人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年7月1日~3日/バスター・キートン(1895-1966)の長編喜劇(1)

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 チャーリー(チャールズ)・チャップリン(1889-1978)、ハロルド・ロイド(1893-1971)と並んでアメリカのサイレント映画の3大喜劇王と称されるバスター・キートン(1895-1966)は芸人一家に生まれたので、少年時代に芸人となったチャップリン、学生時代に俳優となったロイドよりも芸人としての出発は早く、赤ん坊の頃から楽屋で育ち4歳で舞台に立った喜劇俳優でしたが、年少だった分映画デビューはチャップリンの1914年、ロイドの1913年より遅く、1917年にチャップリンがデビューした会社でもあったプロデューサー兼映画監督でアメリカ喜劇映画の父と呼ばれるマック・セネット(1880-1960)のマック・セネット・プロダクション出身で、日本では「デブ君」の愛称で親しまれた人気芸人、"ファッティー"ロスコー・アーバックル(1987-1933)の主演作品にレギュラー相棒役として起用され、徴兵期間をまたいで1919年までにパラマウント社での14本のアーバックル主演・監督(セネット社の出身俳優に積極的に監督を兼任していました)の短編喜劇に出演しました。チャーリー・チャップリンは最初の長編『キッド』'21.2までに66本の中短編の出演・監督経験があり、映画デビュー年の'14年には例外的にアメリカ映画最初の長編喜劇となった女優マリー・ドレスラー主演の『醜女の深情け』(マック・セネット製作・監督)に準主演の結婚詐欺師役で出演していました。またハロルド・ロイドは映画デビューの1913年~15年に短編26編、'15年に始まる放浪青年「ロンサム・リューク」シリーズには'17年までに短編77編(年間40編!)、'17年に始まる、ロイドのキャラクターを決定した「眼鏡と帽子」のハロルドの中短編は'21年までに95編(総計198本!)が『ロイドの水兵』'21.12以降の長編時代以前にあり、キートンチャップリンやロイドより年少で映画デビューも年の差の分遅かったのですが、キートンがプロデューサーのジョセフ・M・スケンクによって独立してバスター・キートン・プロダクションを構え、自分自身の監督・主演作を発表するようになったのは1920年で、'23年までに19本の短編を発表した後、初の長編『キートンの恋愛三代記(旧題・滑稽恋愛三代記)』'23から長編製作に移行します。
 バスター・キートン・プロダクションは'28年の『キートンの蒸気船』まで10本の長編を発表して解散し、キートンは大手映画会社MGMと専属契約しますが、MGMの方針はキートンをいち俳優として扱い、製作・企画・監督・脚本はMGM側のスタッフが担当するというものでした。キートンは『恋愛三代記』以前にもヒット舞台劇の映画化作品『馬鹿息子』'20に単発で俳優専業で出演経験がありましたが、キートンチャップリンやロイドに並ぶ存在にしたと言えるキートン自身のプロダクションの作品群の後、キートン自身の自主性の発揮する余地のないMGMの製作体制は作品自体の質の低下もあってキートンアルコール依存症に陥らせ、1933年度にはほとんど一方的にキートンはMGMとの契約を打ち切られます。チャップリンとロイドが旺盛な創作力と観客の嗜好を巧みに一致させて一時代を築き、名声を保ったまま引退までを演出してのけたのとは、キートンの処世の不器用さは対照的でした。またチャップリン、ロイドは自作映画の決定版マスター・プリントを保管していたので今日でも最上の状態で全盛期の全作品を観ることができますが、キートン作品はプロデューサーのスケンクもキートンも原盤を保管しておらず、またMGM時代の作品すらもがプリントの保管がずさんで、現存する流通プリントで観るしかありません。作品数でも全盛期の期間でも、また全盛期の人気でもキートンチャップリンとロイドには及ばない人でしたが、チャップリンにもロイドにもなくてキートン映画にしかない突き抜けた感覚があり、一度観たら忘れられない強烈なイメージにあふれる点ではチャップリンやロイドをしのぐとも言える俳優兼映画監督です。それはバスター・キートン・プロダクション作品の10本の長編を頂点に、凋落著しいMGMでの俳優専業作品でも残照のように映画の見所となっています。入手の容易な日本版現行ソフトのヴァージョン・画質がまちまちなのが残念で、またキートンの最高傑作は短編19編にあるとの見方もできますが、短編作品についてはまたの機会に譲ります。キートン映画の面白さはチャップリンやロイド作品以上に視覚的な鮮やかさ、意外性によるので果たして感想文で上手くお伝えできるか、何とかやってみようと思います。

