人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

燕の巣日記・6月23日土曜・曇り

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写真はいまいちだが子育て真っ最中の燕の巣を見つけた。親燕が頻繁に戻っては餌を与えるのだが、一口ずつだから本当に一瞬で、親燕入り写真は撮れなかった。鴨でも燕でも鳥の子育てを見るたびに人間より偉い生物だと思う。それをいえばミミズだって偉いが、唯一食物連鎖から外れた人類とは異教的(非・キリスト教的)に見れば神の呪いかもしれない。
「人類は鮭の卵だ」
とは高村光太郎の『道程』雑誌発表稿にある素頓狂な一節で、意外にも高村の批判者・西脇順三郎との発想の類似が見えるが(西脇は萩原朔太郎の自称弟子だから萩原のライヴァル高村には一貫して批判的で高村への高い評価にも不満だった)、「人類は未知で無限の可能性を秘めている」と言いたいとしても筋子から生まれてくるのは結局鮭の稚魚ではないか、という虚しさは残る。それを言えば燕だって燕だ。

今朝は友人からのラリラリ電話で起こされた。ろれつがまるれまららないのをどうにか聞き取ると、眠剤の飲み過ぎで眠くてフラフラだという。そんなことで電話してくんな馬鹿、と思ったが何もしないで、トイレと水くらいで眠んなさい、カップ麺食べようとお湯なんか沸かしちゃ駄目だよ(経験談。起きたらガスは空炊きで自動停止し、ヤカンは真っ黒焦げだった)。

それから週に一度の買い物に行って帰り道燕の巣を見つけ、ヤフー知恵袋で回答できそうな質問があったので書き込んだ。「タンジェリン・ドリームはロックではなくタンジェリン・ドリームというジャンル」というリーダーのエドガー・フローゼの発言の真意とは何か?というもの。

「これは『現在は凡庸なニューエイジ・ミュージックと化した』(大意・「レコードコレクターズ」2000年6月号・特集ジャーマン・ロック)に代表される90年代以降のロック側からのタンジェリン批判を念頭に置いた発言だと思います。遠回しですが、発言内容にはタンジェリンをポスト・ロックの音楽とも規定しています。ロバート・フリップの『プログレッシヴ・ロックと呼ぶな』ともニュアンスが違うようです。確かにタンジェリンの評価は80年代半ばから90年代半ばにはノイ!の再評価と反比例して批評家受けが低調を極めた時期があり、現在でもフローゼには批評家不信が根強く残っているように思われます」

ここまでで半日だ。子供の一日みたいに長い。