人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

そう遠くない未来3

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このタイトルは深い意味はなく、咲き始めたと思ったら散りだした桜並木の下を通っていて自然に思いついたものだが、つまり今満開の桜もじきに散り尽くす、それが逃れられない卑近な未来なんだよな、と平凡な感慨にふけった。
ところがタイトルにしてみると思いがけない不吉な響きになった。その時思い出したのはフランス詩人ステファヌ・マラルメ(1842-1898、画像1)の散文詩、『未来の現象』だった。これは1864年に執筆、1875年から四回雑誌掲載され、書籍化は1896年だった。だがマラルメが師事した巨匠シャルル・ボードレール(1821-1867、画像2)が最晩年(晩年一年間は完全に廃疾化していた)にまとめたエッセイ集(1866)にはこの作品への批評があるから、当時手稿の回し読みは若い詩人たちでは普通に行われていたようだ。

ちなみにボードレールが異郷の師と仰ぎ全作品をフランス語訳したのはアメリカの詩人・小説家エドガー・アラン・ポー(1809-1849、画像3)で、マラルメボードレールには私淑していたがポーの理解は自分の方が深いと自負していた(マラルメは生涯中学校の英語教師だった)。
こうして肖像写真を並べてみると、ポーとボードレールは実によく似ている。特に額が似ている。現代文学ボードレールの詩集「悪の華」とフローベールの長編小説「ボヴァリー夫人」から始まり、この二人は同年生まれでこれが最初の著書(ともに1857年)だった。どちらも猥褻図書として起訴され、小説は無罪になったが詩集は有罪になる。たがいの作品を賞賛しあった往復書簡が残されている。だが、この二人も、ポーという強力な文学理論の確立者とその文学実験なしにはあれほどの革新をなしえなかっただろう、と思える。実際、ほぼ160年を経た現在でも文学は「悪の華」と「ボヴァリー夫人」の掌の上にある。

マラルメボードレールも似ているが、ポーとマラルメは似ていない。三者の肖像写真ではボードレールが突出している。当時の名写真家ナダールによるものだが、鋭い知性、反逆性、狂気が共存している。ポーは知性と虚ろな狂気を感じさせる。マラルメは知的だが狂気は感じさせない。
マラルメ散文詩に触れる紙幅がなくなったので次回に譲るが、画像4をご覧いただきたい。この人も偉大な芸術家だが、1~3の方々と較べるとなんと貧相にしか見えないことか。