人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

失くしたセーターのゆくえ

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日曜の朝は例によって子供向けの特撮ヒーローと美少女戦士アニメを見て、教会で礼拝をやっている時間は静かに黙想する。今日は風こそ強いが気温は高くてホッとする。
買い物に行き、サンドイッチのお昼を済ませて、午後は家計簿から始める。東京MXテレビの12月の「日曜シネマ」(CMなし、字幕放映)はウッディ・アレン特集。今日は「ギタリストの恋」で、アレンも実に地味な小品佳作をつくる人になったなあ、と好感を持つ。アレンの映画は一時期までベルイマンフェリーニへの憧憬がパロディと模倣すれすれで、危なっかしかったり鼻についたりしかねないものだった。それが吹っ切れたのが平凡な中年三姉妹の日常を描いた「ハンナとその姉妹」で、以後はその路線にある。それでいて古くささを感じさせないのだから映画人としてのカンは冴えているのだ。
テレビで映画を見られるようになったのは現在は目立った躁でも鬱でもない、少なくともその徴候はないということだ。躁または鬱の状態でテレビを見るなんていうのは考えられない。拷問以外のなにものでもない(ただし錯乱状態まで来していたら単に受動的に、幻覚と見分けがつかない状態で視聴可能かもしれない。だが「ローマの休日」を見せていても、患者に見えているのは「片腕カンフー対空飛ぶギロチン」かもしれないのだ)。
先週は007映画3本に「レッドウォーター サメ地獄」、先々週は地球の自転が停止して科学者たちの一団が地下潜行ロケットで治しに行く、という古風なSF映画ザ・コア」というのを見た。黙って映画を見ているだけだが、これも在宅作業療法。感覚や感情を筆頭とした認知力の維持と向上が目的になる。できれば毎日サメや大蛇やプレデターが出てくる映画がいいのだが、贅沢は言えない。

ところでいったいぼくはこの一文でなにを言いたいのかというと、タイトルと掲載写真でもう終っているようなものだ。出てきたのだ、失くしたはずのセーターが。押し入れの片隅にちんまりと畳んであった。
先の小文で述べた次第で、昨年12月1日に病院に搬送され身ぐるみ剥がされて隔離室入りになったぼくは、当然セーターのゆくえもあずかり知らないことだった。それがなぜ入院から1年も経って押し入れから、まるで自分でしまったかのように出てくるのだ?
今夜の映画はニコラス・ケイジの「ノウイング」。楽しみに見よう。