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●7月1日(日)
キートンの馬鹿息子』The Saphead (監督ハーバート・ブラシェ、メトロ'20)*70min, B/W, Sillent; 本国公開1920年10月18日; https://youtu.be/ZAGct5dYE2k

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○あらすじ(DVDジャケット解説より) ウォール街のドン、ニック老の息子バーティ(キートン)は、ニックの里子のアグネスに恋をしていた。 彼女に気に入られようと、恋愛指南本に素直に従うバーティだったが、 そんな彼をニックはついに勘当する。巨額の小切手の「せん別」と共に。 一方、ニック老の周囲には、彼の財産を狙う影が蠢いていた……。

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 黒地に白く楕円の窓からキャスト一覧のクレジット・タイトル(一番最後にキートンと父親役の)が終わると、本編は「地獄の沙汰も金次第のウォール街」と、ウォール街の全景からウォール街を仕切る大物で「ウォール街の狼」ニック老のオフィスに移ります。取引先や秘書ターナーの事務(秘書はヘンリエッタ・レイノルズという女性からの病状悪化とお金の無心の手紙を握りつぶします)の情景の後、「ニック老の邸宅、期待の息子バーティの遅い朝食」とキートン登場が7分目。自宅で召使いにひげを剃らせながら母親に遊興三昧の生活をいさめられますが受け流し、田舎から出てくるアグネスを駅に出迎えに行きますが行き違ってアグネスはニック老邸でニック老夫妻と再会を喜びあい、一方キートンは待てども来ないアグネスに駅舎をふらふらしているうちに遊び仲間にパーティーに連れて行かれますが、パーティーは名目だけの違法ギャンブルで警察に踏み込まれ、加わっていなかったキートンは捕まらずに済みますが街に放り出されてしまいます(20分目)。翌朝キートンが帰宅すると朝刊では昨夜のギャンブル検挙とキートンが居合わせたことが報道されており、キートンは父のニック老から1万ドルの小切手を渡され勘当を言い渡されますが、アグネスはキートンと結婚するとニック老に抗議、ならばとニック老は小切手を100万ドルに書き変えて勘当します。アグネスはキートンの部屋にあったヘンリエッタの肖像を尋ねますが、手紙だけで会ったことがないんだと答えます(30分目)。「リッツ・ホテルでの慎ましい暮らしの始まり」キートンは10万ドルでウォール街の株主席を1席買ったとアグネスに実業家活動開始を伝えて二人は翌週に結婚式を挙げる決意をします。当日ニック老邸に乗りこんだ二人はアグネスには甘いニック老夫妻は挙式に立ち会いますが、ヘンリエッタ急死の知らせが届き、ヘンリエッタの父からのヘンリエッタの手紙の束がターナーからキートンに渡されますがキートンは暖炉に手紙を投じ、ニック老はキートンに出ていけと命じ結婚式は中止されてしまいます。それから急に「ヘンリエッタ」株の暴落が始まります。亡くなった女性ヘンリエッタターナーが糸を引く女性でターナーキートンヘンリエッタへの無情をなすりつけ、暴落する「ヘンリエッタ」株はニック老が大株主の「ヘンリエッタ金鉱」株であり、暴落に乗じたターナーの乗っ取り工作なのが判明します。一方新米相場師のキートンヘンリエッタ株の騒動を自分を馬鹿にしていると勘違いして激怒し、ヘンリエッタ金鉱株を買い占めて株価を上昇・回復させます。ターナーは詐欺罪で逮捕され、株会場で服装もぼろぼろになったキートンは父ニック老邸に帰って「ヘンリエッタの救い主だ!」怒るキートンに「ヘンリエッタ金鉱だよ」翌朝、キートンは改めて父親の事業を破産から救った功績を讃えられます。
