人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

2007年9月13日(釈放)

入獄体験のある人はそう多くはないだろうし、誰もが一律の経験をするわけではない。ぼくも自分の場合はこうだった、としか言えない。たとえば拘置所では、皆がやたらに食事が速かった。噛まずに呑み込んでいるんじゃないか、というくらい速い。この手の話ならいくらでもある。入浴の手順や畳んだ布団の折り目の向きまで規則があった。

裁判所に行く時はトランクス一枚にされ調べられる。腰縄で10人ほどが一列に結ばれ、手錠をかけられ覆面バスで押送される。未決囚は靴は没収されサンダルが貸与されて、部屋の出入りにはサンダルの裏を見せなければならない。陪審員制度導入に「靴に見えるサンダル」という条項が加わったのは被告がサンダル履きで出廷することの心証を考慮してだが、結局なにもかもが司法に都合よくできているだけだ。

「お前よぉ、情けなくないか?」と第一回公判の後でおっさん刑務官が言った。「次の公判何日か言ってみろよ」
「判決は一週間後、としか言ってませんでしたよ」と若い刑務官。ぼくは再び手錠と腰縄で押送車に乗り、戻るとすぐに独居房への移室を志願した。

一週間後、帰りの押送車ではぼくは手錠も腰縄もされなかった。裁判官は故意とは認められずとも条令違犯には該当するものとし、結果的には懲役三か月執行猶予四年という検察側の求刑通りの判決を下した-これより軽い有罪判決はないからだ。
もうボディ・チェックもなく部屋に戻る必要もなかった。ぼくの所持品は、押収されたもの含めてすべてまとめてあった。

釈放とは荷物を渡され放り出されるだけで、地図すら渡されない。ぼくは同時に釈放された男の後をつけて上大岡駅にたどり着いた。切符の買い方がわからない-というより、命令以外に自分の意志で何かすることができないのだ。
知っている路線で幸運だった。京急線で川崎まで出て南武線で登戸に向かい、ついでに向ヶ丘遊園まで歩いて買い物したい。別れた妻子が住んでいる町だ。向ヶ丘遊園からは、25分で座間駅。そこに実家がある。

電車の車中が怖かった。この中でぼくだけが拘置所を出てきた。そのことをぼくだけが知っている。
町さえも、もうぼくの知っている町ではなかった。変わったのはぼくの方なのはわかっている-ぼくは戦場から帰ってきたのだ。目の前の現実は同じなのに、ぼくはまるで違った世界に来てしまったような感覚に襲われた。