人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(13)スタン・ゲッツ(ts)

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Stan Getz(1927-1992,tenor sax)。白人テナーの天才。その一言に尽きる。16歳で名門ビッグ・バンドに入団したちまち花形テナーとして引っ張りだこになり、1949年には自分のカルテットで独立し、サヴォイ~ルースト~プレスティッジなどのインディーズに決定的な名演を残しNo.1テナーの名声を獲得。1952年には大手ヴァーヴに移籍(画像1「スタン・ゲッツ・プレイズ」はその第一作)、問題発言(「ジェリー・マリガン・カルテットに加入する」と雑誌インタビューに答えてマリガンの不興を買う)や事件(54年に巡業先で禁断症状から玩具のピストルで強盗未遂を起こす)もあったが活動は途切れず、アルバムは高水準でライヴも活発。積極的にヨーロッパ・ツアーを行うなど国際的な人気(特に北欧諸国)を博した(「イン・ストックホルム」1955。マイルスでも有名なスタンダード曲『懐かしのストックホルム』は元々スウェーデン出身のゲッツ夫人がゲッツに教えたスウェーデン民謡)


ゲッツはポルトガル系ブラジル人(ブラジルの上流階級)がクール・ジャズから考案したボサ・ノヴァに早くから目をつけ、ギタリストでシンガーのジョアン・ジルベルトとの共作「ゲッツ~ジルベルト」1963(画像2)の『イパネマの娘』にはヴォーカルにジョアン夫人アストラッドを起用、全米アルバム・チャート2位の大ヒット作となる。「おかげで子供5人全員大学を出せた」(ゲッツは中卒)。事実上の音楽監督で作曲家・ピアニストのアントニオ・カルロス・ジョビンはゲッツを尊敬していたが、ジョアンはゲッツを軽蔑していた、という裏話もある。ゲッツはユダヤ人だったからだ。

ゲッツ自身はボサ・ノヴァが自分やマイルスのやっていたクール・スタイルの発展型と考えていたが、ジャズの正道ではない上に全米チャート2位は効いた。しばらくはポップ・ジャズ路線のアルバムをレコード会社の求めで録音したが(シリアス路線の「スタン・ゲッツ&ビル・エヴァンズ(ピアノ)」1964は没になり後年発表された)、俊英チック・コリア(ピアノ)を含む「スウィート・レイン」1967(画像3)で久しぶりにシリアス・ジャズ路線に戻り、末期癌で余命宣告されても最晩年までジャズ一筋の演奏活動を続けた。ジャズに殉じた人だった。