 本作はキートンがジョー・M・スケンクが設立したバスター・キートン・プロダクションで自作自演の短編を製作し始めてから単発の依頼でメジャーのメトロ社の長編映画の主演に抜擢されたもので、もとはダグラス・フェアバンクスが'13年に主演したヒット舞台劇でした。映画化も当然フェアバンクスに打診されたのですがフェアバンクスはこの頃すでに映画界のトップスターになっており、主演以外は舞台劇でヒットした時のキャストが揃ったもののフェアバンクスが出られないのではどうするか、と本人に相談した所、フェアバンクスの指名でキートンが主役に抜擢されたという経緯があります。フェアバンクスの慧眼はさすがですが、本作ではキートンはあくまで舞台劇の映画化の主演を勤めたにとどまる点でこの映画はコメディではあるけれどキートン喜劇とは言えず、また'70年代にプリントが発掘されるまで長い間散佚作品と思われていたので本作は二重に重視されてこなかったキートン主演の初長編です。映画自体は'20年のコメディ風サイレント・ドラマ長編としてはごく標準的な出来で、注目すべきは後年キートン・プロダクションでの長編のいくつか、『海底王キートン』'24や『キートンのラスト・ラウンド』'26で演じる金持ちの馬鹿息子キャラクターの原型が見られることくらいでしょう。見所はムキになってヘンリエッタ金鉱の株を買い占める証券取引所の場面ですが、映画全体のギャグは稀薄でキートンが階段で転ける、路面電車から転げ落ちるなど些末なものにとどまります。スラップスティックではなくドラマが主体の映画なので喜劇映画のキートンを求めると物足りないのは仕方ないのですが、ロスコー・アーバックル主演・監督の短編喜劇14本('17~'19年)の助演時代に確立したキートンのトレード・マークである無表情("Stone Face")はこの長編コメディ映画でもすでに発揮されており、キートン・プロダクションの短編はまだ同年9月に第1作「キートンのマイホーム」One Weekが公開、ヒットしたばかりでしたし、キートンキートン・プロダクションで長編に乗り出すのも'23年3月公開の短編19作「キートンの捨小舟」The Love Nestの次作、『キートンの恋愛三代記』'23.9からですから本作の出演経験は役立ったと思われます。チャップリンは66本(+準主演長編1作)、ロイドには198編(!)の短編時代を経て長編に乗り出したのに較べて、キートンは助演時代の短編14本('17~'19年)・自作自演時代になって短編19本('20~'23年)と大きな経歴の開きがあり、また結果的にはチャップリンやロイドの主演長編に先駆けて、舞台劇コメディの映画化という消極的な役ですし単発企画のいち俳優としてですが、長編映画の主役を勤めたのはまだ売り出し中の新人キートンには絶好のチャンスだったはずで、すでに一家をなしていたチャップリンやロイドには回ってこない役ですしキートンのキャラクターにも良く合っています。キートンの主演を除けば本作は1920年の平均的なサイレント時代のコメディ・ドラマ映画の典型で、そつない出来で可もなく不可もないよりは見所があるのはひとえにキートンの出演が目を惹くからでもあり、また出演者たちもヒット舞台から演じてきた俳優だけあってこの後のキートン・プロダクション作品の出演俳優たちより各段に上手く、後のキートン長編からさかのぼって観れば普通映画で好演しているキートンの姿を楽しめる作品です。また100年近い歴史の濾過を経ているので'20年の普遍のサイレント映画はかえって歴史に埋没してしまっており、特に話題作でも名作でも格別のヒット作でもない普遍の映画というのが本作の稀少価値とも言えるので、『キートンの恋愛三代記』以降の代表作をひと通り観てから観ればなかなか愛すべき出演作として楽しめます。また本作単体で観ても、キートンだけが他の俳優たちを抜いた存在感を放っているのが感じられるのではないでしょうか。

●7月2日(月)
キートンの恋愛三代記(滑稽恋愛三代記)』The Three Ages (共同監督エディ・クライン、バスター・キートン・プロダクション=メトロ'23)*47min, B/W, Sillent; 本国公開1923年9月24日; https://youtu.be/yw8kcQc6YUo

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○あらすじ(DVDジャケット解説より) 愛は普遍。古来より、親はそれぞれの基準で娘の交際者を選別し、同時に娘が、親の決定に従う事もない。 そして、その娘を想う冴えない男(キートン)も、いつの時代にも存在するものだ。 石器時代古代ローマ、現代を舞台に、「三代」を貫く恋愛の方程式を、躍動感あふれるキートン・コメディで描く!

