人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

追悼ルー・リード(後編)

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前回の話題が途中なのでニコさんの話の続きから始めよう。とにかくぼくはニコさんの初来日公演を観て、渋谷ライヴ・インには毎月三回(パンタ、P-Modelとブルートニック&ザ・ガーデンが月一で出演していた)通っていたが、ニコの時だけは明らかに会場の空気が違っていた。
もちろん先に上げた日本のバンドだって本物だし、他の来日アーティストのコンサートも数えきれないほど観ている。だがあのライヴほど張り詰めた空気を感じたのは後にも先にもない。ニコが生演奏している会場に自分がいる、のが信じられない気分だった。

翌年もニコさんは来日したが、その間に新作もないし演奏内容も大差ないだろうと行かなかった。しばらくして事故死の訃報が新聞に載った。ぼくにはずっとニコさんは過去の亡霊のように思えていたが(フェリーニの「甘い生活」60出演、ビル・エヴァンスの「ムーンビームス」62のジャケットモデル等々)、逝去した時はまだ40代だったのだ。生年や出生地は特定できず1938年~1944年の東欧諸国のどこか。私生児なのか出生届けの記録がどこにもないらしいのだ。

ニコさんに較べると、ルーさんは十分に名声を享受して充実した生涯を全うした感が強い。ソロ・アーティストとして出世作となり、シングル『ワイルド・サイドを歩け』(ネルソン・オルグレンの小説、邦題「荒野を歩め」より)がトップ 10ヒットになった「トランスフォーマー」72(画像1)のジャケット!ルーさんはデビューは25歳と遅いが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの第一作(67・画像4)ではすでに惚れぼれするようなギターと作詞作曲、声のために舌の先端を2mm!切り落したという艶やかなヴォーカルを確立している。

ぼくが高校時代に出たLP2枚組のベスト盤「ロックンロール・ダイアリー」はLPの1枚は丸々ヴェルヴェットで、某ML誌では「ヴェルヴェット時代がすべて」と星三つだった恨みは忘れないが、80年前後数年のルーさんがスランプだったのは否めない。だから第一線復帰は嬉しかった。最近ではジョン・ケイル、ニコと三人だけでの発掘アンプラグド・ライヴ「バタクラン'72」(画像2)と、去年発売のヴェルヴェット最高の発掘ライヴ「ラ・ケイヴ1968」(画像3)を新鮮な気持で聴いていた。決して忘れられない人だろう。