桑原武夫が「作者名を伏せれば専門家の作品か素人の作品かも、その優劣もつかない」とした専門家10句と素人作品5句を再び引用する。●は専門家の句、○は素人作品と最初からバラしておく。
○芽ぐむかと大きな幹を撫でながら(阿波野青畝)
●初蝶の吾を廻りていづこにか
○咳くヒポクリットベートーヴェンひびく朝(中村草田男)
○粥腹のおぼつかなしや花の山(日野草城)
○夕浪の刻みそめたる夕涼し(富安風生)
●鯛敷やうねりの上の淡路島
○爰(ココ)に寝ていましたという山吹生けてあるに泊り(荻原井泉水)
●麦踏むやつめたき風の日のつづく
○終戦の夜のあけしらむ天の川(飯田蛇笏)
○椅子に在り冬日は燃えて近づき来(松本たかし)
○腰立てし焦土の麦に南風(ハエ)荒き(臼田亜浪)
●囀(サエズリ)や風少しある峠道
○防風のここ迄砂に埋もれしと(高浜虚子)
●大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
○柿干して今日の独り居雲もなし(水原秋桜子)
桑原論文が今や一顧だにされないのは、この15句を一読して(その作者にとり出来不出来かはともかく)玄人と素人の句の区別がつかないわけはないからだ。要するに桑原には詩がわからなかった、というのに尽きる。
素人作品には早い話なんの詩作意識もない。ただの嘱目に季語を入れて五七五に落としこんだだけで、作者と対象の間に、また俳句という詩を書くこと自体に自意識も緊張感もない。フランス文学者である桑原ならばエクリチュール(書法・創作意識)という概念が20世紀中葉から文学批評では重要視されつつあったことを知らなかったとは思えないが、俳句をその基準で読むことを怠った。最初から俳句を嘗めてかかっていたのだ。外国文学研究者にありがちな、自国を後進国と見る態度があった。
桑原論文が歓迎されたのは敗戦直後の風潮もあるが、例句の多くが虚子一派からが選ばれたこともある。これは俳句作家の比率からして仕方ないが、反虚子派の俳句作家たちには溜飲が下がることだった。ただしそれは一時的な、留保条件つきの賛同でしかなかっただろう。桑原が反虚子派の俳句ならば認めるような文脈は、桑原論文には含まれないからだ。
例句に見る虚子派の俳句にもいずれも高い作句意識があり、洗練された言語感覚から来る諧謔精神がある。それは普遍的に詩の本質をなすものだ。