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 '20年9月公開の「キートンのマイホーム」から'23年3月公開の「キートンの捨小舟」まで19編の短編喜劇を送り出してきたバスター・キートン・プロダクション作品、初の長編映画となった本作はD・W・グリフィスの伝説的大作『イントレランス』'16のキートン流パロディというべき作品で、『イントレランス』は後続の歴史映画に大きな影響を与えましたが古代バビロニア古代ローマ、中世フランス、現代アメリカの悲劇をカットバックで平行して描く、という手法ばかりは当時の観客にはあまりに難解すぎ、カール・Th・ドライヤーの『サタンの書の数頁』'19やセシル・B・デミルの『十誡』'23など『イントレランス』影響下の作品でも異なる時代ごとのエピソードをオムニバス構成に並べたものになっていました。異なる時代を対照させた類似作が散見されることから本作を『イントレランス』と無関係と見なす意見もありますが、それらオムニバス構成の作品とは異なり石器時代古代ローマ時代、現代アメリカの物語をカットバックで描いた本作は『イントレランス』の手法をもっとも直接に受け継いだ作品になっているのは明白です。『イントレランス』ではリリアン・ギッシュ演じる少女が時の揺りかごを揺らす挿入カットが象徴的にあしらわれましたが、本作では白衣で鎌を持つ天使兼悪魔(?)が「Three Ages」という書物を開きます。「古来から親はいろいろなやり方で結婚相手を選んできた」まず「石器時代」ヒロインの両親(二人とも巨体)が立ち会う投石競争の後で亀を使った占い盤でキートンが亀に指を噛まれます。「古代ローマ時代」二頭立て馬車でキートンが路傍に駐輪しようとしますが憲兵に注意されます。ローマ文字の標識が英語の「No Parking」にオーヴァーラップし、キートンは迷った挙げ句占い館に入ります。現代のヒロインが窓辺に佇む家に2台の車、一方はキートン、一方は恋敵の大男、ウォーレス・ビアリーです。二人は先を争って家に入り、ヒロインの両親を交えた会話からキートンは閉め出されてしまいます。石器時代キートンとビアリーの投石競争のズル合戦。古代ローマ時代、路上でハープを弾いて歌うキートンにヒロインと一緒に2階にいるビアリーが瓶を落としてキートンはぶっ倒れます。現代、劇場から出てきたヒロインとビアリーをキートンは追いかけて一緒のレストランに入り、ビアリーが席を外すたびキートンがヒロインを誘いますが上手くいかず隣席の男に勘違いされ殴られる隙にビアリーはヒロインと出ていってしまいます。石器時代、ビアリーと決闘することになったキートンは代書屋の女に石盤に遺書を刻ませ、翌朝の決闘ではあっさりぶちのめされてしまいます。古代ローマ時代、馬車競争で決闘することになったビアリーは4頭立て馬車ですが、キートンは4頭立ての犬ぞりで、市街地レース途中ビアリーの仲間に猫を囮に妨害された上にライオンのいる地下牢に閉じ込められてしまいます。現代、フットボール試合でいい所を見せようとしたキートンは試合が始まってすぐのされてしまいますが、何とか面目を保つものの、ビアリーがヒロインを連れて結婚式場の予約に行くのを見ます。石器時代、象の尻尾に結ばれ引きずられてきたキートンは解放されるやヒロインをさらって逃げ、ビアリー陣営とキートン陣営の投石合戦になります。