人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

女が神聖でどこが悪い?

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--さんこんにちは。コワい意見をいただいてしまいました(笑)。でもすごく的確な疑問なので、待ってましたという感じです。本文で紙幅がなくなって書かずに済ませたことでもあります。
ご質問(または意見)は、女性を過剰に美化・神聖化した詩のどこがいけないか、ですね。記事「高村光太郎の女性観」にいただいたコメントです。これは長くなるから、レコメではなく本文記事でお答えしましょう。
高村は当時の日本社会・文化を厳しく批判した詩人でした。にも拘らず戦争中は戦争讚美(正当化)詩、軍国主義詩、愛国主義詩を多作しました。高村光太郎の全詩集の半分がそれにあたるのです。
高村がそれまで称賛したものは母と妻でした。母には古い女性の美徳を、妻には保護者として(統合失調の慢性化した状態の妻であることに留意のこと)童女のような無垢の美しさを。それは自分を愛してくれる・自分が愛する対象の神聖化であり、愛されることによって自分自身をも神聖化することでした。
母と妻に関するかぎり、それは限定された、きわめて個人的なことでした。それが妻を喪った戦時期になって、一気に大日本帝国に拡大されたのです。文字通りのファシズムが高村をとらえました(そして敗戦後はマゾヒスティックなまでにいち早くファシズム反省詩を書きました)。
問題点はもうおわかりと思います。高村自身は自分のファシズム同化を敗戦後認めましたが、それが社会批判詩や芸術讚美詩・恋愛詩と同一の発想(戦時期には批判対象は敵国になるわけです)から由来するものとは、おそらく生涯気がつきませんでした。仮に指摘されても納得がいかなかったでしょう。
文学のめんどうなところは、だからといって高村光太郎の詩が否定できるどころか、だからこそ今でも古びない問題を高村の詩は保ちつづけていることです。
ファシズムと女性の神聖化という点で言えば、男性を神聖化する女性の詩人はいません。女性がファシズムの中心になるのは国家単位ではなく家庭・地域共同体単位で、それも現代では散発的でしょう。
お尋ねの最後、「神聖の反対」ですが、「卑しい」でしょうね、やはり。