人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ビリー・ホリデイ11

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50年春にデッカ社との契約が終了し52年春にヴァーヴ社と契約が交されるまでの二年間、ビリーはマイナー・レーベルへ4曲の1ショット・セッションきりしか録音がない。その間には悪徳マネージャーだった前夫との離婚成立、黒人音楽の殿堂アポロ劇場での一週間公演、最愛の音楽パートナーだったレスター・ヤングとの不仲、24歳のマイルス・デイヴィスとのクラブ競演(以後マイルスはビリーのレパートリーを多く採用、そのスタンダード化に貢献する)などがあり、録音がない分全米各地の都市を巡業している。

現代のポピュラー音楽と事情が異なるのは、ポップスのミュージシャンにとってレコードは臨時収入にしかならず、スタジオ・ミュージシャンに専念してサラリーマン生活を送るか、ステージ活動の合間にレコードを吹き込むかに二分されていたことだ。名前の売れたミュージシャンほどステージ収入は多いからどちらの道を採るかは難しい。
オーディオ普及率は50年のLPレコード技術開発(それまではSP)でようやく伸びつつあったがそれでも数百枚~数千枚が単位であり、万の桁まで行けばベストセラーで、ギャラは買い取り制が基本。つまり初回プレス分しか支払われない。これを悪用してわざと音楽家組合規定の最低賃金分しか初回プレスせず(ひどい場合はサンプル盤)再プレス以降を大々的に販売するのがインディーズのジャズ・レーベルの常套手段になっていた。

新たにビリーの所属したレーベルのヴァーヴ社は大手MGMレコード社傘下で、大物ミュージシャンたちを多数組み合わせた巡業で当たりをとった名物プロデューサーのノーマン・グランツが設立したジャズ界でも最大手のひとつだった。まだデッカ所属時代の46年にビリーはその巡業に参加しており、彼女のジャズ界の地位からしてもヴァーヴは安住の地に見えた。折しもレコード業界はLPレコードへの移行に伴うオーディオ普及率の増加で売り上げを伸ばしつつあった。
これまで紹介してきたビリーの録音はすべてシングル盤に相当するSPレコードで発売され、のちにLP、今日ではCDでアルバムにまとめられたものになる。近年編まれた全集ではCD15枚組、LPでは30枚相当(その他放送用録音がCD13枚)がビリーが18歳~44歳の楽歴で残した録音になる。そのうち14枚がこれからご紹介する晩年八年間のアルバムになる。

(続く)