古代ローマ時代、ヒロインがビアリーに無理矢理さらわれ、ライオンの前肢に刺さったトゲを抜いてやって脱出してきたキートンは駆けつけます。現代、キートンはビアリーが結婚詐欺の指名手配犯なのを発見し、結婚式場からヒロインを連れ去ります。「いつの時代も愛は結晶を生む」と、洞穴から10人あまりの子供を連れて出てくる古代時代のキートンとヒロイン、街中に5人あまりの子供を連れて出てくる古代ローマ時代のキートンとヒロイン、そして現代、キートンが家から出てくるとヒロインと愛犬が見送り、エンドマーク。
 結末で結婚式場から花嫁をさらってくる、相手の男は結婚詐欺師というのは『猛進ロイド』'24も同じですが、サイレント時代の映画では結婚詐欺師が実に頻繁に登場するのは現実に多かったのか映画という虚構でのみ流行した趣向だったのかはよくわかりません。本作は凝った複雑な構成とも、石器時代古代ローマ時代、現代アメリカとも話の進行は同じなので単純とも言えるのですが、映画史家トム・ダーディスの評伝『バスター・キートン』では実質的には短編3編を並列的に構成した、長編と呼ぶには過渡的な作品と目されています。ダーディスは喜劇映画の長編化の功績ではロイドをもっとも重視していますが、本作公開の'23年9月にはロイドの第5長編『ロイドの巨人征服』が先に公開されているので、ロイド作品を長編第1作『ロイドの水兵』'21.12、第2作『豪勇ロイド』'22.9、第3作『ドクター・ジャック』'22.12、第4作『ロイドの要心無用』'23.4と辿ってくるとその間キートンは短編製作時代だったわけで、チャップリンの『キッド』'21.2以来の長編第2作が'23年2月公開の『偽牧師』で、メロドラマ作品『巴里の女性』'24を挟むとはいえ喜劇映画の第3長編『黄金狂時代』が'25年8月までかかっているのを思うとロイド作品の着実な発表ペースと質の高さが痛感されます。チャップリン作品は彫拓を重ねた名作揃いですがロイドはもっと柔軟でしかもよくこなれた娯楽性がある。ロイドがすでに『要心無用』や『巨人征服』を作った頃にチャップリンの『偽牧師』は大人向けで渋みが効きすぎ、ようやくキートンが自身の監督で作った長編が『恋愛三代記』と思うとキートン作品はいかにも荒っぽく、まだ短編喜劇の作風の延長にあるような強引さが目立ちます。こんなに感触の違いがあるとは今まで思わなかったので、先月ロイドの長編をひと通り観直したばかりだからこそ感じるのでしょうが、同時代の観客にはスマートなロイド喜劇に較べてキートン作品は野暮ったさが難点になっていただろうと想像に難くないのです。筆者は長らくロイドとキートンならキートン映画の方が衝撃力と訴求力に富むと愛着を持っていたので、今回ほぼ続けてロイド作品とキートン作品をまとめて観直すと、丁寧で粗のないロイドの映画の後ではキートンの映画はあまりに強引でムラが多いのに面食らう思いがしました。ロイド作品が古びても洗練された感覚は伝わってくるのに対して、キートン作品の古びかたは映画の仕上がりの粗さに見えてくる損があります。