人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

夢野久作「ドグラ・マグラ」序説!?

梗概から入って梗概だけに終るのは読書感想文としては最低の書き方だとされる。そんなの読めばわかる、誰だって書けるというわけで、ノンフィクションなら主題や論述、フィクションなら登場人物や構想について所感を披露するのが正しい読書感想文とされる。だが夏目漱石「明暗」についてばっちり梗概を作製するのと「自分勝手な登場人物が牽制しあってばかりでバカみたいでした」というのではどちらの読解力が優秀だろうか。中学生が「新生」や「或る女」や「腕くらべ」や「暗夜行路」や「細雪」を読んでどうするのか。
「ヒロインが下痢が止まらず困惑するラスト・シーンが印象的でした」と書くのとヒロインのお見合い失敗回数(これが「細雪」のストーリー)を精密に梗概にするのではたとえ読解力が養われるにしても他にもっとやることがあるという点では大差ないのではないか。文語文に日常的に親しんでいないのでは樋口一葉尾崎紅葉泉鏡花あたりでは原文すら読めないだろう。ぼくも義務教育でどこまでを標準的国語能力とするかは文学作品を指標にすべきではないと考える。国語教育と文学教育は本来は別次元のものだが(グラマーとリーダー、リテライチャーに分けてもいい)、テキストを選ぶとやはり文章の規範として時代を超えた水準にあるものは優れた文学作品に多い。
鴎外・漱石の諸作や啄木の短歌・批評は100年経っても古びない。この先も100年は持つ。芥川や朔太郎、梶井基次郎中島敦太宰治あたりも順次(佐藤春夫川端康成堀辰雄あたりは微妙)。挙げればきりがないが、歳月を耐えてきたものが常に規範となるのは当然のことだ。すぐに古びるものを規範とは呼ばない。賞味期限の短いものは消費の対象にはなっても学びの源泉にはならない。
日本語では馴染む訳語がないのだが(ヤマトコトバでは。日本では公式語は漢文だったのだが、漢語ではどうだろうか?)クラシファイClassifyという概念語がある。綴りから類推されるようにクラシック(古典)として位置づける、という意味で、日本語で相当するとしたら「格付け」か。学問でも趣味でも商業でも生活でもそれが一過性のものか、クラシファイされているかで文化的基盤が定まる。それは個人の嗜好ではなく長い間をかけて文化圏が形作ってきたものだ。

…というわけで次回は1回まるまる梗概でいく。次回っていつ?