人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(補1)GS末期~ニューロックまで

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68年のソウル・ブームに替わって69年にはブルース・ロックが最先端の音楽だとみなされた。これらはGSとは人脈程度のつながりしかなかった。掲載アルバムは、
○「ブルースの新星 パワーハウス登場」1969.4(画像1)
○ザ・ヘルプフル・ソウル「ソウルの追求」1969.4(画像2)
○「ブルース・クリエイション」1969.10(画像3)
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これらのバンドは60年代ギリギリにデヴューしたためGS扱いの可能性もあった。だが曲によっては15分に及び、全曲英語詞で歌われるこれらのアルバムは当時のロックでも最も非商業的なものだった。ブルース・クリエイションは東京の、パワーハウスは横浜の、ヘルプフル・ソウルは神戸のバンドになる。
70年代に入るとこれらのバンドのメンバーたちはハード・ロックプログレッシヴ・ロックの要素もますます強め、
○陳信輝「SHINKI CHEN」1971.1(画像4)
○「トゥー・マッチ」1971.7(画像5)
ブルース・クリエイション「悪魔と11人の子供逹」1971.8(画像6)
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に移行する。パワーハウスは解散し、柳ジョージゴールデン・カップスに引き抜かれたので、ギタリスト陳信輝はソロ・アルバム「SHINKI CHEN」を発表。ゲスト・メンバーはカップス~パワーハウスの歴代オールスターズ。この後スピード・グルー&シンキを結成する。
トゥー・マッチはヘルプフル・ソウルの後身。昔はコテコテの廃盤だったが今では海外盤まで出ている(今回の6枚は全部そうだ)。ハーフのヴォーカリスト、ジュニ・ラッシュの発音はネイティヴだし演奏も本格的で、良かれ悪しかれ海外のマイナー・グループの通好みアルバムを聴いている気になる。
さて、一見問題なさそうで長年論議の的なのがブルース・クリエイション。69のファーストではギタリスト・竹田和夫はまだ18歳、71年のセカンドでもまだ20歳。ファーストは強靭な布谷文夫のヴォーカルと相まって引き締まったアルバムだったが、やや小粒な感は否めなかった。
布谷脱退後、竹田はトニー・アイオミ(ブラック・サバス)にはまる。曲も全曲オリジナル(英詞)。そして加入したカタカナ英語の和製オジー、大沢博美。この人のヴォーカルを褒めた評を見たことがない。
ところがイギリス人ジュリアン・コープは絶讚しているのだ。しかも本気で。