ギャグのアイディアの豊富さや奇抜さ、起爆力、絶妙な体技などはキートンは抜きん出ており、石器時代の投石勝負や代書屋に遺言(石盤に刻む)、古代ローマ時代の馬車対犬ぞり、現代編の細かいギャグとオチなどキートン・プロダクションのブレインと一緒に生み出したとしてもチャップリンやロイドの日常的現実の延長をちょっとずらしたところから発想する、または完全に空想の世界にするギャグとは違った意表の突き方で、もっと成功した作品ではキートンのギャグは悪夢のリアリティと共通するセンスが指摘されるゆえんです。本作も『馬鹿息子』とは違い、すでに短編19作を送り出したマネジメントのジョセフ・M・スケンクがプロデューサーのバスター・キートン・プロダクション作品で、キートンが主演・監督を兼ね、共同監督を立ててはいるものの監督権はキートンにある作品だけあって50分を切る尺(現存フィルム。オリジナルは60分を超えていたようです)にギャグ盛りだくさんで、メモを採りながら見るとギャグをメモしているのかストーリーを追っているのかわからなくなります。次作の長編第2作『荒武者キートン』からドラマらしい設定が取り入れられますが、本作は粗っぽい仕上がりでも短編と長編の過渡期的な構成であってもそれが本作ならではの魅力にもなっているのも否定できず、本作に先立ち『豪勇ロイド』で祖母が語るロイドの祖父の南北戦争時代の武勇伝のカットバックや、チャップリンのデビュー年の短編にも石器時代ものがありましたが、長編全篇を3時代のエピソードの同時進行のカットバックで見せるのは同工異曲の恋敵ものとしても思い切った試みで、実質的に長編監督第1作ならではの意欲が感じられ、チャップリンやロイドのようなスムーズな映画づくりに巧みでないだけなおさら肩を持ちたくなる面があります。完成度では『馬鹿息子』とは比較にならないほど拙く見え、知らずに両作品を観たらほとんどの人が本作の方が製作年代の古い長編映画の確立期以前の作品のように感じるでしょう。しかしそれもキートンが標準的な長編映画と違ったものを作ろうとしたと思えば、本作は一見すると拙く見えるほど破天荒な出来ゆえに、意欲的な長編第1作として鮮烈な印象を残す作品になっているとも言えます。出来はまだ短編時代の傑作「キートンのマイホーム」や「キートンの警官騒動」The Cops ('22)に及びませんが、次作『荒武者キートン』では早くも短編時代の傑作に匹敵する長編作品に成功するのです。

●7月3日(火)
『荒武者キートン』Our Hospitality (共同監督ジョン・ブライストン、バスター・キートン・プロダクション=メトロ'23)*68min, B/W, Sillent; 本国公開本国公開1923年11月19日; https://youtu.be/cRNObtP_Fgo

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○あらすじ(DVDジャケット解説より) キャンフィールド家とマッケイ家は確執が続いていた。 愚かな争いを逃れられるよう、幼いウィリーは遠方の叔母に託される。 一方、キャンフィールドの息子達はマッケイ家を滅ぼすよう育てられる。 20年後、ウィリー(キートン)が遺産相続のため帰省。それを知ったキャンフィールド父子は狂喜する。 悲しいかな、ウィリーの恋した女性もまた、キャンフィールドの娘だった。 今再び、復讐の連鎖が始まろうとしていた……。 シリアスな世界をキートン調の笑いで描くサイレント・コメディ!

