxophone
Johnnie Splawn - trumpet on "Bakai" "Straight Street" "While My Lady Sleeps" "Chronic Blues"
Sahib Shihab - baritone saxophone on "Bakai" "Straight Street" "Chronic Blues"
Red Garland - piano on side one
Mal Waldron - piano on side two
Paul Chambers - bass
Albert "Tootie" Heath - drums
ジョン・コルトレーン(テナーサックス、ソプラノサックス/1926-1967)はマイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーとして注目された1956年にはもう30歳目前、マイルスのバンド・メンバーを勤めながら自己名義のアルバムを作り始めて、30代半ばでようやく自分のバンドを作って独立したが41歳の誕生日を迎える前に亡くなっている。商業的にも批評的にも生前に現役ジャズマン最高の地位に就いていたが、晩年1年間は発見された時には手遅れで余命宣告を受けた末期の胃癌で、亡くなるまで闘病中の事実は伏せられていた。生前に制作した自己名義のアルバムは45作あまり、実質10年間でこの枚数で、発掘ライヴや他のアーティストのアルバムへの参加作を含めるとアルバム総数はその3倍にもなる。
コルトレーンとマイルス・デイヴィス(トランペット/1926-1991)は同じ年生まれだが、マイルスはチャーリー・パーカー(アルトサックス/1920-1955)がディジー・ガレスピー(トランペット/1917-1993)との双頭バンドを解消した1945年に弱冠18歳でガレスピーの後任にパーカーのバンドに加入したすごいキャリアがあり、1948年から1951年にかけては後にアルバム『Birth of the Cool』や『Dig』にまとめられるリーダー(自己名義)作品を発表していた。一方コルトレーンは兵役を除隊した後ジョニー・ホッジス(アルトサックス)やディジー・ガレスピーのビッグバンドに勤務、ガレスピーのビッグバンドが小規模バンド(リズム・セクションは後にMJQを結成し、ケニー・バレルとミルト・ジャクソンも在籍中だった)に再編された時もガレスピー以外の唯一のホーン奏者に再雇用されたが、この時期のガレスピーのバンドは後のスター・プレイヤー揃いにもかかわらずガレスピー以外はまったく注目されなかった。
(Original Prestge "Coltrane" LP Liner Notes)
マイルスが満を持して初のレギュラー・クインテットを結成した1955年、マイルスはすでにニューヨークのジャズ界の最重要ミュージシャンだったが、コルトレーンは無名に近い二流テナー奏者と思われていた。つまり、マイルスが第1候補にしていたソニー・ロリンズは1930年生まれだがすでに巨匠に足をかけており、コルトレーンがロリンズより4歳も年長ながら同年生まれのマイルスとは比較にならない程度の認知度しかないのは、要するに評判になるほど才能もない奏者だという色眼鏡で見られた。実際、コルトレーンはジャズマンによくある早熟の天才とは違っていた。だがそれを言えば、マイルスはパーカーやガレスピーのような天才の薫陶を受けて急成長したタイプでマイルス自身が天才型とは必ずしも言えず、ガレスピーのバンド出身とはいえコルトレーン在籍時のガレスピーのバンドはビ・バップ全盛期の40年代のような過激なサウンドからもっとR&Bの原型に近いサウンドに転換していた。
マイルス・デイヴィスは1951年以来プレスティッジ・レコーズと専属契約していたが、1956年には年内でプレスティッジとの契約を満了して1957年には全米最大手のレコード会社のひとつ、コロンビアへの移籍が決定していた。そこで1956年にはプレスティッジとの契約満了のために2回のセッションでアルバム4枚分を録音する。いわゆる"~ing"4部作と言われる『Workin'』『Steamin'』『Relaxin'』『Cookin'』の4枚がそれで、ノルマを終えたマイルスはコロンビアへの第1作『'Round About Midnight』1957をさっさと完成させる。一方マイルス・クインテットのメンバーのうちコルトレーン、レッド・ガーランド(ピアノ)、ポール・チェンバース(ベース)はマイルスのメンバーとしての活動とプレスティッジとのソロ契約を継続した。ドラマーのフィリー・ジョー・ジョーンズはプレスティッジと反りが合わずリヴァーサイド・レコーズに移籍した。ちなみにご存知の通り、マイルス・クインテットの「John Paul Jones」というコルトレーン提供のオリジナル・ブルースはコルトレーンがチェンバース、ジョーンズとセッション中にできたナンバーで、このマイルスのオリジナル・クインテットは短命ながら比類ない名グループだった。
(Original Prestge "Coltrane" LP Side 1 Label)
マイルスはバンド・サウンドをトータルでコントロールするのがうまく、それはパーカーやガレスピーのような天才ソロイストではなかったからと本人も謙遜したが、ソロイストとしてもマイルスの表現力の広さと深さはとんでもないものだった。だがマイルスはパーカーやガレスピーがバンドとしてのグループ表現では長らく試行錯誤を重ねているのを間近で見て、音楽的な完成図を設定した上でソロイストには一定の制約を設けることでバンド・サウンドの質を高い水準で安定させる、という見事なセルフ・プロデュース力を発揮した。パーカーとガレスピーのビ・バップはソロイストを解放したが、サヴォイやプレスティッジのようなマイナー・インディーズではビ・バップはメンバーを集めて適当にセッションさせ、そのままアルバム化してしまうという安易な企画が多かった。制作が安直で済むゆえにビ・バップのインディーズは乱立したともいえる。
