人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

アメリカ喜劇映画の起源(16)マルクス兄弟4

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 サイレント喜劇のコメディアンたちは基本的には自作自演でした。チャップリンもデビュー間もなく監督を任され、キートンはロスコー・アーバックルの自作自演作品のレギュラー助演を一ダースほど勤めあげた後に主演俳優に抜擢され、自分のプロダクションを持ちます。チャップリンは一貫して脚本と監督を兼任しましたし、キートンも単独名義もあれば共作の場合もありましたが主演長編第一作『馬鹿息子』20を除けばキートン・プロダクション最後の『キートンの蒸気船』28まですべて実質的にキートン監督作品です。

 やや寄り道すれば長編喜劇映画として『馬鹿息子』はチャップリン『キッド』21に先立っており、チャップリンの次の長編喜劇は『黄金狂時代』25ですがロイドは21~23年にかけて『ロイドの水兵』『豪勇ロイド』『ロイドの要心無用』『ロイドの巨人征服』と長編中心に移っていました。キートンは20~22年は短編時代で23年の『キートンの恋愛三代記』から長編時代に入ります。ロイドは優れた監督ハル・ローチと組んでローチ・プロダクションから安定した作品を量産できる環境にありました。これはフランク・キャプラ監督とハリー・ラングドンのコンビにも言えます。

 サイレント映画では思いついたらすぐ実行、都合次第ですぐ変更が自在でしたので、親密な家内工業的手段で映画が制作された。サウンド映画はそうした融通や即興性が効かない制作現場でした。あらかじめ決定稿まで仕上げられた脚本に基づいて演出も撮影方法もスケジュールも組まれ、ロイドやキートンの優れたインスピレーションは意図的に制限されました。サウンド作品転向直後の数本では話すロイドやキートンは新鮮で好評でしたが、作品自体は低調な出来ですぐに凋落がやってきました。また、チャップリンは喜劇映画を撮らなくなります。

 喜劇映画というジャンルそのものが円熟の果てに技術革新のあおりを食らって自壊していた時代に、なぜマルクス兄弟があれほど作品としても商業的にも大成功を治めたのか。同時期のトーキー初期、彼らと並んで人気の高かったW.C.フィールズやエディ・キャンターが評価のみ高くして再上映されないのにマルクス兄弟の不動の人気はなぜか。答えは作品の中にしかないでしょう。以上、ここまではすべて前置きでした。