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 映画は「家系同士の争いが昔のアメリカではあちこちで見られた。1810年――」とキャンフィールド家とマッケイ家の因縁が始まります。嵐の晩に赤ん坊と家で夫の帰りを待つ若い母、重傷で帰宅し死亡する夫。「争いは永遠に続く」と舅。赤ん坊はニューヨークの遠縁の家に預けられます。1830年、成人した赤ん坊、主人公のウィリー(キートン)は成年に達したことから遺産相続手続きの頼りを受け、叔母からキャンフィールド家との因縁を聞いて決してキャンフィールド家には近づかないことと注意され、馬車、汽車と乗り継いで馬車でも汽車でもずっと隣席に乗り合わせたヒロインと親しくなります。一方当主と二人の息子がいるキャンフィールド家のもとには末子が次の汽車で帰ってくる頼りが届きます。汽車はさんざんな運行を経て駅に到着し、汽車にずっと着いてきた犬はキートンになついて着いてきますが、キートンはキャンフィールド家の息子に知らずに道を訊き、マッケイ家の跡取り息子だと知られてしまいます。キャンフィールド家の息子は通りかかったバーで拳銃を借りますが通りがかりの家の前で夫婦喧嘩に割って入ってぶっ飛ばされたキートンを見失います。キートンは道すがらヒロインに庭先から呼び止められて夕食に招待されます。すっかり荒れ果てたあばら屋になっているマッケイ家に着いたキートンは釣りに向かい、キャンフィールド家の親父と二人の息子に狙われながら釣りに行ってダム爆破の洪水に巻き込まれ、おかげでキャンフィールド家の追跡を逃れますが、ヒロインの家に夕食に招かれて召使いに家名を訊きキャンフィールド家と知って驚愕します。キャンフィールド家当主は息子たちに家の中にいる間は客人だから殺せないと告げます。出方の探りあいをしながら家を一歩でも出たら撃たれる、と気づいたキートンは、夕食後の雷雨に乗じてキャンフィールド家に居座ることにします。当主は娘にキートンがマッケイ家の跡取り息子だと告げます。ヒロインは殺すつもりなのかと父や兄たちを問い詰め、一方キートンは女装して逃げ出し、汽車に紛れ、馬に乗って逃げ、岩壁を伝って追跡を逃れようとします。キャンフィールドの息子が垂らして降りてこようとしたロープを結んで隣の岩壁に飛び移ったキートンは落下してきたキャンフィールドの息子ともども崖下の湖に落下、息子の側のロープがほぐれてロープを引きずったまま線路を渡って逃げたキートンは今度は通りかかった汽車にロープが引っ張られて引きずられ、車輪が絡まってようやく停車した汽車に乗り込みますが連結器が外れて貨車ごと川に転落。ちょうど河辺にいたヒロインが流されていくキートンを発見してボートで救いに行こうとしますがボートは転覆。先に岸に着いて流されるヒロインに気づいたキートンは滝でロープを岩に止まった流木に結んで滝を落下するボートを見送り、続いて滝を落下するヒロインをロープで遊泳して捕まえると岩場へ下ろし、ロープを結んでいた流木を切り離してヒロインを抱き起こします。夜、捜索が打ち切られ、明日には捜索隊を出そうと話しあうキャンフィールド家の父と息子たちがヒロインの部屋を開けると抱き合うキートンとヒロイン。牧師が当主に「花嫁にキスを」、娘を抱擁し壁にかかった聖句「汝自身を愛するように隣人を愛せよ」を見て息子たちを促す父、拳銃をテーブルに置く息子たち。キートンもようやく安心しピストルをずらりと懐から取り出し、エンドマーク。
 原題の『Our Hospitality』の語義は「最高のおもてなし」ですからちゃんと意味のあるタイトルなのですが、ほとんどの長編が'70年代のリヴァイヴァル公開時に原題に近い題名に改題された時も本作は大正時代の初公開時の邦題が踏襲されています。本作はキネマ旬報ベストテンに唯一選出されたキートン作品で、第2回(1925年/大正14年)の「娯楽的に優れたる映画」第8位になり、同年の同部門第1位はラオール・ウォルシュの『バグダッドの盗賊』、第5位に『猛進ロイド』が入っています。キネマ旬報ベストテンは第1回と第2回は外国映画のみで「芸術的に優れたる映画」と「娯楽的に優れたる映画」に分けてベストテンが行われ、第3回から日本映画・外国映画(一本化)それぞれのベストテンになり、トーキー導入年に一時的に発声映画(トーキー)部門と無声映画(サイレント)部門に分かれましたがこれもすぐに一本化しています。