人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

探し猫のゆくえ

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探し猫の貼り紙を図版に載せてタイトルにもしたが、意味はない。数ヵ月前の写真だ。猫は戻っているだろう。または還らないままだろう。飼い主にとって、それはとても重大な違いだ。だが、猫にとってはどうだろうか。自分の意志または選択で飼われている猫というのもそうはいないとすれば(快適に飼われていたとしても)、無事に飼い主に戻るにせよ、迷い猫の道をたどるにせよ、もはや自分ではままならないことではないだろうか。今ごろ飼い主が探している、と考える猫はまずいないだろう。
自分のことでありながら、自分ではままならないこと。それは珍しくもないことだ。もし「自分」というものを「」の中に特定できるとすれば、猫みたいに迷いっぱなしにはなるまい(迷った猫はきっと恩知らずなまでに思い切りがいい。猫とはそういうものだから)。迷い猫は本題とは関係ないと言っておいて、なんだかいつの間にか前置きっぽくなってしまった。

軽い鬱で安定しているのが躁鬱病には望ましいから(それが純粋な鬱病と違う)、今のぼくはほぼ望ましい状態といえる。もう半年前の春先、東日本大震災の数日前にぼくは退院してきたのだった。夜中の余震が怖かった。電話で別れた妻子に様子を尋ねる心の余裕もなかった。計画停電もぼくの地区は夜ばかり当った。震災以来、思いもよらず死ぬ夢を見ることが増えたような気がする。
鬱の眠りは浅いからかもしれない。枕元の携帯電話を引き寄せてウィキペディア村上春樹の項目を読み始めたのは、真夏の腸炎の入院中に売店で買って読んだ「神の子どもたちはみな踊る」を思い出したからだった。阪神・淡路大震災の翌月(そしてオウム真理教の一斉摘発の前月)の不安な人間模様を描いた連作短編集だった。村上春樹の項目は詳細で長く、明らかに特別な扱いなのがわかった。

「神の子どもたち~」は3年前にアメリカ映画になって日本ではお蔵入りだったが、「ノルウェイの森」の公開に先だち上映されたという。ヤフーの映画レヴューの投稿では「ノルウェイ~」1000件に対して「神の~」6件、単館?投稿は実に忌憚なく、多少とも映画の仕事に関わった人間としては遺憾だが、感想はどれも同じことをめぐって対立しているように思えた-称賛も、失望も。それはウィキペディアの項目と同じように見えた。それは探し猫の貼り紙のように見えた。