詩人として知られた石原吉郎(1915-1977)に句集と歌集が一冊ずつあり、それらかどのような背景を持っていたかは前回で詳述した。発表時期を見ると、第一詩集の刊行に先立ってすでに詩人としての地位を確立していた1958年にソヴィエト抑留時代の句会仲間で結社された俳句同人誌「雲」に参加して発表された作品、また同人詩誌「鬼・27号」1960に一挙掲載された49句のほぼ全句を収めたのが、「石原吉郎句集」1974の全155句になる。句集に未収録の句が9句、句集以後の句が3句ある。作句時期はソヴィエト抑留中の1951年まで遡る。
一方短歌の創作は1976年年末の精神病棟入院中に始まり、77年3月に「病中詠二十五首」が「現代詩手帖」誌に発表後約80首が創作され、著者生前(77年11月14日急逝・享年62歳)に編纂された歌集「北鎌倉」1978には99首が収められている(全集には歌集未収録作品9首収録)。この句作時期と歌作時期は、詩人のキャリアの中で対照的な位置にあることがわかる。
注目すべきは、76年7月の詩誌「詩の世界・第五号」に三編の詩と同時に俳句三句・短歌二首が発表されていることだろう。短歌二首は歌集「北鎌倉」では巻頭と巻末に配置されることになる。俳句は、
・打ちあげて華麗なるものの降(クダ)りつぐ
・死者ねむる眠らば繚乱たる真下
・墓碑ひとつひとつの影もあざむかず
短歌は、
・今生の水面を垂りて相逢はず藤は他界を逆向きて立つ
・夕暮れの暮れの絶え間をひとしきり 夕べは朝を耐えかねてみよ
同時掲載された詩三編は、急逝の翌月刊行された詩集「足利」に収録された。追い込みで一編を引こう。
『はじまる』
重大なものが終るとき/さらに重大なものが/はじまることに/私はほとんどうかつであった/生の終りがそのままに/死のはじまりであることに/死もまた持続する/過程であることに/死もまた/未来をもつことに
―もはや詩とすら呼べない作品なのには痛々しさすら感じる。
また、この短歌二首が歌集「北鎌倉」の巻頭・巻末に置かれたこと。小説家が書き出しと締めくくりには文章を凝らすように、詩人も巻頭と巻末作品には注意を払うのが普通だろう。だがこの二首の出来は擁護の仕様もない。
では句集はどうか。歌集ともに次回で検討したい。