本作は2家の因縁の争いという『ロミオとジュリエット』から西部劇までお馴染みのテーマですが、まず1830年の世相風俗考証をギャグに生かしているのが抜群で、キートンの漕ぐ自転車はペダルのない足で地面を蹴って進む自転車ですし、汽車は遊園地のちんちん電車以下の代物で追いかけてくる犬の方が速いほどですし、線路に牛馬が足を引っ掛けて立ち往生していると線路の方をずらして進むような塩梅で、この1830年型の復原機関車は撮影後に博物館が価値を認めて買い取ったそうです。偶然隣合わせて親しくなったヒロインが仇家の娘だったという偶然も映画をサクサク進めるための方便で、このヒロインはキートン夫人となるナタリー・タルマッジが演じていますが、ロイドの初期長編のヒロインのミルドレッド・デイヴィスがロイド夫人になって円満な家庭を築いたようにはいかず、離婚後まで引きずる家庭不和が始終することになります。キートンが仇家の夕食に招かれ、滞在中は形だけ友好的だが一歩外に出たら撃たれる、という状況になるブラック・ユーモアはさすがで、命からがら逃げ出す、追跡されて岩壁から大河に落ちる、河辺でキートンを心配して探しにきていたヒロインがボートで助けようとするが転覆する、滝壷に転落するヒロインを間一髪でキートンがロープの遊泳でアクロバティックに救う、というクライマックスは、さすがに滝壷転落救出だけはセット撮影だそうですが実物大の岩壁と大河と滝壷、とんでもない高低差と水量ですから、安全面を配慮してあっても実際に実演しているわけで、セットであろうと驚異的な場面には違いありません。仇家の腹の探り合いのシーンも面白いですが、1830年の汽車とクライマックスの滝壷転落救出が何と言っても見所になっている映画です。『恋愛三代記』がグリフィスの『イントレランス』を下敷きにしているように、この救出シーンはやはりグリフィスの『東への道』Way Down East (1920)の氷河に流されるヒロイン(リリアン・ギッシュ)を主人公(リチャード・バーセルメス)が氷河を伝って救出するクライマックスに由来するものでしょう。『恋愛三代記』でも本作でもそうですが、キートンは痩身で小柄で(実際はさほど小柄でもないでしょうが、他の出演者はみんな大柄な役者を選んでいるので小男に見え、またヒロインと並ぶとほぼ同じ背丈ですから決して男性としては小柄に見えます)、それがクライマックスでは爆発的な身体能力を見せるのはロイドと共通しますが、キートンはさらに如才なく機知に富む(または極端に純情だったり、呑気だったり神経質だったり)ロイドのキャラクターと違って無表情でボーッとしていてたいがい困惑している、という不器用を絵に描いたようなキャラクターですから、爆発力はロイド映画のクライマックスより大きなものです。またロイド映画は小ギャグを積み重ねていきスムーズにギャグとストーリーが連動するものですが、キートンのギャグは前後の脈絡なく突然降りかかってきてそれが連続するのか一難去ってひと安心なのかもわからないような不規則なタイミングで現れます。チャップリンやロイドの映画はギャグとストーリーがグラフにするなら丸く安定した周期性を描いてクライマックスに向けて周期が高まっていくようなものですが、キートン映画の進行をグラフにすれば破線だらけの鋭角的な折れ線グラフを描いて予測のつく軌跡など読み取れるものではないでしょう。本作は『恋愛三代記』と違ってキャラクターの配置、ストーリーの統一など長編らしい構成を備えた作品になって、ムードの演出とドラマティックな展開、圧巻のクライマックスなどキートン長編映画の最高傑作のひとつと言えるものですが、あまり破格な落差のテンションで展開されるため長編ではあっても長編規模で描かれた短編、という感じもしてくる感じが強く、チャップリンやロイドの長編では主人公はドラマを通して性格の変化や、性格は変わらずとも外界との関係の変化、認識の変化を経験するので、一般に長編映画とはそういうものです。しかしキートンの映画ではキートンはクライマックスでは勇敢になっても性格は映画の冒頭で登場した時と変わらないので、それが全盛期にあってもチャップリン、ロイドに次ぐとは言えその他大勢の喜劇俳優の中のトップクラスに留めることになったと考えられます。バスター・キートン・プロダクション時代のキートン作品は短編19本、長編10作すべて傑作名作秀作佳作と言えるものですが、公開当時にあっては長編らしいドラマ性の単純さ・稀薄さがチャップリンやロイドほど広い観客をつかめなかったのは、後世では逆にその点がキートンの再評価に結びついたと思うと、評価の盛衰についても考えさせられるものがあります。