コルトレーンはアンサンブル指向のマイルスに較べると断然ソロイスト指向のプレイヤーだが、それは一般的に金管楽器と木管楽器の特性に基づく相違とも言える。コルトレーンの先任テナー奏者だったソニー・ロリンズやジャッキー・マクリーン(アルトサックス)はコルトレーンどころではない奔放なプレイヤーだったが、マクリーンはチャールズ・ミンガスのバンドで絞られたりジャズ・メッセンジャーズの音楽監督にさせられたりでバンド・サウンドとソロイスト指向のバランスの取れるジャズマンになり、他方ロリンズはマックス・ローチやケニー・ドーハムら有能なリーダーと組んでも自分のアルバムでは相変わらずやりたい放題というタイプだった。コルトレーンはマクリーンやロリンズの在籍時よりもマイルス自身のプロデュース力が向上した時期から加入したこともあり、マイルスからの影響を素直に吸収して短期間でテナー奏者としても、トータルなミュージシャンとしても急成長をとげた。アーティストの師弟関係としてはこれほど迂回した屈折もなく、師弟ともが益を得た理想的な影響関係はどんな分野でもそう多くは見られない。
(Original Prestge "Coltrane" LP Side 1 Label)
このアルバムの前にコルトレーンには1957年5月日17 日録音の『Cattin' with Coltrane and Quinichette』という、先輩テナー奏者ポール・キニシェとの共演作品があるが、内容はジャムセッション的アルバムであり、発売もコルトレーンがアトランティックに移籍した後の1959年秋になった。ジャケットのレーベル・マーク下にも「テナーサックスのニュー・スター」と謳った本作こそがコルトレーンにとっても、珍しいことだがプレスティッジにとっても、念入りに準備した初リーダー作だったのは間違いない。A面のピアノにレッド・ガーランド、B面ではマル・ウォルドロンと1日のレコーディングに2人のピアニストを呼び、トランペットのジョニー・スプロウンとバリトンサックスのサハビ・シハブも半数の曲のためだけに呼ばれている。残り半数はコルトレーンのワンホーンか、B2のようにエンド・テーマだけトランペットが重なる程度で、1回のセッションでアルバム2枚分を同メンバーで作ってしまうのが普通のプレスティッジにとっては通常の4枚分の人件費をかけている。そしてこれは、新人サックス奏者の初リーダー作では後のコルトレーンの盟友エリック・ドルフィー(アルトサックス/1928-1964)の『Outward Bound』1961に匹敵する最高水準のデビュー作になった。
アルバムの制作は実際にはまずマル・ウォルドロンのピアノでB1,B2,B3が録音され、ピアノがガーランドに交替してA1,A2,A3、そしてスタンダードの「I Hear Rhapsody」が録音された。「I Hear Rhapsody」は予備曲だったので後のアルバム『Lush Life』に収録された。A面・B面とも1曲目に強烈なオリジナル(A1はコルトレーンの友人の書き下ろし提供曲、タイトルはアラビア語で「Cry」を意味し、黒人リンチ殺人事件を受けて作曲されたもの)を置き、重厚な3管アレンジで聴かせる。AB面とも2曲目はスタンダードのバラードでA2はコルトレーンの名演でシナトラのレパートリーからモダン・ジャズ・スタンダードになり、B2はマイルス・クインテットのメンバー就任当初から手癖のように引用フレーズにしてきた愛奏曲。A3はラテン・ビートの原曲をストレートな4ビートのスウィンガーにしてコルトレーンのワンホーンで飛ばし、B3はオリジナル・ブルースを3管のソロ・リレーで奏でるハード・バップ曲。チェンバースはさすがでA3の小粋なベース・ソロは絶好調、アルバート・ヒースのドラムスはやや軽いのだが野趣に富むフィリー・ジョーや鋭角的なロイ・ヘインズ、堅実なアート・テイラー(他に呼ばれるとしたらこの3人のうち誰かだったろう)よりこのアルバムには合っている。メンバーは全員コルトレーンとは公私とも親友といえる仲だっただけあり、精神的な共感が通っているのが演奏からでもわかる。だがどこか、このアルバムには作り物めいたところが感じられる。それはドルフィーのデビュー作には感じられない。どこが違うのだろうか。
というか、ドルフィーの『Outward Bound』とは最高水準のデビュー作としては似ているが、『Outward Bound』はそのままレギュラーのライヴ・バンドでやっていけそうなメンバーだったが、『Coltrane』は顔ぶれに絶妙な必然性があるにもかかわらずレギュラー・バンドにはならない一回性の産物の観があり、プレスティッジ時代のコルトレーンは単独リーダー作だけでも1957年と1958年の2年間で12枚のアルバムを録音したのにレギュラー・メンバーはついに持てなかった。それはプレスティッジの方針から来る制約でもあり、コルトレーンには意中のメンバーがいたのだがアトランティックに移籍する1959年まで機会を待っていた。この『Coltrane』の可能性は、残り1ダースのプレスティッジのアルバムを飛ばして(ブルー・ノートへのワンショット契約作品『Blue Trane』を途中経過として)アトランティック移籍後に開花すると言える。その後のインパルス移籍後の時代も含めて、創造性のすべての萌芽がこのアルバムには込められている。