人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ひなまつり

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なんのヒネリもありませんが、今年も例年のごとくひなまつりがやって来ました。妻も私もこだわりはなかったので、娘ふたりをさずかったとはいえ格別祝ったことはありませんが、妻の実家では孫娘の誕生以来、雛人形にふたたび出番が来たようでした。

私と妻は30歳の晩婚で、妻の親族からの反対を計画的妊娠で押し切りましたから、結婚生活の間は実家とは決してくつろいだ関係とは言えませんでした。妻の実家は秋田のクロスロード・タウン(実在の地名です)、高校卒業後上京して東京の郵便局に勤め、勤続25年の今も同じ郵便局に勤めています。18歳で出ていった娘が30歳目前にして突然勝手に婚約し、婚前妊娠ですからさぞかしご両親もお手上げだったでしょう。

妻は私が初めての恋人でした。彼女の性格からして、私と離婚後に新しい恋人や再婚相手を見つけ出すのはほとんど起こり得ないでしょう。彼女は正確に「妊娠する」と決めた夜に受胎しました。娘ふたり、これも彼女の望みどおりでした。西脇順三郎の詩句-「女は男の種を宿すというが/それは神話だ/女の中に種はあんべ/男なんざ光線とかいうもんだ/蜂か風みたいなものだ」(「旅人かえらず」1947)

10年間の結婚生活を共にしましたが、最後まで妻は私には逆の意味で神話的な女性でした。三島由紀夫の作中の一節-「…女が力をもつのは、ただその恋人を罰し得る不幸の度合によってだけである」(「仮面の告白」1948)
あるいは妻が私にはいつまでも処女の威厳を残していたからかもしれません。10年続いたんだ、それで十分じゃないか。たぶん愛よりももっと自由にならない力で夫婦になり、やがて別れることが定められていたのかもしれない。私は妻のやり方をいつも尊敬してた-

話を戻して。雛人形の話です。長女は里帰り出産でしたが、出産当日の次に秋田に出向いたのは妻と赤ん坊を迎えに行った3か月後です。「迎えに来たよ」と抱擁すると、妻はボロボロ泣きました。
6畳をふた間開け放した座敷に、妻と赤ん坊の床が延べてありました。なぜふた間も開け放してあったか。床から次の間に、6畳をまるまる占拠する巨大な雛壇が組み上げてあったからです。時候はまだ秋、初の孫娘の誕生に妻のお母さんは気合が入ったのです。
そんな祝いかたがあるのでしょうか。以来雛人形というとあの光景が浮かんでくるのです。